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【連載第1回】イン・ザ・タウン〜寿司屋の息子の僕が、役場職員としてまちを盛り上げるようになった理由〜

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一般財団法人こゆ地域づくり推進機構代表理事・岡本啓二さんの半生を追いかける連載がついにスタート!   第1回は、実家の寿司屋『亀八』での思い出から、家出、ジャッキー・チェンへの手紙、そして役場をパニックに陥れた台風14号での不眠不休の対応まで。「イン・ザ・タウン」、宮崎県新富町を舞台に、岡本さんのエネルギッシュな行動力のヒミツを明かします。

目次

ランドセルを背負って帰ってくるのは寿司屋『亀八』

 僕は1976年、宮崎県児湯郡新富町に生まれました。生まれた時から実家は寿司屋を営んでいました。父方の祖父は国鉄職員で給料も安く、あまり裕福ではなかったようで、親父は高校を出てすぐに寿司の修行に出て、働きながらお金を貯め、念願の寿司屋を開業したそうです。ただ、開業資金は潤沢ではなかったので、最初はプレハブみたいな粗末な建物からスタートするしかありませんでした。いちばん古い記憶では、兄貴を含めた僕ら4人家族は、プレハブの店の勝手口から出たところにやはりプレハブの小さな建物があって、そこで暮らしていました。居間と寝室の2部屋しかない小さな住まい。ただ、僕が小学生の低学年になる頃には、プレハブだった寿司屋は1階が寿司屋で、2階には200人ほどのお客さんを収容できる宴会場がある大きな店に様変わりしていました。『亀八』という縁起のいい店名の、新富町の中心部にあるいちばん大きな寿司屋として、まちの皆さんに愛されていたようです。後に僕が役場に入庁した時も、多くの先輩職員さんが『亀八』や僕のことをご存知で、「君は『亀八』の息子か。大きいなったな」「勇夫さん(親父の名前)や知代子さん(母の名前)にはお世話になった」というふうに声をかけてくださって嬉しかったです。

 両親は朝早くから夜遅くまで、一生懸命働いていました。休みは月に2日だけ。12月31日まで営業して、新年は3日から営業。基本的にずっと働いているので、僕らが学校に行く時間にはもう親父は家にいませんでした。学校から帰ってきてもやはり両親は仕事をしていて、毎晩だいたい10時ぐらいまでは働いていたので、両親とは家ではなく店で会うっていう感じでした。一家団欒で食卓を囲みながらテレビを見るといった記憶はありません。ただ、だからといって、「寂しい。どこか遊びに連れてってほしい」という気持ちは湧きませんでした。僕も兄貴もいわゆる放任主義的な育て方をされ、自由気ままにやっていました。「どこかに行きたい」と思ったら、自分で勝手に行く子どもでした。仕事の合間を縫って親父と一緒にお風呂に入ったりもしていたので、僕らに対して愛情がないわけではなく、ただ忙しくて子どもに構ってられないだけというのは僕ら兄弟も理解していたのです。

 そんな親と、僕は小学6年生の時に喧嘩をして、家出しました。1年間、母方の祖父母の家にお世話になっていたのです。喧嘩の相手は母でした。なぜ喧嘩したのか原因は覚えていませんが、その日のうちにリュックに着替えを詰め、2キロほど離れた祖父母の家に旅立っていったのです。「家出してきたからここに住む」って祖父母に言ったそうです。小学校には登校班というのがあって、校区によってこの子はここから誰々と一緒に登校するというのが決まっていましたが、家出をした僕は違う登校班に入って、そこから登校していました。学校からは面倒臭がられましたが、母が学校や祖父母に、「迷惑かけてすみませんが、よろしくお願いします」と謝ってくれてたんでしょう。とくに問題なく、そのまま1年間祖父母の家で暮らし、学校にもそこから通っていました。なぜ母は僕の手を引っ張って強引に家に連れ戻さなかったのでしょう。「家出をする」という僕の意志を尊重してくれたからか、自分で始めたことは最後まで自分で責任を取ることを学ばせたかったのか、あるいはただ構っている暇がなかったのか。今度、聞いてみたいと思います。

 僕ら家族は寿司屋の裏にあるプレハブの建物に住んでいたのですが、途中から僕は部屋が狭いことに不満を感じるようになりました。2部屋しかないし、僕と兄貴は2段ベッドだし。それで、兄貴が中学に上がる頃に、「自分の部屋が欲しい」と言って、プレハブの家から300メートルぐらいのところにあった親父の実家、親父の祖父母が暮らしていたのですが二人とも亡くなって空き家になっていた家で暮らすようになったのです。『亀八』で晩ご飯の賄い飯を食べた後、僕と兄貴はその家に帰っていくという生活を送るようになりました。自立心じゃないけれど、両親に構ってもらえなかったぶん、いろんなことを自分で決めて行動する癖というか、生活スタイルが身についていたのでしょう。僕が母方の祖父母の家に家出したのも、そんな自立心の表れだったのかもしれません。

 両親の懸命な努力が実って『亀八』は大きくなっていったのですが、僕が中学2年生、14歳の時に親父は肝臓がんで亡くなってしまい、同時に『亀八』も閉店してしまいました。『亀八』があった場所は区画整理が行われる予定だったので、親父がもし生きていたら、移転のための補助金をもらって寿司屋と宴会場と住居が入ったビルを建てるつもりだったらしいのですが、その目前に亡くなってしまい、移転計画は中止。ただ、家の移転費用はいくらか補助されたので、母が家を建て、そこに家族3人で暮らし始めました。

 僕は小学校の高学年ぐらいから『亀八』を継ぐつもり、というか、そんな雰囲気の中で育ってきていました。たぶん、大学受験とか勉強をしなくて済むからというのも『亀八』を継ごうとしていた理由だったと思います(笑)。ただ、親父からは、「継がせん。大学に行って勉強したら継がせてやる」と言われていました。僕の甘い考えを見透かされていたんでしょうね。僕は勉強が好きではなく、中学生の時は高校に進学するかどうかさえ迷っていたくらいでした。というか、高校に行くつもりはありませんでした。

