そういえば小学生の頃、「将来の夢」を書かなければいけないことが何度もあって困った。周りの友達は「野球選手」「女優さん」など華々しい職業名を書けているのだけれど、どんな仕事に就きたいのかどうしても想像できなかった。それで未来の自分がどんな暮らしをしているのか、ぼんやり思いを馳せると、どこか自然豊かな、ちいさな村のような穏やかな場所で、てらてらと小川が流れていて、僕はおじいさんで素朴な小屋に住んでいる。小屋にはさんさんと陽光が降り注いで、お茶でもすすりながら美味しいなあと、ポロンポロンとピアノを弾いている。「将来の夢」を考えると、いつもそんな光景が頭に浮かんだ。
まだピアノも習っていなかったし、新興住宅地に住んでいたので、そんな風景に馴染みもなかったのに。あれから30年経ったいま、ぐるり辺りを見回してみると、僕はおじいさんではないけれど、おじいさんたちと村で暮らしながら、庭に小川がある家で、窓を開け放って太陽や風を感じながらピアノを弾いている。あの頃、頭の中で見ていた暮らしがここにあるので、どういうことなんだろうと不思議な気持ちになる。
季節が巡っていくように、頭や躰にも巡りがあるようで、最近は、20歳の頃に夢中で取り組んでいたことに、もう一度きちんと向き合いたいと感じるようになった。まだ世間も社会も知らなかったあの頃、ビデオカメラを片手に、見知らぬ国をたくさん旅した。撮影したのは壮大な景色や名所ではなく、本当になんでもない、町の広場にある、ただ朝陽に輝く噴水。はじけ飛ぶ水しぶきを嬉々として撮影している異国の若者を見て、現地の人たちは変だな、そんなもの日本にもあるだろうと思ったに違いないけれど、「こんなところに探していたものがあった」と涙するくらい心躍った。
何を探していたのかと問われれば、きちんと答えられないのだけれど、ずっとこれに出逢いたかった、ずっと探していたと、出逢えた時にようやく気づくような、きっと自分にしか気づけないささやかな秘密が世界のあちこちに隠されている気がする。ひとつひとつ、そんな秘密に出逢っていくことに人生の意味があるような、そんなふうに思えると、まだ知らぬ領域へと足を一歩進めたくなってくる。
この冬は、やりたいことがやれるように、あたらしく音楽機材を探して手に入れてみた。少し触ってみるだけで好きな音が出てくる。でも、それが何だかまだ自分のものではないような、借り物のような気がして、どう扱っていいのか戸惑っている。素敵な音が鳴っているし、そのまま録音すれば曲になりそうだけれど、もうちょっと自分のものと思えるまで待ったほうがいいのだろうか。
グランドピアノが部屋にやってきた時のことを思い出す。ずっとアップライトという箪笥のようなピアノを弾いてきたので、馴染むまで2年も掛かった。アップライトと同じようにグランドピアノを弾くと、音が小さく遠くに感じる。もっと鳴らそうとして力を込めると、乱暴にうるさくなってしまう。
演奏するのも嫌になってしまったけれど、自分がやりたいことではなくて、グランドピアノがこの形で、この存在で、一番鳴らそうとしている音を「聴いてみよう」と心を変えると、奥深く包まれるような音が出てくるようになった。自分を諦めて手放して、ようやく自分のもの、自分の音だと思えるようになった。今度のあたらしい機材にも同じようなことが起こればいいなと、こっそりとただの音遊びに呆けている。
冬は、なんだかそわそわする。山の気配も静まり返るし、寒いから躰もぎゅっと縮こまる。それなのに、心のなかに、まだ見ぬ春の予感だけがざわつく。
芽吹きたい気持ちだけが先走っている。美しい桃色や緑色がふわっと姿もなく、香り立っては去ってゆく。それで、あれもこれも今のうちに、春が来る前にやっておかなければと焦りだけが雪のように積もっている。どこか心が彷徨っているようだ。
何をすれば落ち着くかなと、深呼吸をして思いを馳せると、子どもの頃に見た夢の続きが、おじいさんになった未来の自分がぼんやりと浮かんでくる。お茶をすすりながら、こっちを見て笑っている。なんだかやりたいのにやれていないことがたくさんある。
やってみればよい。