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【連載第2回】イン・ザ・タウン〜寿司屋の息子の僕が、役場職員としてまちを盛り上げるようになった理由〜

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大きな注目を集め、大反響のスタートを切った人気連載「イン・ザ・タウン」。待望の第2回は、宮崎県新富町を「ある農産物」への産地へと導く挑戦の記録です。念願の課へと異動した岡本さんを待ち受けていたのは、町内外から絶大な信頼を寄せられる名物上司でした。着任早々、強烈な洗礼を浴びせられて、一癖も二癖もある上司とともに、いかにして町の農業を変えていくのか。地域を揺るがすエネルギッシュな奮闘劇が、いま始まります。

目次

1反20万円! 宮崎県でいちばんの小麦の産地に

 寿司屋『亀八』のところでも話しましたが、親父の親友でピーマン農家の森長年さん(僕はふざけて「半年さん」と呼んでいました)が毎日のように来店されていたり、他の農家さんもよく店に来られていたので、子どもながらに農業の話をよく耳にしていた僕は、農業について多少の興味を持っていました。役場に入ってからも、新富町は農業が基盤の町だと思っていたので、町の農業についてしっかり理解したかったという気持ちがあって、入った頃から農業振興課に行きたいという希望を出していました。まちおこし課で3年間仕事をした後、当時の町長から「行きたいところへ行かせてやる」と言われたので、念願の農業振興課へ異動することができました。2012年のことです。

 農業振興課に入ると同時に係長に昇格しました。これで、農業の「全部」を担当することができます。農業と一言で言っても、米、飼料米、麦、畑、施設園芸(ビニールハウスでの栽培)、果樹などいろいろな分野があり、農業振興課ではそれぞれ担当がわかれていました。その全部を経験したかったので係長として入らせてもらったのは良かったです。そして、農業振興課に入ってすぐに、「新富町の農業と言えばこの人」と職員や農家さんから絶大な信頼を得ていた人がいることを知りました。課長の石谷秀三さんです。農業に詳しく、新富町の農業はこうしていくべきという思想を持っておられる方でした。町の施設園芸の特産でズッキーニがあるのですが、ズッキーニ栽培を新富に持ち込んだのも石谷さんです。そばも60ヘクタールくらい栽培していますが、石谷さんが始めた作物です。石谷さんご自身は農家ではないのですが、自宅の庭に小さなビニールハウスを立て、実験的にいろいろ栽培されていました。その石谷さんの元で係長として仕事を始めた僕でしたが、いちばん初めに石谷さんのところに挨拶に行った時、ガツンとやられたのです。僕が、「今度、農業振興課に係長として異動してきました岡本啓二です」と頭を下げると、「おまえ、酒ばっかり飲んでればいいってもんじゃないぞ」といきなり石谷さんの洗礼を浴びました。消防団を束ねたり、 相撲大会などのイベントを実施したりした時のことを言っているのだと思い、「いえ、僕は酒を飲んでうまく立ち回ろうという人間ではないんで、勘違いしないでください」と僕もちょっとカチンと来たので言い返しました。そして、「稲作も、施設園芸も、全部やりたいです」と言うと、「農業の「の」の字も知らねえくせに調子に乗るな」と釘を刺されました。そんなふうに、石谷さんから見た僕の第一印象は、酒飲みで、派手な仕事が好きな、お調子者だと思われていたみたいです。あながち外れてはいませんが(笑)。

 そこで、僕は農業の勉強をしようと、本をたくさん買って読み始めました。さらに、昼間は農業振興課の指導員と一緒に農家さん一人ひとりを訪ね、どんな農業をされて、どれくらい収入があるのか、ご自身の農業の現在や将来をどんなふうに考え、課題や希望は何なのか、逐一聞いて回りました。普通、役人は現場には出ません。JAの普及指導員が農家さんを回るのですが、新富町の場合、JAよりも役場が力を入れていて、指導員を一人雇い、農家さん一軒一軒を回っていました。その方と一緒について行っていたのです。農家さんだけでなく、指導員も新富町の農業の実態についていろいろと教えてくれました。僕がやる気がある奴と思ってくれたのでしょう。栽培が上手な人のハウスはこういうハウスだとか、役場やJAに対して何を求めているか、どんな販路を持っているか、このエリアだと誰が力を持っているかなど、あらゆることを頭に入れていきました。