 高校1年生だった兄貴はバイクの暴走行為で警察に捕まり、高校を退学させられてしまいました。兄貴はその後、大阪の美容専門学校に通うために家を出ました。親父のいない母と2人きりになった家の中で、「これ以上母に心配をかけてはいけない」と子ども心に思ったのでしょう。「高校くらいは出とこう」と、児湯郡では進学校だった普通科の高校に進学することにしたのです。以前は、『亀八』を継ぐつもりで料理の専門学校に行こうとしていたのですが、その道はすでに閉ざされていました。

 親父は41歳で亡くなりました。20歳代、30歳代と頑張ってきて、やっと自社ビルじゃないけど立派な店を建て、夢を叶えようとしていた寸前に亡くなったので、一緒に頑張ってきた母はかなりショックを受け、これから先どうやって生きていこうかと大きな不安に襲われ、元気を失いかけていました。兄貴は高校を中退するし、母はパートで働き始めるし、「僕もちゃんとしなきゃ」と高校に行く決意をしたのです。

 兄貴は中卒ですが、今は起業家になって事業を起こし、成功しています。兄貴は親父を尊敬しているはずです、きっと。裸一貫でプレハブの寿司屋から始めて、努力して店を大きくし、ビルを建てようかというところまで商売を成功させた親父の背中を追っているところはあるように感じます。僕はどちらかといえば、母の強さを見習いたいなと思っています。ずっと親父を支え、亡くなってからは女手一つで僕を育ててくれたので。

 母は数字に強い印象があります。親父は職人気質で、人から好かれていました。「焼肉屋をやりたい」と思ったら突然、鹿児島に1か月間、店は母に任せて修行に出かけ、肉の仕入れを勉強し、めっちゃうまいタレをつくり、2階の宴会場の一室を焼肉屋に変えて、営業を始めたりしていました。そういう気質なんです、親父は。自分のやりたいように好きに生きる人。それを裏で支えていたのが母です。経理とか、お金のことは母の担当でした。2人暮らしになった時、母から昔の話をよく聞きました。親父が連帯保証人になっていたことや、持っていたゴルフ場の会員権をいくらで売るとか。そういう話を聞いていると、「親父も凄いけど、母も凄いな」と尊敬するようになっていったのです。九州の女性はしっかりしていると言われますが、母もそうなのかもしれません。

 小学生の頃、ランドセルを背負って帰ってくる場所は『亀八』でした。今の店はアイドルタイムといって、午後の3時頃から5時頃までは店を閉めて休憩したり、夜の仕込みをしたりするのが一般的だと思いますが、『亀八』はアイドルタイムなしでずっと開いていました。ただ、どっちみちその時間帯にお客さんは来ないので、店の前の道路で親父とキャッチボールをしたりして遊んでました。そんなに車も通らなかった道だったので。道路脇には水路が通っていて、その水路を飛び越えるという遊びもしました。それから、親父は店の駐車場の隅に鶏小屋を自作して、鴨や孔雀を飼ったりしていました。従業員が、「怪我してたから」と持ってきたフクロウも飼ってましたが、その鳥小屋の掃除をしたり、鳥小屋の扉を開けると孔雀や鴨が出てくるので、駐車場の中で散歩させたりもしていました。散歩というか、鳥たちが歩いているのを逃げないように見守ってるだけですけど。そういえば、新富町長の小嶋崇嗣さんの家にも昔、孔雀がいたって仰っていました。昔は孔雀を飼うのがステータスだったのか、流行ってたんでしょうね。

 朝、市場に連れていってもらうこともありました。宮崎中央卸売市場。車で30分くらいかけて出かけました。寿司に使う水揚げされたばかりの魚をセリで落として仕入れていました。セリが終わったら、棒つきの飴とか買ってもらえたので、それが楽しみでついていったのです。三角形の飴が細い棒の先についている、あの飴を親父は箱買いするんですよ。どうするかというと、お店に来たお客さんの子どもたちにプレゼントするのです。「どうぞ」って、サービスで。そういう人なんです、親父って。

おひねりが飛び交った三納代神楽の舞

 夜の営業が始まると、店のお客さんとよく喋っていました。僕は小学校の低学年でした。カウンター席のお客さんに呼ばれて、横に座って、「これ食べな」と食べ物をもらったりしながら、とりとめのないことを喋っていました。他に居場所はなかったし、ガヤガヤしている雰囲気が好きだったんです。両親から注意された記憶もないので、たぶん放置されていたのでしょう。後に役場に勤めるようになった時、年配の方々から、「ちっちゃい頃、店の中をちょろちょろしてたよね」ってよく言われました。

 もう亡くなられたのですが、森長年さんっていう親父の同級生で親友の農家さんにはよく懐いていました。大人になってからも懐いていました。長年さんという名前ですが、僕は冗談で「半年さん」と呼んでいました。カウンターでどんな話をしてたかは覚えていませんが、たぶんただの世間話だったと思います。学校の話とか、今日は何をしたかとか。長年さん界隈の人も結構お店に来られていて、その人たちとも喋っていました。大人と喋るのは楽しかったですね。人見知りもしなかったし、輪に入ろうとしてました。大人の世界を垣間見るとかそんな思慮深い子どもではなく、ただ単に喋るのが楽しかった、相手にしてもらえるのが嬉しかったというだけで大人に近づいていました。

 お客さんが帰って店の暖簾を下ろしたら、従業員と一緒に賄い飯を食べ、祖父母の空き家に寝に帰っていました。そこには兄貴がいました。兄貴は僕のように店内で大人と喋ったりはあまりしませんでした。本当は勉強もできたんだろうけど、あえて答案用紙を白紙で出したりするような人で、バイクの改造もヤンキーみたいな派手な改造をするのではなく、ここが微妙にカーブしているとか、見た目にも美しい改造をしていました。何事においてもセンスがあった気がします。そして、もう時効だと思うのでここだけの話として言いますが、兄貴は中学の時から車を運転していました。親父のマニュアル車。区画整理される前だったので、役場も昔の場所から今の場所に移転する頃で空き地がたくさんあったのです。その空き地で、僕も兄貴から運転の練習をさせられ、車に乗れるようになったら、「駅に迎えに来い」って呼び出されたりしていました。夜、両親は仕事しているので見つからないから大丈夫だ、と。そんな兄貴でした。

