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注目! | 指出一正 オン・ザ・ロード

音楽と刻んだローカルの風景、関係人口の真意を知る青森、宮崎、静岡、大分での出会い

指出一正

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目次

音楽はローカルだ!

僕はあまり音楽の話を『ソトコト』を通してとか、自分のSNSでも発信をしてこなかったのですが、それは音楽が嫌いというわけではまったくなく、音楽に詳しい友人、知人があまりにも周りに多すぎるので、その人たちの博覧強記な考え方に比べると僕の音楽観は場当たり的なものでしかないと感じていたからです。なぜ場当たり的なのかというと、僕の好きな音楽はローカルに紐づいているバンドばっかりだからです。以前も話しましたが、僕の音楽体験はザ・モンキーズから始まるという非常にいいスタートを切ったはずだったのですが、途中からTHE MANZAIのレコードを買って漫才をレコードで聴くという方向に外れたところで音楽の話をするのを止めていたんですが、実はその後もいろんな音楽を聴いています。たとえば、80年代の男子はたぶんみんな通ったと思いますが、坂本龍一さん、高橋幸宏さん、細野晴臣さんのYMOが大好きで、「東風」や「RYDEEN」を当時大流行していたウォークマンのカセットで聴いていました。

中学生でした。高崎市にある西川塾という英語専門の塾に通っていました。すごいスパルタ英語力養成塾で今でもその塾に遅刻する夢を、50代になっているのに見るんです。そのくらい、日曜の夕方からその塾に行くというのは、英語の筋力が鍛えられることはもちろん嬉しかったのですが、真剣に学ばないといけない場所なのでプレッシャーだったんでしょう。西川先生はかなり前に塾を辞められていて、大変お世話になった素敵な風貌の方だったんですが、僕は先生に英語のスキルを鍛えていただいたために、英語力で知られる上智大学に入ることができたと思いますので御礼を申し上げたいです。塾では、男子のグループと女子のグループが別々に座っていました。男子は成績のいい人から順番に前みたいな感じで、僕は真ん中くらいだったのですが、他の中学校の友達がいっぱいできました。僕は片岡中学校っていう高崎の中心市街地から烏川という川を1本越えた里山エリアにある学校だったので、まちなかの中学校に通う1年生や2年生の友達ができたのはすごく嬉しかったですね。まちなかの中学校に通うみんなの情報量と僕の情報量は全然違っていて、まあ僕が釣りしかしてなかったからかもしれないんですけど、「指出、聴いたことあるかYMO?」みたいな感じで、YMOのカセットテープをイヤホンの片方を耳につけ、聴かせてくれたところから、「なんてかっこいいんだ、このコンピューターサウンド」というふうにYMOが好きになったのです。僕は自分のDNAは高崎が生んだロックバンドBOØWYにつくられているので、どちらかというとBOØWYっぽい生き方がかっこいいなと思う一方、シティな感じのYMOも好きで、どっちも僕の音楽センスをつくってくれたという意味では両雄です。甲乙つけ難いですね。

YMOに関して言うと、先日、坂本龍一さんの映画が公開されました。『Tokyo Melody』っていう、1984年、YMOが散開したばっかりくらいのタイミングで、フランスの女性映像作家が3週間くらいの短期間で坂本さんの『音楽図鑑』という名作のアルバムがあるんですが、そのレコーディング風景や、坂本さんがどう日本の音を捉えているかみたいなことをドキュメンタリーで追った60分くらいの映画です。これが痺れるくらいによかったんです。この映画は以前からYouTubeを通して世の中には知られていたんですが、映画というよりはフランス人の女性監督が製作したドキュメンタリー番組だったため、日本でオフィシャルに公開されたのは2026年1月が初めてとなります。僕はその試写会に行って、32歳という若かりし、目がハートになるぐらい素敵な坂本さんと、素敵な東京に出会えました。読者の皆さんのなかには新宿アルタ前で待ち合わせをしたことがある人もいるんじゃないでしょうか。携帯電話やチャットツールみたいなものがないときに、僕たちは東京で待ち合わせする場合、真っ先に思いつくのが新宿アルタ前でした。新宿駅の東口にあって、人気のテレビ番組『笑っていいとも!』の収録スタジオが入っているビルで、壁面に大きなモニターがありました。このアルタの手前に坂本さんが立っていて、モニターには「体操」っていう、日本の国民運動のような体操をやってるミュージックビデオが流れたり、それから坂本さんが当時出演されていた飲料のCMが流されたり。ただ、これはその映像を収録するために実際には製作チームが早朝にアルタの時間を借りて、さもその映像が普通の新宿のまちなかで放映されてるように撮っているという、ある意味ではフィクションです。坂本さんが立っている後ろにアルタのモニターがあって、坂本さんがメイクをした姿で白い体操着を着てリズミカルに踊ってる姿が映るんですけど、それを見ているうちに完全に僕は1984年にタイムトリップしていました。

1984年というのは、80年代のことを語るときにすごくアイコニックな年になっていて、たとえば村上春樹さんの『1Q84』にも象徴されるように日本のポップカルチャーや、バブル景気が始まる前のすごくシラケた感じとか、これまでの日本の高度経済成長のなかでとにかく前に進もうみたいなところからそれがかなりいい形で、経済的な豊かさや物質的な豊かさを得られた後に、80年代の若い人たちがシラケ世代になったタイミングの年だったのです。シラケ世代っていうのは、大きな時代の狭間に生まれやすい特徴的な文化の一つだったと言えるでしょう。たとえば明治、大正、昭和の流れでいってもその真ん中の大正時代ってのがいちばん文化が花開いたりしてるんですよね。ドラマチックな1960年代や70年代もいいんですけど、80年代の怠い感じ、シラケた感じ、プラスチックで無機質な感じは僕に大きな影響を与えたので、坂本さんが主人公の『Tokyo Melody』を見た途端、15歳くらいの自分に一気に戻った気がしました。西川塾に通っていた頃とほぼ同じ13歳、14歳、15歳の頃にYMOにもすごく影響を受けたので、それを思い出しました。

『Tokyo Melody』は坂本さんが音楽を採集するという作業をモチーフにしていて、大きな集音マイクを持っている姿や、おもちゃのカメラや銃のようなものをバシャバシャ、バキューン! とストロボみたいに焚いてみたり撃ってみたり、パチンコの音、神田でしょうか、お祭りの音、庭園を掃く音といった東京らしい音を聴くことができます。それはただのノイズではなく、坂本さんというフィルターを通した東京に溢れる音、しかも単方向の音じゃなくて、庶民の音や雅な音や自然の音として捉えられ、そこから坂本さんは自分の音楽を生み出していったのです。坂本さんはワールドワイドに世界の音をいっぱいミックスしてると思うんですが、サウンドスケープっていうのかな、僕の中ではそういう意味で、風景ととともに音楽がつくられていく情景描写が、自身がローカルに紐づけて音楽を好きになったところととても似ているなと思いました。YMOから『Tokyo Melody』の話になりましたが、東京のローカルを僕はこの坂本さんが主人公の映画から感じ取りつつ、中学生のときの自分を重ねながら、今年1月はなんとなくしみじみと過ごしていました。

