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連載 | こといづ

あるんだから

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生きているといろいろある。やっぱり、人と人。いいことばかりでもなく、なにか変だなと疑問を感じたり、嫌だな、しんどいな、無理だなと感じる時もやってくる。逃げ場のないような、追い詰められたような居心地で、夜も眠れず、もう何もかも諦めて逃げてしまいたくなる時もくる。そんな時は、けんかになったり、話し合ったり、ちょっと離れてみたり、ほかのことに集中して忘れてしまったり、なんとかやり過ごしてきた。つい最近、ずっと仲のいい妻と珍しくけんかになってしまって、ギスギスした空気に、ああ、早く仲直りして普通に戻りたいと願う一方、モヤモヤと頭をかすめるものがあって、なんだろうとちょっと立ち止まって考えてみようと思った。

元気いっぱいの息子がいて、妻のお腹にはもうすぐ生まれてくる次男がいる。いま、僕たち夫婦は、経験したことのない最新の状況にいるけれど、これまで何度かけんかした時と同じ点でふんふんと怒りあっている気がしてきた。他人事のように、あっけらかんと自分たちを眺めてみると、互いに怒っていたのは、ただただ相手が……し「なかった」こと?

あの時、こうしてくれなかった。こうしてくれると思っていたのに、しなかった。「なかった」ことはいつまでも「なかった」ことなのに、そんなこと、怒っても何にもならない。

「なかった」の周りを見渡すと、これはしなかったけれど、あれをした、これはなかったけれど、あれはあった。大きなことはなかったけれど、ささやかなことが、あった、あった、あった。あんなことも、こんなことも、「あった」「あった」「あった」。「あった」ばかりで満たされていることに気づく。もうけんかしていることが馬鹿馬鹿しくなった。「あった」は楽しいことばかり、幸せばかりだった。「あった」「あった」「あった」。

頭を冷やすために外出してしまった妻が帰ってくるなり、落ち着いてこの話をしたら、そうだそうだとなって、けんかのことはそっちのけ、ほかのモヤモヤごとも同じように、何があって、何がないのかをゲームのように言い合った。例えば、3歳になる息子は、〇〇がまだできない、〇〇してほしいのにやってくれない、ああもう、「ない」ものは「ない」でいい。「ある」のは、笑顔、かわいい声、泣きっ面、とんでもないアイデア、遊び、夢中、好奇心、元気、いたずら、こだわり、やさしさ、幸せばっかりだ。「ある」に目を向けると、子育ての苦労が、すっ飛んで、息子そのものとようやく出会えた気がした。

「あった」「ある」がほんとうで、「なかった」「ない」は勝手な憧れ、妄想だった。「ない」は気にしなくていいのかもしれない。そうやって、何が「ある」のだろう、何が「あった」のだろうと、世の中を見渡したり、自分の人生を振り返ると、ややこしかったパズルが解けて、すーっと感謝の気持ちが湧いてきた。数多の有り難い「あった」「ある」に囲まれておるよ。

そういえば、このエッセイの単行本が出版された時、帯に「あるんだから」という村のおばあちゃんの言葉を使わせてもらったのだった。そうそう、あるんだから。あるんだから。うん、いいな。毎日、心で唱えてみよう。あるんだから。あるんだから。

文・高木正勝 絵・Mika Takagi

たかぎ・まさかつ●音楽家/映像作家。1979年京都生まれ。12歳から親しんでいるピアノを用いた音楽、世界を旅しながら撮影した「動く絵画」のような映像、両方を手がける作家。NHK連続テレビ小説『おかえりモネ』のドラマ音楽、『おおかみこどもの雨と雪』『バケモノの子』の映画音楽、CM音楽やエッセイ執筆など幅広く活動している。最新作は、小さな山村にある自宅の窓を開け自然を招き入れたピアノ曲集『マージナリア』、エッセイ集『こといづ』。www.takagimasakatsu.com

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