 2階で宴会のあった日は、片付けも手伝いました。その時は兄貴にも招集がかかりました。僕は片付けが得意で、素早く食器を厨房まで運んでいました。時々、皿の上に手をつけていないエビが残っていて、それをつまみ食いしたりしながら(笑)。開いたエビにマヨネーズをかけてオーブンで焼いたのがあって、めちゃくちゃおいしかった。あれが残っていると喜んで食べてました。

 宴会の時はお客さんがカラオケを歌うんですけど、大きめのカセットを挿入口にガチャっと入れると曲が流れるという仕組みの機材がステージ近くに置かれていました。カセットには20曲くらい入っていて、機材を操作して選べば、お客さんが希望する曲が流れるというもので、僕はそのカセットを入れる役をやってました。自分が歌いたい曲の番号が歌詞カードに「A-15」とか、「B-3」とか書いてあって、その番号を押すと歌が流れる。お客さんのところへ走っていってマイクを渡すというカセット係です。で、僕も一緒に歌ってました。だから、古い歌は今でもたくさん歌えます。店か家かで宿題もやってたはずなんですが、勉強した記憶はほぼないですね。お客さんと喋ったり、歌ったり、エビをつまみ食いしたり、そんな思い出ばっかりです。

 一つ思い出しましたが、小学1年か2年生の頃に、歩いて遠いところまで行ってしまって、迷子になって家に帰ってこれなくなったという「事件」がありました。家から8キロくらいのところを歩いていた僕を保護してくれた人は、親の知り合いだったので僕に、「啓二くんでしょ? もう暗くなるよ。こんなところで何をしているの?」と声をかけてくださったようです。僕は「お腹が空いた」と答えたらしく、その人の家に連れていってもらい、ご飯もお風呂もいただきました。家では夜8時過ぎても僕が帰ってこないから川で溺れたのかもしれない、警察に通報しようかと騒動になっていたのですが、そこに電話がかかってきたのです。「うちで寝てるから。安心して」と。どうして一人で遠くまで歩いていこうと思ったかは定かではありません。冒険心というか、どこまで行けるか試してみたかっただけなのかもしれません。

 こんなこともありました。僕はジャッキー・チェンが大好きで、4年生の時にジャッキー・チェンに手紙を書いたんです。「ここに出せば、ジャッキー・チェンに届く」というのを何かで見つけて。お店でアルバイトをしていた大学生の人が中国語専攻だったので、僕が書いた手紙を中国語に翻訳してもらって、投函したんです。香港の住所に。そしたらなんと、返事が届いたんです。今考えても凄いなと思うんですけど。あの頃、ジャッキー・チェンって世界中で大人気だったじゃないですか。封筒を開けて、手紙を取り出して、アルバイトさんに訳してもらいながら読んだら、「ぜひ、香港に来ませんか?」と書いてあったのです。ジャッキーは香港の演劇集団の出身で、その「演劇集団に入りませんか?」という勧誘だったのです。「ただし、20歳までは日本に帰れません」とも書いてありました。僕はもうめちゃくちゃ行きたくなって、「俺、香港行くわ」と親に宣言しました。もちろん、「そんなバカなこと言ってんじゃないよ」と一蹴されました。「ダメに決まってんだろう」と。残念でしたが、まあ今考えても行けるわけありませんよね。それくらい思い立ったら後先考えずに行動する子どもでした。
 神楽もやっていました。お客さんからリクエストがあれば、2階の宴会場で神楽を舞ったりしていました。なぜ、神楽を舞うようになったかというと、僕が小学生の頃に三納代神楽保存会という神楽の会が立ち上がったのですが、その会が、『亀八』の前で神楽を舞っていたのです。郷土芸能の坊主踊りとか、盆踊りとか、お金を払って呼ぶと店や家の前で踊ってくれるんです。そうすると、お客さんが喜ぶから、両親は機会があれば神楽や踊り手を呼んでいました。踊っている人たちと一緒に、なぜか僕も踊っていました(笑)。そんな姿を見た三納代の人たちから、「あそこの息子はたぶん踊るぞ」と目をつけられ、三納代神楽保存会から「入りませんか」と誘いが来たのです。僕の住んでいた部落は富田で三納代じゃないのですが、5年生の時に会に入ることになりました。保存会には子どもが10人ほどいました。子どもに神楽を教えて、文化を継承していくことが目的だったようです。坊主踊りも盆踊りも見よう見まねで踊っていたくらいなので、僕は踊りが好きだったんでしょう。最初は子どもたち4人くらいで舞う神楽を僕も習っていたのですが、自分で言うのもなんですが、誰よりもうまいんです。筋がいいものだから、大人たちは僕にだけ個人レッスンを始めたのです。「他の神楽も舞ってみんか」と言われて、社務所に連れていかれ、面をつける舞をマンツーマンで教わることになったのです。40年ほど前の当時、子どもが面をつけて舞うことはありませんでした。今は子どもも面をつけるようになりましたが、あの時は僕にだけ大人が舞う面神楽を教えてくれたのです。面神楽は一子相伝で伝えるプライドの高い神楽だったので、他の人は舞えませんでした。それを継承し、舞うことになったのです。小学生の僕が。

 三納代八幡神社の神楽殿で面神楽を舞っていたのですが、「あの子はうまい」と評判になり、僕が舞うとおひねりが飛ぶようになりました。「おひねりが飛ぶのは初めて見た」と、保存会の大人たちも驚いていました。ティッシュペーパーに1000円札を包んで投げたことから始まったのですが、やがて保存会の方々がお客さんのところに三宝を持って回っておひねりを集めるようになりました。僕にはおばさんたちのファンができ、個別でご祝儀をもらえるようにもなりました。「あなたの舞を見にわざわざ来たの。宮(神社)じゃなく、あなたに直接渡したい」と神社の裏に連れていかれ、御祝儀袋で2万円をいただいたりしたこともあります。残念ながら、そんなふうにいただいたご祝儀は全部親に没収されましたが。