話は飛んで18歳。僕は車の免許を取りました。その頃、どんな音楽を聴いていたかを話します。高崎市内の教習所で免許を取った僕は、早速いろんなところへ行ってみたくなり、家の車を借りて走らせました。友達とよく行く場所のひとつとして軽井沢もありましたが、ひとりで運転しているときによく走っていた長野へ抜ける別のルートがあります。それは、群馬県の西部、藤岡市、鬼石町、万場町を抜けて現れる長野との県境にある十石峠とぶどう峠という峠です。この2つの峠は道が細くてすれ違いが難しく、しかも角度も急峻なのであまり免許取り立ての人たちは通らない場所なのですが、高崎からどんどん県境に向かっていくにつれ、車ごと異界に吸い込まれていくような感覚がして好きでした。ちなみに、万場から行って十石峠、ぶどう峠がある村は群馬県上野村という村で、哲学者の内山節さんが二拠点生活を実践されている場所です。1980年代、僕が18歳のときに内山先生がすでに住んでおられたようですね。

長野を越えると南相木村という村があります。アウトドア雑誌の『BE-PAL』が「ビーパルランド」っていう当時としては先駆けだと思うんですけれど、地域の遊休地みたいなところをアウトドア好きな読者と一緒にキャンプが楽しめる、村とコラボレーションしてつくった画期的な場所があります。『BE-PAL』は『Outdoor』とともに買って読んでいた僕の愛読誌だったので、18歳のときも「ここは『BE-PAL』の南相木村だな」とか呟きながら、佐久を回って、内山峠を通ってぐるっと巡る街道のルートがあって、僕はその道を好んで自分の運転スキルを上げるために走っていたんですが、そのときに車内でかけていた音楽は、何だったと思いますか? 18歳のときに車を運転しながらよく聴いていたのはシーナ&ザ・ロケッツです。『真空パック』というシーナさんや鮎川誠さんやバンドのメンバーがラップで全身を包まれているジャケット写真のアルバムがあって、僕はこれがヘビーローテーションだったんですけど、そこには代表的な作品がいっぱい入っていて、とくに好きなのが「YOU MAY DREAM」で、「朝靄の湖に水晶の舟を浮かべて」という歌詞を聴きながら、道沿いにある湖を眺めながら運転していました。ただ、僕が湖のそばを走るのは昼頃や夕暮れ時が多かったので朝靄の湖ではなかったのですが、信州の冷たい空気の感覚と湖の情景は満喫できました。その歌がどこの湖を歌ったものか僕は元ネタを探していないんですけど、長野方面に行くときにはシーナ&ザ・ロケッツだなって決めて聴いてました。

僕が音楽を聴くときって、一つの場所に行ってそこから帰ってくるまでひたすら同じCDをループして聴くことが多いので、一枚のCDがその地域の思い出のBGMになることが往々にしてあります。そのCDを今も家で聴いたりすると、その時代の長野の東部、上州の十石峠やぶどう峠を、これらは峠マニア垂涎の峠で、古くてダート道で、僕が走っていた当時はたしかまだ舗装されてなかったはずなのですが、そういう道を18歳で走るってのは相当チャレンジングで、もしも何か起こってJAFを呼ぶというときもまちなかだったら呼びやすいけど、高崎から2時間半くらい離れた場所でトラブルが起こったら何時間も待つ羽目になります。そんなドライブを大学の授業がないときは高崎に戻ってはやってたんですが、そのルートを音楽で彩ってくれたのが鮎川誠さんとシーナさんです。

僕は鮎川さんがすごく好きでした。かっこいいじゃないですか。鮎川さんは九州大学農学部を出ておられ、なんかインテリな感じもあるし、あのルックスと優しい喋り方のギャップも好きで、こんな大人が近くにいる人生って幸せだろうなと思ってました。そんな鮎川さんとある日、偶然の出会いがやってくるんです。少し時間はずれるんですが、20代の半ばから後半にかけて、僕は東京の梅ヶ丘に住んでたんです。そこから新橋にあった編集部まで、当時はアウトドアの雑誌をつくっていたので撮影の荷物がいっぱいあって、それを車に積み込んで出社することも多かったのですが、ある日、淡島通りを車で走っていたら素敵な男女がタクシーを止めようとして手を上げていたんです。どっかで見たことがある二人だなと思いながら、300メートル、200メートル、100メートルと徐々に近づいていったら、なんと鮎川さんとシーナさんでした。群馬と長野の県境で聴いていたあの音楽の歌い手が、こうやって今僕の目の前でタクシーを止めようとしている。かっこいい革ジャンを着て。「そのままだな、アーティストって」とドキドキしながら通り過ぎました。ちなみに、その通りではあの曽我部恵一さんも見たことがあります。たぶん下北沢あたりにお住まいだったんでしょうね。

ちなみに、15歳くらいから、邦楽好きな僕と洋楽好きな僕が混ざり合うことになります。ここまでは邦楽好きな僕の話でしたが、ここからは洋楽好きな僕の話です。僕の服装はあるムーブメントに影響を受けていて、今もその格好をよくしています。それは、スコットランドのグラスゴーを中心として盛り上がったアノラックという音楽のムーブメントです。アノラックって、フードがついているヤッケみたいな防寒の雨合羽のことで、僕がスコットランドに留学した理由の一つにアノラックに憧れたことも大きくあるんです。スコットランドは雨が多く、寒かったりもするので、経済的に余裕がない若い人たちは着の身着のままで過ごすことが多いようで、スコットランドから世界の音楽シーンに飛び出たみんながことごとくアノラックを着てギターを弾いていたのでアノラックサウンドっていわれるようになりました。それから、ギターを弾いたり楽器を演奏したりするときに、正面を見ないで自分の靴ばかり見て、ひたすら俯きながら轟音で演奏してるバンドのことをシューゲイザーと呼びますが、それとシームレスに存在していたのがマッドチェスターと呼ばれるムーブメントで、ダンスミュージックの要素を取り入れたハッピー・マンデーズやザ・ストーン・ローゼスといったバンドが1980年代後半から90年代くらいのイギリスのマンチェスターを盛り上げました。ザ・ビートルズはリヴァプール出身でしたが、その近くの都市であるマンチェスターでマッドチェスターは盛り上がり、『24 Hour Party People』って僕の好きな映画があるんですけど、これはハッピー・マンデーズが重要な存在になっています。ちょっと話が逸れましたが、世界の音楽シーンのなかでイギリスの音楽はアメリカの音楽とはまた違う輝きを放っていて、その歴史体系のなかでマンチェスターのサウンドがあって、そしてスコットランドにはアノラックがあったんです。アノラックが好きだった日本のバンドはフリッパーズ・ギターです。小沢健二さんと小山田圭吾さん。二人はもちろんアノラックもマッドチェスターも好きで、いろんな音楽を取り入れていたと思うんですが、アノラックっぽいものが日本で知られていった大きな発現者はフリッパーズギターじゃないでしょうか。もっと詳しい人に言わせると、「違うよ、指出さん」という意見もあるでしょうけれど、大体そんなふうに僕は見ています。

僕はそのアノラックの界隈が好きで今も聴いてるんですけど、21歳から26歳くらいまでは夢中になって聴いていました。たとえば、ザ・パステルズやティーンネイジ・ファンクラブ、BMXバンディッツとか時代は微妙にずれるけど、トラッシュキャン・シナトラズとか、みんなアコースティックなサウンドとうねるようなギターリフ、ちょっと叙情的なメロディーが心地いいですね。日本の民謡の有名な歌がスコットランド民謡だということは皆さんもご存じだと思いますが、日本人にとってすごくリズム感が合うんですよ。「蛍の光」もそうだし、「誰かさんと誰かさん」もそう。なので、そういう意味ではスコットランドの若い人たちのミュージックも叙情的なところにやりきれないもどかしさみたいなものを乗せた感じなので、日本人のメンタリティに合うんじゃないかなと推測しながらよく聴いていました。