 農家さんから、「トラクターが欲しい」「田植え機が欲しい」という相談も受けます。それをメモしておいて、夜、役場に戻ってから補助事業として補助を得られるかどうか調べます。ただ、補助金を申請するには、農家さんの特長を知っておく必要があります。その農家さんの圃場に必要なトラクターは32馬力なのか、60馬力なのか、ローダーは6メートルなのか、8メートルなのか、現場を見ていないとわかりません。だから、昼間は農家さんの現場をあちこち回るのです。僕は農家さんのためと思って補助事業をガンガン取りに行きました。

 農家さんって企業秘密じゃないですけど、栽培方法とか他人に詳しく教えてはならないのですが、僕には話してくれました。「こいつに言っとけば、もしかしたら何か補助金を取ってくれるんじゃないか」と思ったんじゃないでしょうか。農業の「の」の字についていろいろ教えてもらいました。そんなふうに、昼間は農家さんの圃場を回り、夜はデスクワークというスタイルで農業に取り組みました。

 施設園芸の農家を中心に、農家グループも結成しました。新富町は施設園芸が盛んです。宮崎県自体、ビニールハウスの先進地なんです。ピーマンやキュウリは夏野菜なので夏に採れますが、それを温かいビニールハウスで栽培して冬に収穫するという方法を取ることによってピーマンやキュウリを高く売るという農業を始めたのです。当時、その方法が当たって、宮崎県には「ハウス御殿」と呼ばれる農家さんの家がたくさん建っていました。施設園芸が儲かっていた時代です。昭和40年代から50年代頃にかけてでしょうか。僕が『亀八』のカウンターでお客の農家さんとよく喋っていた時代です。半年さんもピーマン農家で毎晩飲みに来るくらい羽振りが良かったんでしょうね。今も施設園芸は盛んで、若手農家もピーマンやキュウリなどの栽培に打ち込んでいます。そんな40歳代までの若手農家が集まって結成したのが、農家グループ「新富町農業研究会」です。普段はあまり公開したがらない自分の施設を開放し、ライバルでもある農家に見せ、栽培方法や独自の工夫などを教えました。みんなが互いに施設を見せ合い、勉強しあったのです。果樹は糖度の高さなどで値段が変わりますが、ピーマンやキュウリはそうではありません。みんなどうしたいかというと、数をたくさん実らせたいんです。ピーマンやキュウリは安いから、出荷数で勝負するしかないのです。薄利だけどたくさん売れば収入は上げられるという考え方。これは全国共通です。だから、病気に強く、たくさん実り、育てやすい品種をつくりたがるのです。それを互いの施設で学び合う勉強会は、「やってくれてよかった。自分も取り入れたい技術がたくさんあって、めちゃくちゃ参考になった」と今でも感謝されています。

 グループのメンバーで千葉県の幕張メッセで開催された『農業エキスポ』にも自腹で足を運び、展示されている最先端の農業について勉強しました。そんなふうに、仲間意識を強め、地域の力を上げていこうと努めました。新富町のような小さな町にとって、それはすごく重要なことだと思います。

 農業振興課での僕の仕事でいちばん大きかったのは、小麦の栽培を始めたことです。今は昨年・一昨年前は、米の値段が高くなったりして考えられないかもしれないですが、当時は米が安く、つくっても赤字だったんです。新富町では1反の田んぼから年間20万円の利益を取るのが目標でした。米で10万円の利益を出せたとして、残り10万円をどうするか。そこで、裏作で選んだのが小麦だったのです。考えたのは石谷さんです。
WCS(ホールクロップサイレージ)という飼料米を表でつくって、裏で小麦を栽培するのです。なぜ小麦を選択したかと言うと、国の重要品目の1つだから。小麦は輸入に頼っているので、自給率を上げるためにも必要だということで、小麦の生産に補助金を出していたのです。そこで、小麦の栽培を始めるのですが、誰も小麦の栽培をやったことがないので、小麦とはどういうものかというところから勉強していきました。「1反当たり20万円の利益を上げるために一緒に頑張ろう!」って農家さんを集め、「小麦作付協議会」という会をつくり、熊本県や福岡県の小麦を栽培しているところに研修に行きました。そうして、飼料米の収穫が終わった秋の田んぼに小麦を植え、栽培を始めました。僕は県に補助金を申請し、7000万円を得て、小麦を生産するための機械を整備し、さらに、小麦を乾燥して籾摺り機にかけ、フレコンバッグに入れるという機械も補助を申請して整備することができました。それをJAの倉庫を借りて設置し、農家さんたちが搬入する小麦を僕がフォークリフトに乗って流し込み、精製したものを熊本の製粉会社に送りました。こうした生産指導や作業などの一連の流れは、普通は役場ではなくJAや普及センターが行います。だって、小麦は米のように普通に小売りはできず、粉にしなければ販売できませんから、必ずJAを通るのです。JAはそこで出荷証明を出し、手数料を取るので儲かるわけですが、新富町の場合、役場が小麦生産協議会をつくり、そこが中心になって行いました。役場の職員が麦畑の様子を見に回ったり、収穫した小麦をフォークリフトに乗ってフレコンバッグに流し込んだりするなんて、たぶん聞いたことがないでしょう(笑)。そんなふうにして小麦の生産をスタートさせ、少しずつ拡大し、今では80haにまで広がり、ついに宮崎県内一の小麦の生産地になりました。