 宮崎は天尊降臨の地ですから、古事記的なエピソードが各地に残っているのです。山幸彦、海幸彦、天孫降臨で降りてきてとか、天照大神とか、そういう伝説が残っているので、神楽がだいたいどの地域にも残っています。新富町にも、三納代神楽、富田神楽、新田神楽、日置神楽の4つの神楽があります。そういう地域ですから、神楽を舞ったり、それを観たりすることは子どもにとっても日常的なことで、正月に神社に初詣に行くと神楽を舞っていますし、特別な体験ではなかったのです。

 神楽の他にも、野球、柔道、ラグビー、バスケットボール、レスリング、水泳といろんなスポーツをやっていました。小学生の頃、僕は持久走大会で学年1位になったり、全校リレーで選ばれたりと足が速く、水泳も必ず記録会に出る割と運動神経のいい子どもでした。それで、野球も小学3年生から始めたのですが、1年で辞めてしまいました。というのも、4年生になっても一度も試合に出してもらえなかったのです。これは後で親から聞いたのですが、試合に出られない悔しさから、僕はユニフォームをハサミで切ってたらしいんです。「なんであいつが出れて俺が出れないんだ」って文句を言ってたって。「絶対、俺のほうがうまいだろう」って。ちょっと傲慢なんですけど。そういうことがあって、親父が「もう辞めろ」と言って、野球は辞めました。

 すると、「ラグビーしないか」って小学校の先生から誘われました。その先生はラグビーが盛んなことで知られている高鍋町の出身で、『高鍋ラグビースクール』に入ることを僕に勧めてきました。『高鍋ラグビースクール』は宮崎県ではかなり有名でした。スクール出身者が多く所属する宮崎県立高鍋高校ラグビー部は8年連続で花園ラグビー場、高校野球でいう甲子園、つまり全国大会に出場しているほどの強豪高校でした。それで、高鍋でラグビーをするためにスクールまで自転車で通うことになりました。片道15キロ。全員高鍋の子どもたちなので、完全アウェーのところへ新富から入っていきました。そこで、6年生までラグビーをしていました。

 すると今度は、新富町の刑務官の方が地域で柔道部を立ち上げるというので、僕に「キャプテンをしてくれないか」と頼んできました。5年生の時です。でも、僕は柔道をしたことがありませんから、「いきなりキャプテンは無理だ」と思って断りましたが、「啓二くんなら大丈夫」って強引に説得され、柔道初心者の白帯くんがキャプテンを務めることになりました。

 中学に入ると、部活動でバスケットボールを始めます。バスケもおもしろくて熱中しました。ただ、チームのキャプテンを決める際、僕がいちばん得点するし、練習メニューも僕がつくっていたので、「どう考えても僕でしょう」と思っていたところ、顧問の先生が「投票で決める」と言い出しました。投票の結果、選ばれたのは僕でした。すると先生から呼び出されて、「みんなの投票はそうだけど、俺はお前じゃないと思う。お前は素行が悪いし」と言われました。僕は納得できませんでしたが、「もういいや。面倒臭い」と思ってキャプテンは辞退しました。それでも実際にチームを仕切っていたのは僕で、キャプテンは補欠でした。顧問の先生は何をしたかったんだろうなと今でも疑問に思います。僕にキャプテンをさせたくなかったのなら最初から投票にしなければよかったし、おまけに自分で言い出した投票の結果を自分で覆して、別の生徒をキャプテンに選ぶし。変ですよね。まあ、おそらく僕が先生や大人を舐めているような雰囲気を出していたから、気に入らなかったのでしょう。僕は周囲からヤンキーとも言われ、目立っているとも言われ、勉強ができ、成績もそこそこよいとも言われてました。当時、宮崎県では進学校の部類に入る高鍋高校に入学しましたから、それなりに勉強はできたのかなと思います。ヤンキーと言われればヤンキーかもしれないけれど、つるんだりするのはかっこ悪いと思って一匹狼的に行動してました。中学生はバイクに乗れないので自転車を改造して暴走族の真似事をするんですけど、それを見て僕は「バカじゃないの」と笑ってました。そんな中学生でした。いろんなスポーツをやってみたのは、好奇心が強かったからかもしれません。誘われたらすぐにその気になるし。何でも深く考えないでやっちゃうところがありました。

 高校時代はバンドを組んだり、体育祭の応援団長をやったり、相変わらず目立ってました。大学は南九州大学にレスリングで入学しました。親父が亡くなった時、僕は未成年だったので後見人をつける必要がありました。母親ではだめで、兄貴は役場の職員だった母方の祖父が後見人になり、僕は親父の親友で、当時は南九州大学レスリング部の監督だった西村盛正名誉教授が後見人でした。後見人なので時々家に来られるのですが、ある時、「お前、高校に行ったら何をするんだ?」と聞かれ、「背が低いからバスケはもう辞めようかと思っている」と答えたら、「レスリングしないか」と誘ってきたのです。プロレスは好きでテレビで見ていましたが、レスリングはまた違うんだろうなと思いながら軽い気持ちで始めました。高鍋高校にはレスリング部はなかったので、同じ高鍋にある南九州大学のレスリング部で練習していました。自転車で通って。県大会で優勝し、九州大会で3位になって、インターハイにも出場しました。高校の部活に入ってもいないのに。そのまま大学でもレスリングを続けました。地元の大学に通わせてもらったのは、家にお金が潤沢にないことを知っていたから。母は昼は外で働いて、夜は内職をしていました。県外の国立大学もいいのですが、あまり勉強をしていなかったので難しいかなと。なので、そのままレスリングのつながりで進学しました。ただ、大学に入ってからは、だんだん遊びの方に足が向くようになって、遊んでました。将来のこともまったく考えず。自分がやりたい仕事が何なのかもわからないまま。 家出をしていた時にお世話になっていた母方の祖父が新富町役場の職員だったので、「とりあえず公務員試験でも受けるか」という軽いノリで公務員試験を受けました。でも仲が良かった大学のゼミの先生からは、「お前、研究者になった方がいいんじゃないか」と勧められ、鹿児島大学に紹介状を書こうかみたいな話もありましたが、少しでも母を安心させるために公務員になろうと決意しました。警察、郵便局、地方自治体などを受け、宮崎県の郵便局と新富町役場に合格し、新富町役場を選びました。それも祖父の影響です。母方の実家はちゃんとしているというか、2畝くらいの畑で野菜をつくり、アロエも育てて、怪我をしたらその葉を折って塗るとか、鶏を飼って朝ご飯にその卵を取って食べるとか、そういう暮らしをしていました。祖父の家に行くと、遊びが将棋になりました。そんな大好きな祖父が役場に勤めていたから、僕も役場がいいかなと。安定しているし、給料もそれなりにもらえるし。当時は就職難で、新富町役場を100人くらい受けて合格者は2人しかいませんでした。そんな狭き門に合格したんだから辞めるのももったいないし、役場に勤めることにしたのです。