バンドのみんながアノラックという雨合羽をよく着てたので、僕もスコットランドにいるときや、日本に帰ってきてアウトドアや釣りの雑誌の編集者になってからも、結構アノラックばかり着てたんです。ロディ・フレイムによって結成されたアズテック・カメラやザ・スミスみたいな80年代のバンドが、ネオアコとかギターポップっていわれてる部類のなかでは好きで、ベル・アンド・セバスチャンも入れていいのかな、アノラックといわれてるスコットランドの系譜の人たちが今も好きです。伝えたかったのは、スコットランドの音楽って冷たい雨とかハイランドっていう高地のフレーズが多いんですよ。詩のなかにも自分がいる場所の風景とか、冷たい雨が降っている感じとか、いつも曇り空みたいな感じが伝わってきます。まさに、ローカルが音楽をつくってる。そのことは、海外の音楽ではアノラックから学びました。

もう1つ大事なのは、スコットランドのアノラックって、たとえばザ・ビートルズだったらジョン・レノン、ポール・マッカートニー、リンゴ・スター、ジョージ・ハリスンという4人がメンバーとして決まってますが、アノラックの中心地といわれるスコットランドでは、バンドのメンバーが結構重なってるんです。あるバンドに違うバンドのメインボーカルが入っていたり、メインギタリストが入ってたりして、メンバーが入り混じっている。仲がいいんでしょうね。違うバンドに所属しているんだけど、メンバーが重なってるみたいなことはスコットランドぽくって、スモールサークル・オブ・フレンズっていうのかな、友達同士で好きな音楽をやっていて、それが見初められて世界的にも有名になっていったっていうのが、友達同士で音楽やバンドメンバーをシェアしてる感じが僕にとってはすごく、「こういうやり方がのびやかでいいな」って1992、3年頃に感じていました。今ではシェアの文化って普通にまちづくりでもローカルの領域でもありますが、あの当時はどちらかというと音楽はその一派のなかでつくるのが当たり前だったかもしれないなかで、そういう柔らかいコラボレーションみたいなことをスコットランドのバンドの皆さんがやっていたことも好きになった要因でした。 アイスランドも音楽のまちなんですよね。ビョークやシガー・ロスが有名ですね。アイスランドに地熱発電所などのエネルギー特集の取材のために2週間くらい行ったことがあるんですけど、首都のレイキャビクのあるストリートで、バンドをやってるアーティストの皆さん30人くらいに集まってもらって写真を撮ったんです。ビョークの弟バンドや妹バンドみたいなみんなが集まってくれて。今はもう世界的に有名になった人も多かったんですけど、みんな「オッケー」って連絡取ってくれて、超かっこいいバンドのみんなが集まってくれて写真を撮りました。いい写真だなと思ったのと同時に、スコットランドとすごく似ているのは、メンバーがお互いを共有しているということ。なかでも海の熊って書くのかな、シーベアーっていうバンドはスコットランドのアノラックに通ずるバンドだったので大変気に入って、当時『ソトコト』にはCDをつけて販売していたんですけど、アイスランドのアーティストたちに協力していただいて、アイスランド特集には今をときめく世界的なアイスランド出身のアーティストたちの曲がいっぱい入れることができました。もし古本屋で見つけたら価値ある1冊だと思います。今はアイスランドに移住されている小倉悠加さんっていう超音楽好きで詳しい方がコーディネートしてくださったからアーティストの皆さんも集まってくれたし、「いいよ、いいよ」みたいな感じで快く楽曲を提供してくれたことを改めて感謝したいです。

青森はフランスだ!

日本の各地を訪れるとき、直線的に訪れる地域と、楕円のような形で訪れる地域と、真円のような形で訪れる地域というのが僕のなかにはあります。直線っていうのは、1回訪れて、また再度訪れるかは未定な地域です。お招きいただいたり、自分の興味で行ってみたりと、接点は持てましたが、もう一度訪れる機会があるかどうか、そこまでの関係性がまだできていない地域です。楕円というのは繰り返していく場所です。周期はバラバラで、半年に1回訪れる場所もあれば、1か月に1回訪れる場所もあれば、10年ぶりに訪れた場所もあります。今度函館に講演で呼ばれて訪れますが、それも10年ぶりくらいです。函館のコミュニティの皆さんのなかには近しくさせてもらっているライターさんやご飯屋さんがいらっしゃって、僕のなかでは函館に向かって大きな楕円を描いていて、久しぶりに訪れるので楽しみにしています。真円というのは、楕円よりももっと半径が小さい軌道で定期的に通っている地域のことで、たとえば関係人口の講座を開かせていただいている地域で、秋田や福島や島根などは真円に近い形でぐるぐる回っているように何度も訪れている感じがします。まるで惑星の軌道周期みたいに星と星が近づいたり、またしばらく離れたりするように、僕が地域を訪れ、関与する頻度を表す図形として直線、楕円、真円を描くことができます。

そんななか、かなり真円に近い周期で足繁く通っていた地域が青森県でした。2001年に起きた9.11の前後6年間ほど、僕は青森に毎年10日間ずつくらい通っていました。何をしに行っていたかというと、釣りです。釣りの雑誌をつくっていたときだったので、遊びに行っていたというよりは、雑誌をつくっているなかで地元に住んでいる同世代の人と知り合いになって、交流を楽しんでいました。鎌田健一さんという、今は工務店を経営しておられますが、当時、読者投稿で手紙を送ってくれた方でした。「冬の青森はこんな感じですよ」みたいな手紙を読んで伺いたくなったのです。青森をご案内いただいた後、鎌田さんとはすごく仲よくなって、仕事だけではなく家族ぐるみのお付き合いになり、6、7年ほど通いました。毎年9月の頭から12、3日頃まで。なので、9.11をニュースで知ったタイミングも青森からの帰り道だったのです。

鎌田さんは、ご親戚のリンゴ農家さんのリンゴを毎年送ってくださっていました。僕はその津軽のリンゴが大好きですが、津軽のもう一つの名産にスチューベンという真冬のブドウがあります。数ある品種のブドウのなかで僕はこれがいちばん好きです。紫色のブドウで甘みがあって、しかもリーズナブルなんです。今、フルーツはどんどん高額競争になっていますが、地元の人が愛している果物にも大きな価値はあるわけです。贈答用はもちろん素敵だし、それを喜んでくれる方の顔も見えるんですけど、個人的には地元で普通に食べられているものを鎌田さんが送ってくれることに感動するのです。「この時期にこんなおいしいブドウが食べられるんだ」って。ちなみに、スチューベンはニューヨークで生まれたブドウで、津軽はニューヨークと同じ緯度なんです。蒲田さんのおかげで僕はスチューベンが大好きになりました。もし楽器が弾けて、バンドができるんだったら、ザ・スチューベンという名前のバンドをつくりたいくらい、言葉の響きも大好きです。

太宰治は津軽半島の旧・金木町の出身です。現在の五所川原市の中心市街地から北に位置する金木には「斜陽館」という太宰の生家である旧・津島家が現存しています。すごく立派な家で、僕が初めて訪れた1992年は「斜陽館」という名前の文学記念館でありながら旅館でもあり、宿泊もできました。今はできませんが。その頃の北東北というのは僕にとってはカルチャーショックなことばかりでした。「斜陽館」の喫茶室でコーヒーを飲んで、昔の昭和の豪邸に置かれたソファーでゆっくりしている写真がまだ保管してあるかもしれませんが、20代前半の僕としては相当背伸びした旅をしていました。元々文学で青森とか津軽とか下北半島とかが好きだったこともあるのですが、下北半島にもよく足を伸ばしていました。下北半島は津軽とはまた違う文士がいます。寺山修司です。寺山修司の記念館にも行きましたし、寺山修司の実験的DVDボックスも持ってます。さらに横尾忠則のステッカーもいっぱい持っているので、僕はかなり天井桟敷ファンだと思うんですけど、寺山さんも横尾さんも二人とも僕にとってはスーパーヒーローです。今、僕が活動しているのは『書を捨てよ、町へ出よう』のテーマにとても近いと思うんです。本を読むのも大事だけども、地域に足を運ぶことで得られる知力みたいなものも結構ありますから。地域に足を運ぶ活動は、寺山修司に影響を受けた部分は少なくないです。寺山さんは新宿のアンダーグラウンドやまちの猥雑な部分も含めて人というものをすごく愛した人だと思うんですけど、僕はどっちかというと都市では得られない何かを地域に行くことで得たい、都市で暮らす人たちにとっても地域で暮らす人たちにとっても大事なものがきっとあるだろうと信じて、書を捨てて地域へ出ているのです。