 1反当たり20万円の利益も出せるようになりました。ただ、一般の方からすると農家の収支はわかりづらく、「そうは言っても補助金ばかりじゃないか」と思われる人もいるかもしれません。確かに、WCSにも、小麦にも、補助金が出ます。WCSには戸別所得補償制度で8万円出るので、それも補助金とカウントするとほぼ補助金と言っても過言ではありません。ただ、そうでもしないと農家は食べていけないという面もあるのです。

 一般的に聞くと思うんですけど、補助金を当てにするんですよ、農家って。なぜかというと薄利多売だから。例えば、キュウリ農家が収穫したキュウリをJAに出荷するじゃないですか。でも、必ず手数料を取られます。ただでさえ高く売れないのに、20パーセントの手数料を取られる。だから、農業を続けていくためには補助金をもらわないとかなり生活が不安なんです。自分でブランディングして、JAを通さずに販売する人も中にはいます。ただ、普通の農家はそんな体力ありません。朝早くからキュウリをちぎって、夕方から夜の8時ぐらいまで箱詰め作業。毎日ですよ。キュウリは毎日取らないとすぐに瓜みたいに大きくなって売り物にならなくなってしまいますから。そんな多忙な農家さんがブランディングだの、営業だのできるわけがない。なので、補助金が必要なのです。農家のレベルが1から10まであるとするならば、上の8、9、10ぐらいしか儲からない、本当に厳しい世界です。それでも、新富の基盤を担ってる産業ですから、僕らも頑張らなきゃいけないと思って、さっき話したように10人ほどの若手農家グループをつくって、「農業エキスポ」に行ったり、互いの施設を見学しあって勉強会を開いたりしたのです。儲からないのに、僕たちの命をつくっている大事な仕事。考えさせられるところが多いですね、農業って。

「自分のやりたい農業をしたい」っていう新規就農者が新富町にも来られます。けど正直、自分のやりたい農業を行って成功する農家は多くはありません。ピーマンやキュウリ農家は、薄利多売ですがここまで生産すればこれだけの利益は得られるというやり方で栽培しています。すると、家族経営の場合、なかなか休みが取れません。逆に、休みが取れないほど働かないと成り立たないと言った方が正しいでしょうか。ある時、半年さんと飲んでいたら、「おまえ、俺のハウスいるか?」と言ってくれました。奥さんはすでに亡くなられ、子どももいなかったので、農業は自分の代で終わりだと言っていました。「おまえだったら全部、タダでやる」と。新品なら2000万円、個人売買でも600万円はしそうな新しくていいハウス。僕は、「農業を辞めるなら、ハウスを売って、それを退職金代わりにして遊べばいいのに」と言うと、「いや、俺は農業が天職だった。生まれ変わっても農業がしたい。だから、死ぬまでやる。俺が死んだら全部、おまえに譲ってもいい」と。その言葉を聞いて僕は一瞬、農家になろうかなって思って妻に話したことがあります。妻には、「嫌です。やるなら1人でやってください」と即答され、諦めましたが。その後、半年さんは体調を崩し、ハウスも誰かに売ってしまいましたが、それから3年ぐらいして亡くなりました。土をいじっているからか、植物が相手の仕事だからか、農家さんには気性の激しい人がいない気がします。半年さんを始め、いい人ばかりです。それほど儲けていないのに穏やかです。本当にいい人たち。だからこそ、僕はどうにかしたいと思って懸命に勉強し、働きました。新富の農業、今でもどうにかしたいです。