台風14号。不眠不休で働いたカップラーメンの味

 役場に入庁したのは1999年、22歳でした。先輩方には『亀八』の頃から知ってくださっている方も多く、僕に目をかけてくれて、「勇夫ちゃんや知代ちゃんにお世話になった」って声をかけてくださいました。もしかしたら10数年前、カウンター席で子どもだった僕と喋ったことのあるお客さんもいたかもしれません。役場に入ってすぐに仕事ができたわけではないけれど、「一生懸命やってる。よく動くな」くらいの印象は持ってくださっていたのでしょう。異動をお願いして希望を叶えてくれたのもたぶん親の存在があって、「息子も自分からやろうとしているから、応援してやろう」ということで異動を認めてくださったりしたんじゃないかな。ただ、「親の七光り」という言葉がありますが、僕としては親じゃなくて僕自身を見てほしい、新人として正当に評価してほしいという承認欲求は強かったです。

 入庁したら、まず福祉課に配属されました。最初は任される仕事が限られていたので、「それもできます」「たぶんできます」と自分からどんどん仕事をもらいにいって仕事を増やしていきました。なので、先輩や上司から気に入られました。

 ただ、一度遅刻したことがあります。その時は親戚の叔母さんが起こしに来てくれました。「岡本が来ていない。なんかあったんじゃないか」となって、専業主婦だった親戚の叔母さんに上司が連絡したんじゃないかと思います。「もしかして倒れているんじゃないか」と、叔母さんが心配して家に見に来てくれたんですが、僕はただぐっすりと眠っていただけでした(笑)。慌てて起きて、役場に走りました。普通なら怒られるところを上司は、笑顔で「おはよう」って拍手で迎えてくれました。そういういい関係性はつくれていたのかなと思います。課長からはめっちゃ叱られましたけど。ただ、その課長、『幸楽飯店』(現在は『千ト康らく』)のあんかけ焼きそばが大好物で、『幸楽飯店』は出前をやっていなかったので僕が、「取ってきましょうか?」と言うと、ニヤニヤしながら「行け、行け」って合図していました。僕が出前であんかけ焼きそばを運んだりしていたので普段から気に入られてはいました。福祉課には1年間、在籍しました。一般的には3年間ほど在籍するのですが、たまたま税務課に空きが出たので、その穴埋めに異動させられたのです。あんかけ焼きそばを取りに行く部下がいなくなるので課長は寂しがっていましたが。

 税務課には、賦課係、徴収係、固定資産係の3つの部署があります。賦課係は、住民税、法人税、軽自動車税、国民健康保険など課税をする仕事を2年間勤めた後、町の外郭団体の人が人事交流で税務課に来たので、僕は徴収係に異動しました。家に行って税金を徴収する滞納整理や、差し押さえ、納税相談などの仕事があり、それも2年間勤めました。ここまで来たら固定資産もやりたくなり、課長にお願いしたら許可されて、土地、建物、償却資産の3つの固定資産について担当しました。税務課の3つの部署すべてに配属される職員は珍しいようです。税務課には5年間いましたが、学んだことは今でもすごく役立っています。

 僕は子どもの頃、店に来る大人のお客さんとよく喋っていましたが、滞納整理も会話です。税務課に来る方って、何かしら問題を抱えている方が多いじゃないですか。税金を払っていないとか、土地の境界がおかしいとか。そんな問題を抱えている方と話すときに大事なのは喋り方なんです。テンポよく、小刻みに、相手のことをよく理解しながら喋ると話がうまく進んでいきますが、角張った喋り方をするとうまく進まない。当時、確定申告は手書きだったのですが、僕の列には相談者がたくさん並んでいました。わかりやすく、的確に教えていたからでしょう。農家さんや個人で事業をやっている人も大勢来ます。「あと経費が2万円あったら、こっちの段階に入るので結果、税金が安くなりますよ」とか、節税対策をアドバイスしていました。軽トラは仕事で使っている分と家用として使っている分をわけなければいけないのですが、仕事用として20パーセントの経費しか計上していなかったら、「50パーセントまでいけますよ」とアドバイスしたり。寿司屋の息子なんで、サービス精神が旺盛なのでしょう。

 確定申告の時期は忙しいですが、夏はめっちゃ暇です。だって、税務署じゃないですから。税務課は権限が限られているので、そんなに仕事も多くありません。暇だから、野球チームをつくったりしてました。工藤貴之さんという一つ下の男性が新人公務員として入ってきた時、「野球をしたい」と言い出しました。その時の係長が少年野球の監督をしていたんです。そしたら飲み会の席で、「野球チームをつくろう」となりました。監督はその係長で、なぜか僕がキャプテン。そんなふうにして税務課野球チームが生まれ、役場に元々ある自治労野球チームと対戦したりしていました。負けてしまいましたが。