津軽半島と下北半島は僕にとってはオオクワガタの左の大アゴと右の大アゴくらいかっこいい地域です。それが両方ある青森は、僕の心の聖地として存在しています。なので、友人が津軽にできたことは僕にとってはすごい行幸だったんですが、青森に通って何をしていたかというと、ひたすらため池を巡ってました。Googleマップで見ていただくとわかりますが、津軽半島は岩木山の元に平野が広がり稲作地帯になっています。メロンもつくっていたかな、とにかく農業地帯なんです。その水を確保するために、利根川みたいな大きな川があるわけではないので、岩木川の周辺にため池が発展したんですね。丘陵地帯にため池がたくさんあって、しかもコウホネといった水生植物の宝庫にもなっています。僕は初めて津軽の地に足を踏み入れ、太宰の生家の近くにも大きな藤枝ため池とかあるんですけど、その風景を目にしたとき、「ここはフランスか」って思ったんです。どういうことかというと、モネの睡蓮の絵っていうのは皆さんご存知かと思われます。日本の各地で「モネの絵に出てくるような池」っていうのが1980年代から90年代に地域の観光やPRに使われていましたが、そうしたコンセプトメイキングじゃなく、そのままの風景として湛えていたのが津軽半島なんです。あの複雑に入り組んでいる地形のなかで透明な水がため池となって張られ、抽水植物や浮葉植物が黄色や白や可憐な花々を鑑賞用じゃなくて自然に自生し、繁茂している。このようなため池群っていうのは日本ではあそこしかなかったのです。だからフランスで同じような風景を目にしたことのある僕は、「これが知られていないってどういうこと? これは完全にフランスの風景だろう」とつぶやかざるを得なかったのです。だから、「津軽はフランスだ」と言い切ったんです。実は「津軽はフランスだ」っていうのは僕だけが言った論理ではなく、言語学者のなかでは結構通説になってるようです。というのは、津軽弁のイントネーションと響きがフランス語に似てるんですね。津軽弁とフランス語のイントネーションと響きをネタにしている芸人さんもいるくらい「津軽はフランス」なのです。

僕は青森に一人で行ったり、当時はまだ結婚してなかったのですが妻とも津軽半島を訪れたりしていました。行った人はみんな感激するんですよ、「すごい風景だ」って。僕はそこで釣りをしてると、地元のおばさんやおじさんが作業をしながらニコニコと近づいて来て、「釣れたか」って声をかけてくれるんです。「全然釣れませんね」って返すとコミュニケーションが始まるのですが、その後に続く言葉はフランス語にしか聞こえなかった。津軽弁っていうのは、たとえば「食べな」っていうのは「け」って言うことは知っていますが、音で聞くとまた違うんですよね。僕は群馬の言葉は荒っぽいと感じている人たちが多いんじゃないかなと思う経験を10代、20代の頃によくしました。東京出身の後輩を地元に連れていってお店でご飯を食べていると、次第にみんながソワソワして静かになるんです。なんで静かになるのかと思ったら、「隣のテーブルの人たち、今喧嘩してませんでした?」って言うんです。「いや、普通の上州弁のやり取りだよ」って僕は笑って答えましたが、「喧嘩してるようにしか聞こえなかった」みたいなことを言う人が結構いるんです。それが上州弁のオリジナリティなんだなって、東京で暮らすようになってから気づきました。そんなふうに、言葉の豊かさは日本列島のなかでまだまだ残されているんだなって、上州弁も大好きですし、津軽に行ったときに感じた流麗なイントネーションを聞くと、日本っていろんな場所にいい言葉が残ってるんだなって嬉しくなります。当時、僕の釣り竿のケースには青森県庁のキャッチフレーズだった「活彩あおもり」と書かれたステッカーを貼っていて、それを持って毎年津軽に行ってました。鎌田さんからプレゼントでいただいたものです。とても気に入ってます。

そういえば、吉幾三さんも太宰治と同じ旧・金木町、五所川原市のご出身です。今、ため池の話をしましたが、僕が通っていたため池の近くに「いくぞうハウス」という、豪華な丸太でつくったカナディアンハウスが立っていました。たしか吉幾三さんがプロデュースされたタレントショップだったと思いますが、そのすぐ前のため池である人たちが釣りをしていたときのことです。ポイントの目の前に「いくぞうハウス」が立っていたので、そっちに向けてルアーを投げ込んでいたところ、失敗して建物の裏手などにルアーがぶつかったりすることもあり、何度もぶつかってしまっていると、ドアを開けて吉さんが現れ、「いい加減にしなさい!」と怒鳴りながらこっちへ向かって来ようとされたのであわてて逃げたという伝説のような噂のような話があります。コアな釣り人の間では有名なポイントだったので、同じように吉さんに叱られた人は結構いたりしたのでしょうか。吉さん、もし本当でしたら釣り好きたちが申し訳ありませんでした。

吉幾三さんはいくつもヒット曲を生んだ歌手で、僕のなかでは「俺ら東京さ行ぐだ」が特に大好きです。思うに吉さんはいとうせいこうさんとともに日本最初のラップアーティストではないでしょうか。吉さんのラップはフランス語のラップみたいなもの。「テレビも無ェ ラジオも無ェ」って完全にラップですよ。何もない津軽の田舎を嫌がる若者の気持ちを歌ったものですが、最後に「東京でベコ飼うだ」って津軽のことも忘れてないっていう素晴らしい歌です。まさに、音楽はローカル。東京のポップでプラスチッキーなカルチャーに対するカウンターカルチャーでもありました。1984年のリリースですから、YMOやシーナ&ザ・ロケッツの音楽に浸っていた僕に揺さぶりをかけてくれた音楽でもありました。ちなみに、青森出身のSUPERCARっていう90年代のバンドも、今聴いてもすごくかっこいいですよ。フルカワミキさんっていう八戸市出身の可愛らしい女性がボーカルもやったりしてて。青森のことを青い森って表現したフレーズがいっぱい出てきて、僕は大好きです。ローカルっていうものを音楽のなかでかっこよく見せてくれたバンドですね。