 農業振興課に入って2年。農家さんよりも、僕の方が農業に関してある程度喋れるようになっていくと、農家さんが僕に質問してくるようになりました。僕は石谷さんに成り代わろうと思って仕事に向き合っていました。あらゆる現場に顔を出し、自ら勉強しながら農家さんにアドバイスをするようになりました。そんな姿を見てくれた石谷さんから、僕は激アツの信頼を得るようになっていきました。

 ただ、僕は懸命に務めていた農業振興課での仕事を2年間で終えることになります。役場のトイレで小便をしていたら、隣に町長がやってきて、突然、「おまえは何がしたい?」と声をかけてきたのです。「今、農業を頑張っています」と答えたら、「俺は、おまえはフリーがいいと思うんだよ」と不思議なことを言ってこられたのです。フリーって何だろうと思って町長に尋ねたら、すべての課を横断しながら大きな課題を解決する立場、ということみたいでした。僕は、「おもしろそうだ」と思い、フリー係長になることにしました。その話を聞いた石谷さんは僕の異動に反対され、町長と副町長に抗議されました。「こいつを異動させたら、新富の農業は3年遅れるけど構わないのか?」と。僕はそう言われて内心嬉しかったです。石谷さんに認められたと思いました。新富の農業のために東奔西走し、町内の200、300軒の農家さんからも顔を覚えられ少しづつ信頼を得てきていたのに、たった2年間で辞めるのはもったいない、異動しなければいいのにと思われるかもしれませんが、フリーになったらもっといろいろなことができると考えたのです。

 たった2年間でしたが、新富の農業のことは補助金も含め、かなり学べました。2年で辞めるつもりは町長とトイレで遭遇するまではなかったので、3年目に「強い農業づくり交付金」っていう、結構大きな金額の交付金を申請し、それで小麦の保冷庫を立てようと考えていました。小麦は年間を通して製粉し、販売するので、その間ずっと保冷庫で冷蔵保存する必要があるのです。他の保冷庫を借りていたのですが、お金がかかってしまうので自前の保冷庫を立てたかったわけです。当時は米の値段も安かったので、米粉にして販売したり、飼料米も冷蔵保存できれば流通させやすくなるし、あるいは、保冷庫を必要としている団体に貸すこともできます。

 そこで僕はJA、経済連、県と事前打ち合わせを済ませ、保冷庫を設置する場所も大体ここでと決めて、翌年度にいよいよ申請っていう時に異動になりました。すると、その補助事業もなくなりました。後日、「なんで申請しないんですか?」と尋ねたら、「いや、あんたがおらんなったら進める人はおらんやろう」って言われました。確かに、僕は座組みをつくったまでで、申請するためにはいろいろ書類を書かなきゃいけないので大変ではあるのですが、誰か引き継いでくれないかなと期待していました。が、それも叶いませんでした。結局、保冷庫は立ちませんでした。

 僕がいなくなると同時になくなってしまう事業や取り組みは他にもありました。いわゆる、属人化されてしまっているのです。若手農家グループも、僕が農業振興課から去ると解散してしまいました。仕組み化されていなかったのです。そんな経験もあって、僕は仕組み化する大切さを痛感しました。今、『こゆ財団』では、どんな事業や取り組みを行う時も、僕がいなくても回る仕組みをつくるようにしています。仕組み化はとても重要な作業だと考えています。

ふるさと納税を使って運営する『こゆ財団』を構想

 自分で考え、自分で企画して、気になるところへ足を運んで、何かをやる。それが、フリー係長の仕事です。正式な名前は、オール新富サポート係長。所属は当時の企画政策課、現在のまちおこし政策課です。ただ、2年間、フリー係長として活動しましたが、結果から言うとほとんど何も残せませんでした。言い訳がましくなりますが、まだまだ役場全体のことを分かっていなかったし、実力も不足していてまずどの課に行っても、「なんだ君は?」という顔をされるのです。「何なの? フリーって」と。何でもできるはずなんですが、何もできませんでした。

 そこで、係長会を開催することにしました。各課の係長に集まってもらって、何か活動のヒントになること、課題や要望を吸い上げようと考えたのです。けれども、喫緊の課題や要望は特になく、各課が今、どんな活動に力を入れているかを話してくれるだけでした。だから、僕に手伝ってほしいことは「ない」と。町の課題を問われても、そんな広い視点でものを見ていないし、当時はまだ人口減少に関わる問題もそこまで深刻化していなかったので課題として挙がりませんでした。