 新富町青年団で演劇もしていました。昔は地域の青年団の活動がすごく盛んでした。異業種の若者が集まって研修をしたり、歩こう会を企画したり、海岸の清掃作業をしたり、いろんなことをやっていました。新富町青年団には役場職員も何人か入っていて、その人たちに誘われて僕も入ったのです。学校の先生やお茶屋さんも入られていて、一緒にお祭りのボランティアをしたり、花火大会で夜店を出したりしていました。

 新富町青年団は今はもうないのですが、僕が28歳くらいの時、会長になりました。その時に、「演劇をやらないか」と提案したのです。理由は、全国大会が東京で行われるから。「みんなで東京に行こうぜ!」という下心丸出しで演劇を始めたのです。演劇だけでなく、ダンスとか演目はいろいろあったのですが、演劇がいちばん選ばれやすそうな気がしたので、挑戦してみようと。ただ、予選に出場するのがうちの青年団だけだったので、代表としては選ばれませんでした。全国大会に出場したければ自費で東京に行ってくださいということになってしまいました。話が違うと思いながらも、とりあえず劇はやりました。新富町文化会館という今、『こゆ財団』が指定管理で入っている施設ですが、そこで20代のいい大人たちが劇をやったわけです。メンバーは14、15人いて、脚本は僕の友達が書きました。時代劇なんですが、武器はライトセーバーという素人劇。僕はみんなから薦められて主役を演じました。1か月間ほど練習したことで団結はしましたね。ただ、やはり自腹はきついということで東京へは行きませんでした。代わりに、大分県に研修に行きました。大分の青年団と交流する目的で。交通費も半額出るということだったので。

 そんなこんなで子どもの頃と変わらず、役場に入ってからもいろんなことに挑戦というか、好奇心を持って取り組んでいました。人からも、「全然変わってないな」とよく言われます。
 その後、総務課へ異動し、防災と消防の担当になります。消防主任になるときに、3月に今の前の前の町長から呼ばれて、「お前、頑張っているってよく聞くよ」と農業振興課と消防主任と書いた紙を渡され、「どっちかに○をつけろ」と言われました。異動です。新富町は農業が基幹産業だし、僕も農業をしっかりと勉強しておきたくて希望調書に「農業振興課に行きたい」と書いていたこともあり、農業振興課に○をつけたのです。そして、町長室を出ていったのですが、総務課にいた井下喜仁さんという先輩が、「どうしたの、町長に呼ばれて」と声をかけてきました。あったことを説明したら、「お前、アホか」と笑われました。「絶対、消防主任やろ」って。「でも僕、出世とか興味ないんで」と答えながら税務課の部屋に入ったら、比江島信也さんという先輩が同じように声をかけてきて、説明したら、やはり「アホか」と。「農業振興課はいつでも行けるけど、消防主任は今行かなかったら一生、行くことはない。お前は町長から投げられたボールを無視して拾わなかったということ」と。それを聞いてようやく理解した僕は慌てて町長室に戻り、「ちょ、町長、さっきのはなしで!」と叫びました。 町長は、「おう、わかった」と笑顔で承諾してくれました。

 総務課は防災を管轄していて、その中に消防の防災も含まれます。消防主任は役場の中でも特別な職みたいな感じで設けられています。当時の消防主任は出世の登竜門とも言われていて、20代で就くのは僕が初めてでしたから大抜擢と言ってもいい人事でした。消防主任の仕事には、まず防衛省関連補助事業を活用した消防団や防災の事業があります。例えば、消防車の更新。1台2000万円ほどしますが、事業申請など一連のお金の流れを把握する必要があります。会計検査もありますから事務も勉強しなければなりません。消防署の詰所を建てるのも仕事で、土地・建築等についての勉強が必要になります。

 防災計画をつくるのも重要な仕事です。新富町の今のハザードマップの初期のものを製作したのは僕だし、2005年に台風14号が襲来し、一ツ瀬川の堤防が決壊寸前になり、初めて町が避難勧告を出したのですが、三日三晩、役場で寝ずに対応しました。あの災害の後、町の防災計画を大幅に見直しました。僕が中心になって。防災計画を見直すには、各地域の人たちにも参加していただいて、第1章から第6章までつくったものを全部、協議をした上で議会にかけて、成立させていくのですが、係長クラスが行うような仕事ですが僕が行いました。

 また、町内に消防団が4分団16部あり、団員が大勢おられるので、それを束ねるのも仕事です。総合力が必要になります。消防主任は消防団幹部を通じて消防団を仕切るので、幹部会に出席して団長のそばで、団はこう進んだ方がいいとか、次の訓練はこうした方がいいとか、その事務を僕が行います。現場も大事ですから、夜警や消防訓練には顔を出し、終わったら飲み会に出席して、団員たちとコミュニケーションを図ります。だから、かなり忙しいです。

 町の防災計画をつくり直したのは、台風14号に襲われたからです。1000ミリを超える豪雨による浸水や土砂災害、暴風や高波に見舞われ、宮崎県では13名の方が亡くなりました。新富町はこれまで避難勧告を出したことがなく、発令基準はあるものの、そもそも全町体制で防災に取り組んでいなかったので、総務課だけで動くしかなかったのです。僕になってから全町体制になったのです。こんなに避難者が来るとか、ご飯はどうするのかとか、もうめちゃくちゃな状況になり、不眠不休で働き続けました。役所の中は怒号が飛んでいました。避難所では、「俺はいつまで避難所にいるんだ?」「飯はいつ食えるんだ?」と町民も初めて避難するわけですから何もわからず、不安な様子でした。イライラして頭に来るから、「どうなってんだ!」と怒鳴る人もいます。台風も速度が遅く、なかなか通り過ぎてくれない。停滞して、川の水かさがどんどん上がっていく。総務課も未経験の事態なので、どう対処していいかわからない。水道が止まってしまったので飲み水や風呂の水を配り、その後、畜産農家の牛や豚、鶏にも水が必要なので、消防のタンク車を消防団から出して、隣町まで水を汲みに行って牛舎や豚舎、鶏舎に運ぶ。それを巡回させていく。そういった対応一つ一つにも経験がないから時間がかかってしまうのです。役場全体がめちゃくちゃになっているなか、僕も対策を考えたり、指示を出したりしていましたが、初めてなので聞く人がいません。係長に「どうすればいいですか?」と聞くと、係長は課長に「どうすればいいですか?」と聞き、課長も答えられないというようなパニックに陥ってしまうほどの未曾有の災害だったのです。避難勧告を発令したらどうなるのか。課長自身も考えがあったのでしょうけれど、前例がないために判断できかねていたに違いありません。全員で考え、全員で判断するしかなかったのです。

