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サスティナビリティ

連載 | フィロソフィーとしての「いのち」

いのちはともにくるしむ

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わたしが医師になり立てのころ、人を「なおす」「よくする」ことだけにフォーカスが当たっていた。医師だけではなくても、医療従事者であれば誰もが感じることだろう。病気で困っている人がいる、なんとかその人の助けになりたい、治せる病気があれば治したい、そうした力になりたいと思い、そうした思いが原動力となって医療関係の仕事に就くことが多いのではないかと思う。

ただ、医師として働いている中で、人を「なおす」「よくする」だけではなく、人が「なおる」「よくなる」というプロセスへも興味や関心が移っていった。治癒プロセスの背後にある不可視の場の力は何だろう、なぜ「なおる」場合と「なおらない」場合とがあるのだろう、と。
「なおす」と「なおる」。日本語が一文字違うだけで、意味合いが大きく異なる。言葉とは不思議なものだ。
さらにいろいろな事例を経験していると、「なおる」「よくなる」も、そう簡単な話ではないこともわかってくる。経験を重ねていくと、「なおる」「よくなる」を超えて、「生きる」という現象そのものに、興味や関心をもつようになる。
つまり、いかにして「生きる」プロセスを共に歩めるかということが医療において本質的なことではないだろうか、と思う。登山で言えば、未踏の処女峰を登る同行者の心境に近い。それぞれが、まだ見ぬ山を登るようにして人生を生きている。時には当事者として、時には伴走者として。
「相手をなおす」という思いが強すぎる時は、自分の解釈や考えを押し付け過ぎていないか、相手の本来的な生き方を歪ませていないか、相手の中に潜んでいる自律的な可能性や発展性を押し殺していないか、そうしたことを見直す必要がある。
「相手が自分自身の力でなおる」という思いが強すぎる時は、相手の自主性に甘えて、自分の責任や能力において厳しさに欠けるところがないか、自分の中にある甘えを見直す必要がある。
「相手が自分自身の力でなおった」と表面では言いながら、「わたしの力で相手をなおした」という思いが強いときには、言葉と思いがバラバラになっている。自分が自我肥大(エゴ・インフレーション)を起こしていないか、自分の中にある矛盾を見直す必要がある。
相手を見ながらも、同時に自分を照らす鏡として自分自身も重ね合わせて見ることが、大切なことだ。この世界に起きているあらゆる事柄は、きっと何かの鏡として、私自身を映し出している。鏡の中に自身の恥部や影や盲点を見直すことで再生し、赤子のように生き直すこと。あらゆることを我が事として受け止め、物事の断片に自分自身の姿を発見し、光と影とを重ね合わせて観察すること。日々の光として降り注いでいる現象だ。
そうしたことが「思いやり」に通じる通路だ。「Compassion」という言葉は、「思いやり」と訳されるが、com(一緒)+pati(苦しむ)である。共に苦しみを感じているとき、それこそが「思いやり(Compassion)」なのだ。わたしたちは共に苦しみ、共に生きる。
 (199394)

文・絵・写真:稲葉俊郎
いなば・としろう
1979年熊本県生まれ。医師、医学博士、東京大学医学部付属病院循環器内科助教(2014-20年)を経て、2020年4月より軽井沢病院総合診療科医長、信州大学社会基盤研究所特任准教授、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員、東北芸術工科大学客員教授を兼任(「山形ビエンナーレ2020」芸術監督就任)、2022年4月より軽井沢病院院長に就任。在宅医療、山岳医療にも従事。単著『いのちを呼びさますもの』(2017年、アノニマ・スタジオ)、『いのちは のちの いのちへ』(2020年、同社)、『ころころするからだ』(2018年、春秋社)、『いのちの居場所』(2022年、扶桑社)、『ことばのくすり』(2023年、大和書房)など。www.toshiroinaba.com/
記事は雑誌ソトコト2023年8月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。

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