 そんな中、1つ挙がったのが、自衛隊との関係性がないという意見でした。新富町には航空自衛隊新田原基地があって、自衛隊員が2000名ぐらい所属していました。役場と自衛隊の交流がないという意見が出たので、自衛隊の基地の中で交流会を開催するという企画を立て、自衛隊に依頼すると、快諾していただけました。役場の係長たちが基地の中に入って、自衛隊の同じぐらいの年代の幹部候補生が施設を案内してくださいました。自衛隊は何をしているのかを研修したのです。最後に、自衛隊の中で懇親会を開きました。係長たちから「自衛隊の基地の中を見たのは初めてでとても勉強になった」という声が上がったように、それは開催して良かったと思いました。

 ただ、フリー係長の仕事としては、もう少し町民のためになるというか、課題解決という面で何かしなければいけないと思っていましたが、知識経験の不足もありやはり何もできませんでした。自分は何かお題がないと動けない人間だということがわかりました。そこで、フリー係長2年目には、『こゆ財団』という財団法人の仕組みや、立ち上げを考えるようになりました。なぜ役場の外に法人が必要だと思ったかというと、役場がやれることには限界があると感じたからです。例えば、農業で言うと、農業振興課にいた3年目に僕は2億円をかけて保冷庫を作る予定でした。小麦の流通が弱いことがわかっていたので。強い農業づくり交付金っていうのがあって、それを使って新富町に小麦や穀物類を一旦保管する保冷庫をつくり、そこを起点に物を売るっていう計画です。小麦は年間を通して、需要に合わせて製粉しながら販売するので、1年間、保冷庫で保存する必要があります。ただ、新富町には保冷庫がなかったので、経済連の保冷庫を有料で借り、小麦を保管していました。けれどもそれだと収益が減るので、新富町につくろうと考えたのです。ただ、役人の補助事業として保冷庫を立てることはできるけど、その先の商売はできません。物をつくるところまではできるんですが、その先はできないのです。例えば、蓮根パスタを補助事業としてつくることはできますが、売れるかどうかはわからない。民間企業もそんな冒険はしません。でも、その冒険ができる法人があれば、役場と両輪でビジネスができる。というふうにイメージを膨らませていって、2015年、フリー2年目の時にその企画を打ち出していきました。

 2016年に地方創生交付金が初めて出るというので、迷わず申請することにしました。2016年に採択されるのですが、2015年中に申請しなければいけません。100パーセント事業だし、企画のアイデアにお金がもらえるという凄い交付金だったのです。地方創生に資するアイデアと企画にお金を出してくれるっていうのは珍しかったですね。しかも3年間、毎年2000万。そこで、僕は法人をつくるという企画で応募しました。法人の活動の柱として、販売促進、観光促進、移住促進の3つを掲げました。フリーでいたからこそ、時間と気持ちの余裕があり、アイデアを練ることができたのかもしれません。
 申請は、先輩の比江島さんと一緒に行いました。町長から消防主任を打診されて断った時に、「アホか」と考え直すように忠告してくれた方です。僕と同じ富田地域に住んでいる5歳上の先輩で、僕のことをずっと目をかけてくれてた先輩です。この交付金を取ってきて、それを資金にして『こゆ財団』をつくろうと考えたのです。申請の時には新法人の名前も書かなければいけなかったので、『こゆ地域づくり推進機構(通称、こゆ財団)』っていう名前にしました。児湯郡5町1村が1つになった方が絶対ポテンシャルが高いと思ったからです。ただ、新富財団にしなかったことは、後でめちゃくちゃ怒られました。役場の人はそうでもなかったんですけど、町民から強く叱られました。僕も今では、『こゆ財団』のネーミングはミスったと思っています。児湯郡5市町村はそこまでの強いつながりが今もつくれていません。そこはやっぱり見通しが甘かったなと。これまでも児湯郡でつながろうっていう画策はいっぱいしてるんですよ。でも、結果うまくいっていないですね。やっぱり高鍋町民は高鍋町のことが1番だし、新富町民は新富町のことが1番だと思っていますから、一つになるのはなかなか難しいのです。
『こゆ財団』を立ち上げたとき、最初に児湯郡の人たち、商売人、農家さん、畜産農家さん、地域おこしの活動をしている人たちを集めて、夢を語る「夢プレゼンテーション」というイベントを実施して、そこから輪を広げていこうと思ってたんですけど、なかなか深いつながりには至っていません。法人名に込めた思いは郡が一つになることだったのですが、名前通りには今もできていないのが実情です。