 僕は消防団員を全員出して、川の決壊しそうな堤防に土嚢を積むよう指示を出して、100人くらいで作業をしてもらっていました。川から溢れた水が民家に流れ込んでいたので、急いで水を止めようと。けれども、本当はそんな指示を出したらいけなかったのです。みんな逃げなければいけなかった。そんなことも知らなかったのです。でも、「水が溢れて、家から出れないんです」って電話がかかってくると助けに行かない訳にはいかない。ただ、役場職員はいないし、助ける方法も知らない。

 三日三晩、寝ずに対応にあたりましたが、上司の倉永浩幸さんと一緒でした。11歳年上ですが、町長の運転手として入庁した同期の方で、現場が得意でいろいろできるので一緒に動いてくれました。水を配るタンク車は4トンのロングで、エアブレーキなんです。運転が難しくて普通の人は乗れないけれど、倉永さんは運転できましたし、町内の企業の温水プールを使おうとなった時には倉永さんが話をつけて、早速プールの脇にポンプ車を配置するとか、現場に強い方でした。その人と一緒に動いていたから僕も救助活動ができたのです。一人じゃ絶対に無理でした。

 3日目のお昼に2人でカップラーメンを食べたんですが、あれはめちゃくちゃおいしかったです。でも、みんなの前では食べられません。総務課に届いた食料は地域の避難所に持っていかないと、「お前ら、避難所が食べるものがなくて困っているのに、何を食っとんだ!」と怒鳴られる状況でしたから。僕らも食べてないんですが、見た人は、「何を悠長にラーメンを食べとるんじゃ」となるわけです。3日目にしてようやくありつけたカップラーメンであっても。だから外に出て、人のいない建物の隅っこで隠れるようにして食べました。

 そんな数日間を過ごした後、ようやく台風14号が通り過ぎ、雨と風は収まりました。そして、町の防災計画を全面的に見直したのです。職員全員に説明会を行い、今までは総務課だけで動いていましたが、職員全員が動かないとダメという形に変えました。台風が来るとわかった時点で、どこに避難所を開設するか、何課の職員を何名配置するかというふうに役割分担をつくりました。14号の時は避難所に職員が1人ついたのですが、いつまで経っても交代が来ませんでした。そんなことにならないように、避難所と町民のケアは何課が行う、道路の冠水は何課が担当するというように役場職員全員が動くように体制を整えました。

 防災計画はいろいろなものを参考にしながら、防災の係長や課長補佐を交えてつくっていき、数センチもある分厚い計画書ができあがりました。コンサルタント会社に依頼してつくってもらうパターンも多いのですが、僕らは自前で、台風が来た年のうちに完成させました。

 消防主任は2005年から2009年まで4年間、勤めました。新富町の消防団員は250人くらいいて、みんな地域の若者たちです。飲むと、その全員を知ることができます。誰が、何の仕事をしていてと、人を覚えることにはすごくメリットがあります。農家をやりながら消防団員を務めている方もおられます。多様なつながりをつくっておけば何かやろうとするときに助けてもらえると思って、一生懸命飲みました。今、『こゆ財団』の活動をする時も、消防団での飲み会がすごく役に立っています。

 通常時だけでなく、たとえば年末には夜警期間が10日間ほどありますが、「火の用心ちゃんちゃん」というあれ、あの期間に16ある部のすべてに顔を出します。行くと、必ず飲みます。つまり10日間で16回飲むわけです。さらに、消防総合大会とか出初式の練習とか1か月間ほど続きますが、その期間もほぼ毎日飲みます。今だと夜警してるのに飲んでいいのかとなりますが、当時はそんな感じでした。そうすると、「仕事と家族のどっちが大事?」問題が発生するのです。もちろんどちらも大事なのですが、この時期は特に仕事に比重を置かざるを得なくなるのです。「ごめんね、家族」。

口蹄疫に負けるな! 子ども相撲大会を企画

 消防主任の次は、まちおこし課に配属になりました。消防主任4年目に、前町長から、「お前は農業振興課を希望しているみたいだけど、まちおこしをしてくれんか」と声をかけられたのです。この頃から、内辞がある前に町長に呼ばれて、「こうしてくれ」と頼まれるようになりました。できて2年目のまちおこし課に行くと、ある商品が問題になっていました。新富温泉の水を使った化粧水『どんぐり』です。

『どんぐり』が生まれた経緯はこうです。宮崎県・美里町が温泉の水を使った化粧水を販売していましたが、それがどうやら売れているらしいと。その化粧水をつくっている人が町長の知り合いで、町長に売り込みに来たようです。そこで町長が、「うちもやる」と言い出し、新富温泉の水を使った温泉化粧水をつくることになったのです。完全に「パクリ」です(苦笑)。ただ、つくったはいいものの『どんぐり』は全然売れず在庫の山でした。それを売るのが僕に与えられた役割だったのです。

 ただ、僕は商品を販売するのは初めてでしたし、後から考えると、「あんなダサい商品、売れるわけがない」と思うくらい、売れなさそうな商品でした。パッケージは、ひらがなで「どんぐり」と書かれた赤い紙が瓶に貼られていましたが、その字は子どもたちにコンテストをして書かせたもの。子どもたちが悪いわけではなく、そのアイデアがよろしくない。そこでデザイナーを入れて、ボトルの色も形も、名前も変え、澤岡亜希子さんという女性のプロジェクトメンバーと一緒にパッケージを一新しました。パッケージデザインは公募し、ボトルもいろいろ探して、美しさや使いやすさも考えて、とにかく1本でも多く売ろうと営業努力をしました。宮崎市内の催事に出てPRしたり、芝桜(シバザクラ)という町内の個人宅の観光庭園で販売したり。それでも、売れませんでした。物を売る難しさを思い知らされました。