青森といえば、東北6大祭りにも数えられ、みんなが必ずその名前を挙げるお祭りがねぶた・ねぷたです。「ねぶた」は青森市で行われ、「ねぷた」は弘前市で行われます。五所川原市は立佞武多です。僕も20代のときに初めてねぶたを見に行ったことがありますが、あの熱気にはとても感動しました。地元の人にとっては北東北の夏っていうのは1年のエネルギーを凝縮するときですから、お祭りに参加する思いや喜びが爆発するんでしょうね。それから時間が経って、『ソトコト』の編集長を務めているときのこと。スタッフの一人に青森出身の男性がいて、5月か6月くらいだったかな、僕に「相談があるんです」と神妙な顔をして話しかけてきたので、「うん、いいよ」と相談に乗ったら、「そろそろねぶたの練習が始まるので会社を休みたいんですが」というのです。お祭りのためにスタッフが会社を休むっていうのはこれまであんまり聞いたことがないことでした。だけど、2026年になった今振り返ってみると、彼のお祭りが始まるから会社を休むという行動は正しいんじゃないかなって思います。たぶんハネト(踊り手)としての参加でしょう。ねぶたは人気の高い祭りですから、会期中はもしかしたら観光の目的のひとつとしてハネトに参加する人も大勢来られるのかもしれません。祭りの人手不足の解消につながっているのはすばらしいことです。と同時に、「人がいる、いない」というのは数の問題ばかりで語られがちですが、その場所に、祭りと地域への思いを持っている人たちが会期の前後を通して集まること、時間をつくることにまた尊い意義がある。地元のねぶたの練習に参加したいから代休を取って帰るというのは、今の社会の構造のなかではすごく真っ当なことだと思えるのです。それを発見させてくれた彼の代休申請は僕にも勉強になりました。

地域の伝統行事の担い手がこれだけ減っているなかで、「会社を優先しなさい」という人はいなくなっていくんじゃないかなと思うくらいに地域が先細っていることを専門的な立場としてからもわかっていますが、一般の人たちのなかにも祭りの担い手がいないことを感じてる方は少なくないんじゃないでしょうか。勤勉さも大事だけれど、自分の地元の伝統を守ること、地域を優先することも大事なんじゃないかなと思います。僕の古い知人は、だんじりのときは何が何でも東京から実家のある大阪に戻るって言ってました。お祭りが単なる物見遊山じゃなく、生きていることの通過地点になっているんですね。なので、そこを通過させないっていうのは一種のパワハラなんじゃないかなって。自分の地域が大好きで、お祭りが大好きで、それを大好きな友達や仲間がいるところに合流することが自分らしさだとしたら、それが優先される社会になっていくことを望むし、人口が減って継承者不足といわれてる今、こういったことが優先される空気になりつつあるような気もしています。東京っていう属性が薄らいだまちで暮らし、働いていると、その大事さが見えなくなったりしがちです。僕もたとえば群馬のお祭りの八木節に参加したことがあるわけではない、そういうコミュニティを持たないまま東京に出てきた人間です。だから、地元のことが好きな後輩や若い世代から、地域の伝統を守ることの大切さや素敵さを教えてもらうといういい経験ができました。

余談ですが、僕は20年以上も昔、ソトコトの副編集長時代にある機内誌の立ち上げの企画をつくることになり、日本のローカルに関する提案を考えるよう当時の編集長からいわれて、「津軽はフランス!」っていう、今お話ししたことのルーツとなるような企画をつくったんです。結果的には、その企画を入れた機内誌の提案が採用されました。それで、『翼の王国』というANAの機内誌の編集を会社として任されることになったのです。嬉しいことでしたが、ただ少しねじれていて、当時もANAでは羽田空港から青森空港への直行便は飛んでいなかったんです。青森に行くとしたらお隣の秋田県の大館能代空港を利用することになりますので、「津軽はフランス!」の企画が喜ばれたのは一体なぜなんだろうって、僕のなかではちょっぴり疑問というか、不思議な気持ちになったことを覚えています。ちなみに、大館能代空港は僕の大好きな空港でヘビーユーザーでもあります。

宮崎のイノベーション力

最近僕は、宮崎県新富町に伺ったり、新富町の皆さんと会議をしたりすることが定期的にあります。新富町にある地域商社『一般財団法人こゆ地域づくり推進機構』、通称『こゆ財団』のアドバイザーを務めることになったからです。『こゆ財団』の皆さんがこれからやろうとしていることに対してのアドバイスをするみたいな感じで、アドバイザーや委員は僕だけじゃなくて複数名いらっしゃるのですが、以前に『ソトコト』で取材をした流れから『こゆ財団』の皆さんとはご縁をもらっています。

初めて新富町を訪れたのは2017年の春。宮崎市内でビジネスプランコンテストが行われたときにゲストでお招きいただきました。観光協会の形から地域商社に変化を遂げ、若い方々が新しく稼ぐビジネスやローカルイノベーションを掲げて活動をスタートさせた年だったと思います。地域で活躍する人たちと接することの多いなかで地元の方、特に宮崎県内や、これだけ大勢の新富ご出身の若い方々が集まり、これからまちを盛り上げていくぞというタイミングに伺えたことは今でも鮮烈なイメージとして記憶に残っています。結果的にその後の『こゆ財団』や新富町の快進撃はまちづくりや地域づくり、地方創生に興味がある方はおそらくご存知でしょう。1粒1000円のライチをつくって販売したり、当時は地域プロデューサーの齋藤潤一さんも代表理事をやってらっしゃったということもあって、活動を国内外にも発信をされ、若い人たちもインターンシップで訪れるなど地方創生のお手本のような形で視察がずっと続いているような団体です。

僕はその後、『ソトコト』の取材でも訪れ、『こゆ財団』の皆さんを表紙にした特集もつくりました。2017年9月5日発売の10月号で「地域を育てるソーシャルビジネス」という特集のなかで『こゆ財団』の取り組みを特集の巻頭で取り上げさせてもらいました。『こゆ財団』が始まったばかりの頃なので、今とは違う事務所の前で集合写真を撮っていて、懐かしですね。ライチの帽子をかぶっている女性がいたり、今も継続で関わっておられる方が多いんですが、若い元気な人たちがこれだけ地域にいるっていうのは物事が動く大きなきっかけや原動力になるということを教えてもらいました。しかも、農業っていうとこがいいですよね。農産物でまちを盛り上げる。テクノロジーやブランディングで盛り上げるっていうのも立派な方法ですが、土地から生まれるものを土地に関与する若い人たちが自信と誇りを持ってしっかりと稼ぐ力に変えたという意味では、僕は地方創生っていうものがちょっとファンタジーで語られすぎるのもどうかなと思うことも少なくないので、こうやって地に足の着いたビジネスモデルの先駆となった『こゆ財団』の取り組みは印象深く、大好きです。それから10年近く経った今、『こゆ財団』は「100のチャレンジ」という、地域の皆さんと一緒に盛り上げていく新たなテーマを掲げて活動しています。2025年夏に新しく代表理事に就任された岡本啓二さんは、元々は新富町役場の職員だったのですが、『こゆ財団』の立ち上げメンバーとしてずっと在籍されていて、一度また役場に戻られたんですが、今度は代表理事として『こゆ財団』を動かしていくキーパーソンとして活躍されています。ちなみに僕と岡本さんは同じ11月10日生まれなので親近感を感じていて、今度新富町でさそり座が集まるさそり会を開こうと盛り上がっています。

『こゆ財団』は「こゆ」という地域を大事にした団体名です。新富町の観光協会から地域商社に展開したという意味では新富財団みたいな名前をつけたくなりそうですが、創設メンバーの岡本さんの思いがあって『こゆ財団』になりました。「こゆ」は児湯郡のことです。児湯郡は新富町を含めて6町村の自治体があり、新富町から新しいビジネスに挑戦していくんだけど、新富だけではなく児湯郡全体が伸びていくことを願ってつけられた団体名だということ。行政単位で区切られがちな地域創生ビジネスが多いなかで、視野を広げて、自分たちのところだけではできないことを近隣の自治体も含めた児湯郡でやっていこうって考えたのは10年前から先見の明があったと思います。