 話を戻すと、2015年に地方創生交付金の申請をしました。当時、申請は1つの町ではダメで、広域でないとできなかったんです。僕以外の他のところは県と一緒に広域で申請しました。僕は県には入らず、都農町と結びついて申請しました。2016年度はその法人の前身となるものをつくり、そこが仕事を担っていきますっていうふうにして、2017年に法人化し、そこに補助金が流れてくるという仕組みをつくりました。それも、比江島さんが書いてくれました。

 町長に説明すると、「いいんじゃないか」とOKが出ました。ただ、「資金がないから、お金は自分でつくってくれ」と言われました。法人化のための資金源の1つは、地方創生交付金の2000万円を取ってこれますが、それだけだと回らないので、「ふるさと納税を僕に任せてください」とお願いしました。ふるさと納税は元々総務課の担当者が片手間でやっていた事業です。当時はまだ誰もふるさと納税には見向きもしていなかった時代。全国的にも芽を出し始めている時期だったので片手間でやるのは当然と言えば当然でした。新富町の寄付額は2000万円程度。それを僕は1年間で4億円に上げることができました。今、2000万円なのでこれを1億円に上げられたら、役場には経費を差し引いても5000万円入ってきます。なので、「そのうちの一部を財団設立のために使わせてください」とお願いしたら、「いいよ」という返事をもらえました。

 2000万円の寄付額を4億円に上げた方法は単純で、寄付額を伸ばしている自治体に行き、担当者に「何をやったらそんなに伸びるんですか?」と聞いたのです。都農町や綾町の担当者からアドバイスをいただき、それをすべて実践しました。新富町はふるさと納税の返礼品が30品ぐらいしかありませんでした。これを「200品とか、300品に増やした方がいいよ」とアドバイスされたので、町内の事業者さんに営業に行きました。「ふるさと納税に出してください」と。事業者の皆さんは単純に知らないだけなので、ふるさと納税とは何かを説明し、説明会も開き、出してくださるようお願いしました。農産物、ウナギ、牛肉など、出してもらうところからスタートしました。

 その間に、前の担当者はExcelでやってたんで、僕はそこにシステムを入れることにしました。そのシステムを入れた会社と仲良くなって、ふるさと納税の寄付額を伸ばしている自治体を教えてもらって、そこに聞きに行き、どうやったら伸びるかをさらに研究し、それを忠実に実践することを繰り返しました。返礼品の写真を撮り、宣伝文を書き、値段も僕が決めました。品数が増えていくと、少しずつ反応が出てくるようになりました。さらに、寄付をしてくれた方にメルマガを打ったり、イベントを行なったりしました。今はダメですが、当時はまだ緩さもあったので、特価月刊とかタイムセールを実施したり、ポイントを付与したりもしていました。年末になったら「ふるさと納税を忘れていませんか?」と新富町のラインナップをPRしたり。事業者さんは手続きを面倒臭がるので、「こっちでやるから大丈夫。でも、パソコンだけ導入して。システムを入れるから」と説得しました。「運送会社が商品を取りに来るから品物に送り状を貼って、送ってほしい。それだけやってください」と。ある程度売れるようになると、今度は事業者さんの方から来るようになりました。「ふるさと納税に出したいんだけど、どうすればいい?」と。

 都内でイベントも開きました。100人ぐらい入る会場を予約して、「ふるさと納税講座」っていうのをやりました。地方創生交付金でいただいたお金を使って、委託事業としてある会社に企画を立ててもらって、集客も任せました。お客さんを前にして、僕が壇上に立ってふるさと納税のやり方を説明しました。「簡単です。スマホを出してください」って。あなたはこれぐらい納税できますよっていうサイトとか全部教えた後、「じゃあ、新富町で練習してみますか?」と新富町のふるさと納税に導入するわけです。来場者には新富町の牛肉を食べてもらったりして。そしたら、皆さん寄付されるんです。初めてなんで。そんなイベントを1回開くごとに40、50万円の寄付が集まりました。ふるさと納税にも誘導しながら、移住者を募るための新富町の紹介もします。こうしたイベントを何回も地道に繰り返して行うことで寄付額を伸ばしていきました。