 手に取ったお客さんから必ず聞かれるのが、「どんぐりの成分が入っているんですか?」という質問です。誰もがそう思いますよね。「いえ、入ってません」と答える僕。商品名の「どんぐり」は、団結の「団」がなまった言い方で、新富では「どん」と発音します。「みんなでまとまろう」という意味で使うことがあります。「ぐり」は、忘れてしまいました。忘れてしまうくらい意味がわからない商品名でした。そういう点からしても、売れそうにないですよね。ものを売ることは叶いませんでしたが、いい勉強にはなりました。

 僕が考えたのは、「まつりしんとみ」という町民のお祭りの一企画として開催する、新富町内の飲食店対抗のグルメコンテストです。「まつりしんとみ」が少しマンネリ化していたこともありました。屋台が並んで、ステージで出し物をして、知らない演歌歌手が来る、みたいな。「それ、おもしろくないですよね。なんか違うことやりましょうよ」って、当時、若者連絡協議会の会長だった川上喜義さんとグルメコンテストをやろうという話になったのです。

「各店舗自慢のメニューを食べた人がどこのお店がおいしかったか投票し、優勝したところに盾がプレゼントされるという企画です」と町内の飲食店を回って、出場を依頼しました。今まで屋台が出店していたわけですから、そのぶんの屋台を減らし、ただ一部は残さないといけないということで残したのですが。飲食店からすると、グルメコンテストに自分の店の食べ物を出して勝負するのですから、負けると店の評判にも関わります。ですので、出場を渋る店も当然あるわけで、説得するのは簡単ではありませんでした。結局、15店舗ほどが出場してくれて、優勝したのは『ながのうどん店』の鶏ごぼううどん。地元のテレビ番組にも出たことのある、町外からも来客する店の人気メニューでした。
 相撲大会も企画しました。これは、2010年に宮崎県で口蹄疫という牛や豚などがかかる伝染病が広がって、牛豚を全頭殺処分するという事象がありました。今でも覚えていますが、1日2万台の車が走るという新富町の国道10号に夜の9時頃、1台も車が走っていないという事態が見られました。ゴーストタウンかと思いました。当然、宿泊者も来ないという状況です。宮崎県に入ると口蹄疫のウイルスを持って帰る可能性があるから行ってはいけないという噂が広まりました。

 口蹄疫騒動が収束した後、宿泊を伴う事業に関して県が補助することになりました。ただ、応募された企画があまりにも多かったため、コンペになりました。僕は相撲大会を企画して、応募したのです。なぜ相撲大会かというと、僕が相撲が好きだということと、新富町は元々、陸奥部屋と縁があったということ。福岡場所が終わった12月、陸奥部屋が新富で2週間ほど合宿していたのです。新富町自体は相撲は特に盛んではないのですが、土俵もあるので、新富町で相撲の九州大会を2泊3日で開くという企画を考えました。そして、宮崎県相撲協会を訪れ、九州大会を開催できるか相談したら、協力してくれることになりました。各地の相撲クラブで相撲をやっている子どもたちに出場を呼びかけてくれました。僕は、宿泊所の確保や補助金の申請などを担って、ついに「新富町長杯各県対抗九州相撲大会」を開催することができました。トーナメントで優勝者を決めるのですが、なぜ子どもたちの相撲大会にしたかというと、子どもが来ると親も来てみんなで宿泊してくれるからです。宿泊客が増えますね。あと相撲少年は飯をめっちゃ食う(笑)。

 相撲大会って、そもそも数が少ないのです。それは、相撲をやっている子どもが少ないからです。機会が少ないので、子どもたちは大会に出たがるのです。しかも補助金から旅費を半額賄えるので、「みんなで行こう!」となるわけです。そうして、無事大会は終了しました。ただ、僕は口蹄疫後の町の復興のための一過性の事業だと想定していたので、翌年は予算を上げていませんでした。そしたら、勝手に予算をつけられ、「もう1回やれ」と。「ということは、相撲大会は成功だったんだ」と理解しました。当時の副町長から、「相撲大会はうまくいかないと思っていたけど、お前に軍配が上がったな」と言われて気づきました。相撲大会は5、6年続けて開催されましたが、僕がいなくなってからは、僕みたいに相撲が好きな職員もそんなにいるわけではなく、運営も大変で、その後は補助金も潤沢ではなかったため終了しました。ちなみに、熊本県から出場して優勝した草野直哉君は、その後相撲取りになって義ノ富士という四股名で今、前頭の上位で活躍しています。とっても嬉しく、応援しています。  まちおこし課での仕事のおもしろさは、相撲大会もグルメコンテストもそうですが、これまで誰もやっていない新たな企画をゼロベースからつくれたところです。自分で企画を考え、そこに予算を持ってきて、人を配置して、という仕事は初めてで、大変でしたが自分が動けばできるんだなという実感が得られたのも僕にとって大きな成果でした。その経験は今も役立っています。

【岡本啓二プロフィール】
1976年宮崎県新富町生まれ。寿司屋「亀八」の息子として育ち、地元の無形文化財・神楽の伝承者としても活動。1999年に新富町役場へ入庁し、税務、福祉、防災、農業振興、企画政策などを歴任。39歳でまちづくり政策課長補佐に就任し、こゆ財団設立を企画、ふるさと納税を2,000万円から20億へ拡大。2018年には地方創生の優良事例として総理大臣官邸で発表。現在は一般財団法人こゆ地域づくり推進機構代表理事として、文化芸術・スポーツ・産業・人材育成を横断し、「挑戦が挑戦を生む地域」の実現に取り組んでいる。

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