「こゆ」の由来の話やこれからの財団の話を、西都市にある新富ご出身の方がされているすごくおいしい焼き鳥屋さんで宮﨑名物の地鶏の炭火焼をいただきながら、岡本さんから聞かせてもらいました。岡本さんとしては、新富の認知度を『こゆ財団』を通して広げていくことに関してはすでにできているので、外から注目されることも大事ですが、これからは新富に暮らしている人たちが地域を見る、新富に暮らしている20代、30代の若い人たちや職員の皆さんが、自分たちのまちのことを自分たちで考えられるようになっていってほしいとのことでした。そのためには、外の風景を見ることも大切なので、和歌山県すさみ町などと未来共創パートナーシップ協定を結んだり、あるいはほかの自治体と連携して視察に行くなど学べる仕組みをつくろうとしたりしています。すさみ町は岩田勉町長が振る旗の下で編集者だった源口葉月さんやデザイナーのすみかずきさんが参画して地域づくりを推進されているまちです。『こゆ財団』のメンバーはもちろんですが、新富に暮らす人たちがほかの地域のことを知ることで自分のまちのことをよりグリップ力高く保てたり伸ばせたりするっていう、つまり教育ですよね、『こゆ財団』はたぶん今度はソーシャルエデュケーションみたいなことをやっていくのかなって、焼酎の水割りを飲み、顔を赤くしながら熱っぽいお話を聞いた夜でした。

『こゆ財団』はふるさと納税の成功や、地域のイノベーションの代表として挙げられることが多いのですが、宮崎は実は他の地域も新しいことに挑戦していきたいという気風が強い場所なんです。たとえば、「九州パンケーキ」の地粉を使ったパンケーキのムーブメントを巻き起こした村岡浩司さんは、僕と同じく『こゆ財団』の理事を務めておられ、経営や運営のアドバイスをされていて大変心強いのですが、村岡さんは学校の校舎をリノベーションした『MUKASA-HUB』をつくって運営されたり、最近では「ONE KYUSYU サミット」の会長として九州全体のプレイヤーやイノベーターの連携を深める活動にも取り組まれています。僕は九州に行くたびに頼もしさと優しさを感じる人たちが大勢いることに喜びを感じます。村岡さんだけでなく、日南市の油津商店街を再生させた木藤亮太さんの活躍を拝見するにつれ、背中を見続けていたいというのか、この人たちの歩いていく先に未来があると思わせられます。

その日南には城下町があります。飫肥杉で有名な飫肥という地域に『PAAK DESIGN』という建築設計事務所があって、エリアリノベーションでホテルをつくったりされているのですが、代表の鬼束準三さんとはリノベーション・オブ・ザ・イヤーやリノベーションまちづくりの関係でも近しくさせてもらっているのですが、飫肥のまちには江戸、明治、大正時代の古く素晴らしい建物が残っていて、それを観光の拠点になるようにホテルにリノベーションしたりしているのが鬼束さんたちです。鬼束さんは日南市生まれで、東京で働いた後Uターンされて、学ばれてきたことを地元で生かしているかっこいい方なんですが、東京にいらしてお話したときにハッとさせられた言葉がありました。鬼束さんたちがされている歴史的建造物の修復という分野でも後継人材の不足が課題になっていて、それをどう保っていけばいいかという対策は全国で取り組まないといけないことですよね、貴重な文化資源を守るという意味でも。歴史的建造物っていうと明治や大正時代の洋館や旅館、病院などに目が向けられがちですが、鬼束さんはこんなふうに言いました。「僕たちが明治や大正の歴史的な建造物の保存に力を入れているこのタイミングに、実は昭和の建物や昭和の飲食店がどんどんなくなっているんです。当たり前のようにあると思っていた昭和から続くまち中華とか、昭和から続く個人経営のお店がどんどん商売を畳み始めています。だから、実はやらなきゃいけないからやっていたことと、まだ大丈夫だろうと後回しにしていたことを同時にやらなければいけないフェーズになっているんですよ」と。ひと言で言うと、明治・大正をリノベーションしてる間に昭和がどんどんなくなっているということ。たった2つ前の元号である昭和の建物でさえすごい勢いでなくなっていることを気づかされながら、実践者である鬼束さんだからこそ言える言葉だなと思って聞いていました。 宮崎は、まちづくりに取り組んでいる若い人たちや首長に会う機会がなぜか多くて、木城町の町長さんや西米良村の村長さんとご一緒したりもしました。木城町も西米良村も児湯郡で、神楽が有名です。宮崎は天尊降臨という言葉で示されるように、神様の文化が各地に独特な形で残っている民俗学的にもすごく大事な場所で、椎葉村なんかは柳田國男が訪ねたことで民俗学が生まれた地といわれるくらい誇り高きいい地域です。僕も椎葉クニ子さんがされていた民宿に泊まったことがあり、「椎葉村すごいな」と感動したことを今でも忘れないのですが、椎葉だけではなく木城町や西米良村にもファンタスティックローカルの大事な要素である神楽やお祭りがあるんですけど、これも担い手がいないとなると、どう継承していったらいいか悩ましいです。そこで、僕が勝手に思ったのが、中国山地を見るとそれこそ僕がよく通わせてもらっている広島県と島根県の中国山地のエリアなどは神楽文化がすごいのです。子どもも神楽が大好きだし、毎晩神楽のイベントをやっていたり、練習をやったりするくらいに神楽というものがスーパースターで、神楽を継承したがっている子どもたちが育っている地域もあるわけです。であれば、たとえば舞い方は違うかもしれない、文化も微妙に違うかもしれないけれど、神楽という共通項のなかで神楽関係人口じゃないですが、たとえば杜氏の文化と同じですよね、但馬の杜氏とか越後の杜氏とか、灘もそうですけど、酒蔵があるまちには必ずいろいろな流派の杜氏さんがやってきて、冬の間はそのまちで酒造りを担うことでおいしい日本酒を醸すという文化があることを考えると、たとえば島根県の石見神楽の神楽師たちが九州にある一定期間行って、その場所の文化や伝統を維持するみたいなことが起きてもいいのかなと思いました。各地の神楽は形は異なれど、通底しているところはあるでしょうから、むしろ文化交流になったり、新しい刺激になったりするのであれば、地域のなかで神楽の舞手同士の交流を関係人口的にやっていったりするのも一つの手法だと思うのです。神楽の舞手が一人もいない地域や、未来へ向けて神楽を残していきたいという地域に、神楽文化をしっかり保ってきた中国地方の市町から若い人、高校生だったり、小学生がやってきたりしてもいいでしょう、そういう文化交流が宮崎と石見などで起きてもおもしろいのではないでしょうか。

静岡県の地域のお店デザイン表彰

2026年2月上旬に静岡県庁からご依頼をいただいて、静岡市内にある浮月楼という徳川慶喜の時代から存在するすごい立派な庭園で行われたある受賞式に参加してきました。それは「『地域のお店』デザイン表彰」という静岡県内の個店をデザインという視点で表彰する賞で、その審査委員長を賞の設立最初から務めさせていただいていたからです。デザイン表彰というのは空間デザインにとどまらず、ソーシャルデザインや防災に対する備えとか、地域のなかでのコミュニケーションデザインといった広い視点から捉えた表彰にしようというところから生まれたんですけど、その大きなきっかけの一つに『ソトコト』がありました。どういうことかというと、実は『ソトコト』の2016年4月号で「楽しい地域の専門店」っていう特集をつくりました。元々静岡県は魅力ある個店っていう登録の制度があって、県内各地の個店を登録してもらうことで個店の文化をしっかり支え、広げていこうという動きがあったんですけど、そういった個店のなかから毎年、表彰する仕組みをつくろうと考えているタイミングに、『ソトコト』で「楽しい地域の専門店」特集をつくったこともあって、静岡県庁から連絡をいただき、「デザインで個店を表彰する仕組みをつくりたいと思っているのでその審査委員をお願いできないか」と依頼を受けたのが2016年5月頃でした。この「楽しい地域の専門店」特集を読んでくれていた当時の担当の影山淳彦さんが、僕にとっては表彰に参加させていただくことになった恩人です。影山さんは退官されましたが、「共生」というクラフトイベントをつくったり、「静岡おまちバル」っていうバルホッピングを静岡市で開催したり、まちのなかでソーシャルデザインやコミュニティデザインが広がるようなことを手掛けられた行政職員でしたが、その方が「『地域のお店』デザイン表彰」を創設され、僕はその審査委員長を10年間務めさせてもらったのです。10年で一切りということで、今年でこの表彰も一段落ついたわけですが、振り返ってみるとすごくいい経験をさせてもらいました。