 ウナギの時期は、都内でイベントに参加して、新富のウナギを焼いて食べてもらったりしながらふるさと納税に誘導しました。佐賀県上峰町が当時、牛肉の切り落とし1.5kgのデカ盛りを8000円の寄付額とかで出されていました。僕はJAの肉担当者を訪ね、「これに勝ちたい。なので、安く卸してほしい」というお願いをしました。「薄利だけど量が入るから、それで利益を取ってくれよ」と伝えました。ふるさと納税は自治体間の競争です。寄付をしたくなるためにはどうすればいいのかを考え、顧客満足度を上げていくことが大事です。僕たちも寄付先に新富町を選んでもらうために一生懸命PRし、努力しています。
 それでも、ふるさと納税をおかしな制度だと批判する人はいます。役場でも言われました。僕は2000万円から4億円まで寄付額を上げました。20倍です。「頑張ったね」って言ってくれる人はもちろいるんだけど、直接こんなことも言われました。「4億に上がったからって、税金を回しているだけ。まったく無意味なことをやっているよ、君は」と。「まあ、そうですね」って受け流しました。そういう考え方もあるのは事実ですから。ただそういう人には、「じゃあ、あなたの地方創生の策は何ですか?」って聞き返したいですね。僕は全国の皆さんからいただいた寄付額の一部を使って、新富町がこうすれば良くなるんじゃないかという策を試そうと思っています。それが無意味なことなのかどうか。聞いてみたいですね。

『こゆ財団』が誕生。高速PDCAでさまざまな店をオープン

 フリー係長2年目の頃から法人設立について構想を練ってきました。地方創生交付金とふるさと納税の寄付額の一部を設立資金と運営資金に使うという許可も得ることができました。ただ一つ、問題が発生しました。誰が代表理事を務めるかです。僕はてっきり、自分が代表理事を務めるものだと決めつけていましたが、議会がそれを許しませんでした。12月に議員全員の協議会があるのですが、そこで法人化の資金の説明と、何をするのかという事業計画書を提出して、承諾を得ることができました。資金と計画は「いいね」ってなったんですが、「で、誰がこれをするんだ?」と問われたので、「僕が出向し、代表になってやります」と答えました。すると、「は?」みたいな空気になったのです。「お前、公務員のくせに何言ってんの?」「経営できるわけないやん。公務員しか知らないのに」と意見され、あっけなく否決されてしまいました。僕が中心になって進めてきた計画で、凄く大変だろうし、成功するかどうかも分からないし、そんなもの誰もやらないだろうなと思っていたので、代表に立候補したのです。だって、僕はふるさと納税の寄付額を上げるために正月も返上して働いてきましたから。その結果、役場の収入も増えました。だから、みんなから「頑張れよ」と応援されると思っていました。確かに、ふるさと納税に関しては喜んでくれたかもしれませんが、「法人化、なにそれ?」と真の目的を話した途端、拒絶反応を示されたのです、多くの職員から。「町長に可愛がられているかも知らんけど、なんでお前一人の考えで法人をつくることができるの?」と。「あんたがスーパー公務員かなんか知らんけど、ちょっと調子に乗りすぎやわ。そんなに甘くないよ」と。確かに経営はしたことがないし、まだ若くて荒削りな僕に対して先輩方からすると不安しかなかったのかもしれません。法人を立ち上げた前例が役場になかったというのもあったでしょう。倣うものがない。味方も少ない。直属の課長にも呼び出され、「お前が頑張ってるのはわかるけど、今回はやめとけ。たぶん、いろいろあるぞ」と忠告されました。計画としてはOKだったのですが、一人で勝手に進めていることもよく思われていなかったようです。でも、僕としては、役場のため、町のためを思って計画したつもりなんです。『こゆ財団』の目的の3つの柱は、販売促進、観光促進、移住促進です。観光についても、観光協会を発展的解散し、『こゆ財団』で新たに推進していくつもりでした。マンネリ化していた観光協会を、あまり意味が無いと非難していたのに、「僕がやる」と手を挙げたらそれも否定する。感謝されると思っていたのにそうじゃなかったのです。

