TOP写真:多くの人が働いているであろう、東京の風景。
古い社会の中心にはシャーマンのような呪術者がいて、お告げや占いによって政が行われていました。古代日本における卑弥呼のような存在が思い浮かぶのではないでしょうか。
精神科医の木村敏は著書『異常の構造』の中で、常識的日常の基本原理を私が私である世界、それを「1=1」と表現しました。日常の世界とは異なる超日常の世界である祭礼の場では、宗教者は観念の中で神自身になったり、または熊や鹿や狐のような獣になったりすることもあったでしょう。民俗学者の折口信夫は祭礼の場で神に訴えかける言葉が「ウタ」に、そのときの所作が「マイ」になり、激しく舞うことが「クルウ」であったと述べており、私が私ではなくなり、私の同一性や世界の単一性から逸脱する状態は、まさに「狂気」と表現できるかもしれません。
しかし木村は、統合失調症の権威、シルバノ・アリエティの研究を援用し、「常識」というものに疑問の眼差しを向けます。例えば、アメリカ先住民は「あのインディアンは速く走る」「牡鹿は速く走る」「したがってあのインディアンは牡鹿である」というような思考を行うことがあり、アリエティはその思考様式を「古論理的思考」と呼びました。木村は古論理的思考について「私たちの合理性ということとは一致しない」としながらも、彼らなりの「常識があるはず」だとします。
木村が示唆した時や場所によって「常識」には差異があるということ、また時代ごとの「常識」によってつくられた「狂気」に関して西洋社会の膨大な資料を集め、その構造を明らかにしようとしたのがミシェル・フーコーの著書『狂気の歴史』です。
「狂気」は社会によってつくり出される
フーコーによれば古代から14世紀〜16世紀頃のルネサンス期あたりまで、「狂気」は神聖な存在と見なされることもある、ある程度社会に受容されるものでした。しかし、17世紀になると勤勉さに社会的価値を見る観念が現れました。科学革命が起こり、資本主義が萌芽するこの時期、労働力となれない、物乞い、放蕩者、老人、狂人などは、救貧院や感化院にひとまとめにして、社会からの排除や隔離、監禁をされるようになります。その後、社会的な労働力不足もあり、排除されていた人々は徐々に解放されていきます。18世紀末頃からは狂人は治療の対象と見られるようになり、保護施設に移され、やがて心理学が登場します。
また、フーコーには『監獄の誕生』という著書があり、そこでは現在の学校や会社などの施設が監獄に基づいて設計されていることが描かれています。そこに登場する「パノプティコン」という、後の社会に大きな影響を及ぼしたとされる監禁施設は、円形の建物内に独房を設け、中央の監視塔からは受刑者が常に監視されている感覚を持つように設計がされ、そのことで受刑者はやがて自分自身で自分を監視するようになるとします。拘束の対象が身体から精神に変わったというわけです。ルールに病的に厳格で、それを他人にも強いてくる人がたまにいますが、それは「パノプティコン」に影響された典型例といえるのかもしれません。
生産からの排除
こうした「狂気」の歴史を振り返ってみれば、「狂気」が社会によってつくり出されてきたものであることがわかります。その中で興味を惹かれるのが、「狂気」を持つ存在として排除された人々が労働力不足という理由によって、生産の担い手として再び社会に受容された点です。これは経済のあり方、生産との関わり方が社会の「常識」と「狂気」の取り扱いに影響を与えたと考えることができそうです。
いま、AI技術によって私たちの仕事の多くが失われるということが盛んに議論されています。生産から切断されたとき、私たちの社会はどのような「常識」を生み出すでしょうか。
現代人の多くは、職業、肩書を持ち、生産力として社会の中で機能していることがアイデンティティとなっていると感じます。生産力のない者はニートとかひきこもりと呼ばれ、強い社会的プレッシャーをかけられてしまいます。
近代以降、社会の流動性の中に身を投じ、アイデンティティを見失った人たちが全体主義に集結していく様子を、これまでの連載でハンナ・アーレントやアーネスト・ゲルナーやホセ・オルテガ・イ・ガセットの著作を通じてみてきました。第二次世界大戦後の社会では、故郷、地縁、血縁とのつながりが希薄になりながら、社会の中で生産力として機能することで現代人は自らのアイデンティティを確立しようとしてきたと自分は考えています。そのアイデンティティの根拠が揺らぎ、生産から排除され、職業や肩書を喪失したとき、人はどこに立ち返ることができるのでしょうか。いま、まさに「常識」や「狂気」について深く捉え直さなければならない時期に差しかかっているのではないでしょうか。
文・題字・絵 坂本大三郎
さかもと・だいざぶろう●山を拠点に執筆や創作を行う。「山形ビエンナーレ」「瀬戸内国際芸術祭」「リボーンアートフェス」等に参加する。山形県の西川町でショップ『十三時』を運営。著書に『山伏と僕』、『山の神々』等がある。
記事は雑誌ソトコト2023年11月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。