実店舗での買い物が必須でなくなった社会に僕たちは生きています。そんななか、衰退していく商店街の活性化や賑わい創出といったことが図られてきましたが、どの商店街もこれまであったまちの顔ともいえるお店をどう残していくかっていうことを真剣に考える時代がここ数年続いています。この10年間さまざまな市町を訪れましたが、静岡県にはこんなにたくさん個人経営のお店があるんだって驚かされました。たとえば、100年、200年続く麹屋さんをお孫さんが継ぐという意思を見せ、おじいちゃんがやっていたことを継承したり、障害のある皆さんと一緒に毛糸づくりをして、そこから服をつくることをビジネスとして立ち上げたデザイナーの男性がいたり、個人が実践できる店舗運営のショーケースのような集まりが県内各地に見られるのです。静岡って、皆さんご存知のようにちびまる子ちゃんの世界じゃないですか。個人経営のお店がいっぱい出てきますよね。あれがそのまま2026年の静岡全体を表してるといっていいほどで、静岡市もそうだし、浜松市もそう、政令指定都市の大きなまちに行ってもちょっと歩くといい商店街があって、立ち飲みのバルを若い人がやっていたり、地元のチームがおいしいコーヒー屋さんをつくったりしているので、歩いて楽しいまちになっています。ウォーカブルシティという言葉がありますが、歩いて楽しいまちづくりをしっかりとやってらっしゃるなって、10年間審査委員長として静岡に足を運んだなかで感じました。また、静岡県はリノベーションまちづくりにも力を入れています。リノベーションで生まれ変わるお店というのは、どちらかというと小さいところが多いです。大きな店舗の大改装よりは商店街のなかで今空いている店舗をどう生かしていくかということになります。これから求められているまちづくりの先進のようなことを静岡はやってきている気がします。余談ですが、日本でいちばん防災訓練を行っている県は静岡県だそうです。東海地震や津波も意識されているのでしょうけど、要は個人の行動に対してしっかりと行政がケアをしてるっていうのか、つまり、全体で大きく動かすような都市計画というよりは地域レベルでの防災活動や防災訓練が行われているわけです。防災訓練の多さが象徴するように、これって大きな社会単位のなかで伝えるというよりは個人単位で伝えていきたいことであり、それが意識づけされているということは、個人と行政の距離が近いことの表れなんじゃないかなと思います。

最近、僕が行った静岡の場所でおもしろかったのは、沼津市にできた『リバーブックス』っていう、元々は古い洋裁店だった建物をリノベーションして本屋さんにつくり変えられた個店で、出版社に勤めていた江本典隆さんが地元に戻られて始めたそうです。店のなかでは地元沼津のクラフトビールも飲めるし、ギャラリーとして貸すこともできるので、新しい本をつくった人はその本を展示したり、トークイベントもできたりするスペースになっています。沼津のまちづくりの一環で、この空いている空間をどう生かしたらまちのなかで大事な存在になるかというコンペティションがあり、それにUターンした江本さんが応募して、最優秀賞を獲得しました。苗字が江本さんだから『リバーブックス』だそうです。すごくいい本屋さんで、新刊しか扱ってないんです。よく独立書店は古本もセレクトで扱われていることが多いんですが、新刊をちゃんと届ける仕組みを意識されているところも出版社でお仕事をされていた方らしいですね。おもしろいのは、本の展示の仕方。僕も何冊か買って、また行きたいなと思うんですけど、僕が気になったのは『ギョランギョラン 呑兵衛さんの魚卵紀行』という本で、きっとデュラン・デュランをもじったと思うんですが、とにかく魚卵を食べにいろいろな場所に行くルポルタージュです。筋子を食べに行くとか、イトウのイクラを食べに行くとか、その場所のおいしい地酒と一緒に魚卵を食べたり、お土産で買って帰ってきたりするっていう魚卵好き、フィッシュエッグイーターの僕としてはたまらない1冊なんですが、その本が平積みにされている並びに痛風の本が置いてあるんですよ(笑)。そんなふうに、この本から起こる作用みたいな形で別の本を並べているところに天才を感じずにはいられませんでした。僕は痛風の本は買わなかったんですけど、いつかは買いに行くかもしれません。個店を訪れる楽しみって、そういうところにもありますね。

毎回40店舗くらいのなかから優秀賞などの賞をお渡しする個店を選ばせてもらいました。どのお店もすごくヒューマンストーリー溢れるので、本当に皆さんにお渡ししたいんですが、予算とか縛りもあるので毎回4組くらいにお渡ししました。優秀賞を取られた皆さんに僕がインタビューをしましたが、「お店をやっていて楽しい瞬間は何ですか?」という質問をすると多くの方が、「楽しいと思う瞬間の方が少なかった」と答えられます。「稼いでいかないといけないし、続けていくことに無我夢中で、楽しいなと感じることは少ないかもしれません」って。ギャラリーの皆さんもお店をされている方の関係者が多いので、みんなうんうんと頷いておられます。「僕の質問って軽いな」って反省しました。ただ、稼ぐことは大変だけれど、個店を続けていくことが自分が生きている実感というか、充実感みたいなものにつながっているんだろうなということは、インタビューをするたびに思うところです。

沼津市と熱海市に『REFS』っていう八百屋さんがあります。Real Food Storyで『REFS(レフズ)』。小松浩二さんというまちづくりの世界でも僕が尊敬している方が経営されていて、9年前の大賞受賞者です。最後の年、10年間に大賞を取られた皆さんにも来ていただいてお話を伺ったんですが、地域に個店があることの大切さを質問したとき、小松さんが言ってくれたことに僕は目を開かされました。その地域で商いをするということでいえば、求められているものは必ずいくつかの形があって、たとえば沼津で八百屋さんをするってことは、沼津で海鮮丼屋をすることよりもはるかにオルタナティブだ、と。お客さんが沼津に求めるものは当然、おいしい海の幸が食べられる海鮮丼屋さんだけど、僕たちがやっていることは、いわゆる経済原理のなかで答え合わせをしていくと海鮮丼屋になってしまうのですが、海鮮丼を食べておいしいなと笑顔になった人たちにふと見つけてもらった沼津の日常みたいな場所が個店だったりする。そこに個店の価値があるということを話してくれたのが印象的でした。地域の個店に求められているものに正解はあったとしても、それ1つではないということ。「経営が苦しくなると海鮮丼屋さんのことを考えたりする」と小松さんが冗談を言うのを聞いて、そういうギリギリのところでまちのふくよかさを保ってくれているのが地域の個店なんだろうなと感じました。

水脈のように広がる豊後大野の関係人口

最近行ったところで印象に残った場所の一つに大分県の豊後大野市があります。宮崎のところでお話した日南の商店街のマネージャーを務められた木藤さんから2025年の晩秋に、「豊後大野で自分が参画しているプロジェクトでイベントを行うので、よかったら指出さん、お話をしに来てくれませんか」というご依頼を受けたのです。豊後大野はもちろん知っている場所でしたが訪れたことはありませんでした。僕は「喜んで行きますよ」って返事をし、楽しみにして伺いました。

大分は、「大分で会いましょう。」っていう大分県全体の関係人口的なプロジェクトであったり、その一環となる「関係人口サミット」であったり、人口減少に関する政策に対するプロジェクトメンバーの一人として参画させてもらうことがあったので、大分に足を運ぶことは稀れではありません。特に国東半島は、僕にとってゆっくりと自分のなかで学んでみたい場所です。皆さん、国東半島っていうと大分空港があるエリアですが、地域学的にいうと、丸い形の半島にたくさんのひだがあって、そのひだの一つ一つが地域なんです。ひだとひだはそれぞれの文化が異なっているので、一度海沿いに出てから次の集落の奥に入っていくことになり、地理上では近くても各地域は特徴を持って存在しています。伝統や文化を地域の人たちは大事にしていて、民俗学的にもとても興味深く、何度か足を運ばせてもらったりしています。余談ですが、国東半島峯道ロングトレイルというトレイルコースがあります。僕は半分ほどの距離を歩いたことがあるんですけど、半端なくダイナミックです。何がダイナミックかというと、ここから落ちたら危ないなっていう場所にさえ一切柵がないんです。本気でやばいなと手に汗握ったのは、幅30cmくらいの石廊下みたいな道を渡るところがあって、500メートルくらい下まで目に見えるんです。しかも強い風が吹いてて。でも、それに対して危険ですという注意書きも一切ない。神仏習合の聖域ですから、生きるも死ぬもって書くと国東半島の皆さんには恐縮ですが、本当に修験者の境地で歩ける類いまれなるルートですのでおすすめです。南アルプスや北アルプスの縦走もそれなりにスリリングなんですけど、国東半島峯道ロングトレイルが僕の人生のなかでたぶん最強にスリリングでした。皆さんもぜひ行ってみてください。すごいところを通りますから。引き返すわけにもいかないから通らざるを得ないんです。友人との絆をもっと深めたいとか、親子の関係性を改善したいとか、誰かとのギクシャクした関係を戻したいときには、ぜひ2人とか3人で行って、励まし合いながら渡り切ったら仲良くなれますよ、絶対に。これも一つのコミュニティデザインなのかな。

国東半島から南へ移動し、豊後大野市へ。豊後大野はおもしろい特徴がいっぱいあるんですが、その一つは温泉がないこと。大分といえば温泉ですが。そこで考え、豊後大野をサウナのまちにしたのです。温泉はないけどサウナはあるっていうのを打ち出したので、ここ数年間はサウナ好きの人たちにとって憧れのまちみたいになっています。もう一つは、土木遺産や農業遺産に指定されているくらい複雑な河岸段丘みたいな土地にある豊後大野は農業で水を使うための水路がいっぱい張り巡らされているんです。水脈と書いて「みお」と読むのですが、この水脈を木藤さんが説明してくれたので行ってみたのですが、造り酒屋の近くに心地よい音を奏でる水路がクロスしていたりします。いろいろなところに水路が張り巡らされていて、水が地域のなかを駆けめぐって農業用水を行き渡らせる先人の努力による豊かな水循環を感じることができました。

そんな豊後大野に、4年ほど前にできたのが関係人口交流拠点施設『cocomio』です。このmioも水脈から取られています。元々は歴史民俗資料館として建てられたのですが、資料館が移転したため、地域の行政区の考えもあって関係人口が広がっていくための拠点として整備し直したそうです。木藤さんもその場づくりのメンバーに入っているんですが、地元出身の三浦エンナさんっていう素敵な女性がコミュニティマネージャーとなってこの場所をつくっています。エンナさんはバンドのボーカリストもされている活動的な方です。僕は初対面のエンナさんと大分空港から1時間半くらいかけて『cocomio』まで、エンナさんの運転で晴れ晴れするような会話を楽しみながら連れていってもらいました。地元を盛り上げたいっていう気持ちもすごく伝わってくるし、いろんな人が来てくれる場所に『cocomio』を育てていきたいと話される姿を見て、こういう方がいらっしゃるところは顔の見える場所になっていくんだろうなと思いました。『cocomio』には宿泊施設もあり、定期的にマルシェも開催されます。スタッフの皆さんも若い人たちが多いんですけど、僕が感心したのは、エンナさんに憧れている後輩世代のみんなが、「エンナさん、エンナさん」って言いながらエンナさんのマネージメントやコミュニティビルディング、場所の運営の仕方を学んでいるんですよね。地域に背中を追いかけられる先輩がいるって本当にいいことだなって思いました。10代、20代の若い人たちが、「エンナさん、エンナさん」って、近しい関係でありながら尊敬する先輩みたいな感じでやり取りしている姿を見て、『cocomio』で生まれる未来のバトンのつなぎ方みたいなものを感じました。木藤さん曰く、僕もそうだと思うんですが、関係人口交流拠点施設っていうふうに行政が言い切っているのはたぶん日本で唯一ここだけでしょう。そういう意味でも、関係人口となる人たちが広がっていき、地域の人たちもここで新しい友人関係を広げていってもらえたら嬉しいという思いが伝わってきます。mioは水脈、そして人脈にも通じるので、人がクロスする場みたいに考えていらっしゃるのかなと思いながら、その日は関係人口の話と、これまでエンナさんがやってこられたことを僕なりにどう考えるかを話しました。エンナさんのハキハキした感じ、まっすぐ前を見てる感じが『cocomio』の居心地の良さをつくってるんだなって思った2日間でした。 僕と木藤さんは『cocomio』に泊まって、夜はいろいろな地域から泊まりがけでトークセッションに来てくれた人たちと、「スナック指出」みたいにしてみんなで飲んだんですが、いつからかグラン浜田の話になっていました。群馬県前橋市出身で日本以外にもメキシコのルチャリブレで活躍したプロレスラー。みんなでおいしい唐揚げや手づくりのハンバーガーを食べながら関係人口の話をしていたはずなんですが、木藤さんと僕と大分の行政職員の方とで突然プロレスの話になり、グラン浜田の話題が出た瞬間に全部持ってかれ、その話で盛り上がったところまでしか覚えてない(苦笑)。そんな夜を過ごした翌朝に訪れたのが、原尻の滝でした。豊後大野は水が豊かだと話しましたが、原尻の滝はナイアガラみたいな滝で、とても綺麗でした。そこで、エンナさんたちが買ってきてくれたパンやコーヒーを10代の女性から40代、50代くらいの行政の男性職員まで10人くらい、このグループは一体何なんだろうみたいな不思議に見えるメンバーでコーヒーを飲みながらお話をしたのがすごくいい時間でした。多様性って簡単に言いがちですが、本当の多様性って何だろうって考えるんですよね。世代が混ざっていればいいのか、男女が混合だといいのか。いやそうじゃなくて、なんか普通では出会えなかった人たちが何かのきっかけで出会って、朝、滝のほとりでコーヒーを飲みながら話してるみたいなほうが多様性を感じてしまうんです、僕にとっては。エンナさんやエンナさんの後輩の皆さんや木藤さんたちと一緒に、朝の光の輝きに相似したくらいに心持ちのよい時間を過ごしましたが、関係人口という動きが広がっていくことでこういう時間が全国各地でつくられているとしたら、関係人口っていいものだなって微笑んでしまったりもするのです。

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