 ただ、この時のことを今、振り返って考えると、議会で指摘された厳しい言葉の数々は若い僕の糧になったのは間違いありません。「なにくそ!」と、改めて町への思いを奮い立たせてくれたし、経営についても必死で勉強しましたから。「公務員の世界しか知らない」っていう負い目というのか、自分のことを「井の中の蛙」と思うことも正直、あったので、やがて先輩方の忠告が腑に落ち、僕は「代表を探さないといかん」と思い直して、探し始めたんです。

 さっき、ふるさと納税の伸ばし方を綾町の担当者にも聞いたって話をしましたが、その担当者は尾崎将司さんという方なのですが、その尾崎さんが、「新富町にめっちゃおもしろい人がいるからつながっておいた方がいいですよ」と連絡してくれていたのが、代表理事になる斎藤潤一さんだったのです。その連絡を受け、斎藤さんは僕が東京で活動をしている時に会いに来られたのです。それが、僕と斎藤さんの出会いでした。僕は新富以外のことは知らなかったので、斎藤さんを「まちづくりの人なんだ」ぐらいにしか認識していなかったのですが、「そういえば」と思って斎藤さんに連絡を取り、代表理事になっていただくことにしたのです。アメリカで学ばれ、シリコンバレーでITベンチャー企業での経験をもとに、地方創生プロジェクトを実施されていた忙しい方ですから、新富町に頻繁に足を運んでもらうことはできそうにありませんでしたが、「1年間だけでもいいから」とお願いしたら、「わかりました」となんとか承諾してくれました。「僕は外のことを知らないので、助けてほしい」ともお願いしました。議会からも、「その人ならいいでしょう」と承認を得られ、結局、斎藤さんは代表理事を8年間務めることになるのです。

 そうして、『こゆ財団』は誕生しました。最初の事務所はJR日向新富駅の駅舎内に設けました。駅舎が町の所有だったことと、あるものをリノベーションして使うという理念がいいということで、駅舎を活用することにしました。ただ、狭かったのが玉に瑕でしたが。

 僕の仕事は外に出ることが多かったです。東京にもちょいちょい行くようになりました。帰ってきて、夜に事務仕事をするのですが、常に忙しかったですね。職員は3人だけで、僕と、斎藤さんと、黒木さんという役場からの出向者と、あと3人は役場の臨時職員、パートさんのような方。それはいいんですが、以前と変わらず『こゆ財団』は変な目で見られていました。財団法人って、よくわからないじゃないですか。「岡本君は何をしてるの?」っていう感じです。「何がしたいのかよくわからない」と。今でさえ人口減少と言われれば、それに関わる課題を解決しなければいかんとみんなそっちを向いてくれますが、当時は人口減少と言ってもまだピンと来ない感じでしたから。僕は新富町の未来への可能性に向けて仕事を進めていたのですが、『こゆ財団』は役場の中でも、町の中でも理解されていませんでした。どうすれば理解してもらえるのか、それが大きな苦悩でした。

 斎藤さんが代表として来たことによって、『こゆ財団』はロケットスタートみたいに仕事をしていくことになります。地方創生交付金を使って、商店街の空き店舗を活用する事業を始めました。斎藤さんのやり方として「高速PDCAサイクル」がありました。Plan(計画)、Do(実行)、Check(評価)、Action(改善)を、高速で回していくのです。例えば、商店街の空き店舗に新しい店舗、アイスクリーム屋をオープンしました。でも、たったの2か月ぐらいで閉店するんです。「アイスクリーム屋は違う」と。「え、なんで?」と思いますよね。それが高速PDCAなんです。僕は地元の皆さんに「アイスクリーム屋をオープンするから」と説明して回って、でも2か月でなくなる。「走りながら考える」というやつです。それはそれでいいんですけど、どこを最初のゴールにするのかは考えていなかった。冷凍庫が届いたからOEMでアイスをつくって、都内でアイスクリームをプロデュースしている人がたまに来て、「こうやったらいいんじゃない」って。それをおしゃれな感じのパッケージにアイスを詰めて、並べて、終了です。バズらせるための写真はしっかり撮ってるのですが、誰がこの店を担って、どういう店にしていくのか、足元を固めていくことができませんでした。駄菓子屋もオープンしました。同じように2か月後に閉店。駄菓子屋は商店街に元々あったので、ちょっと揉めたりもしましたが。カフェも、プログラミング教室も、クラフトビールも。僕はビールづくりの勉強までしてきました。でもそれもすぐに閉じる。Tシャツまでつくったのに。高速PDCAですから。高速で勉強して、高速で説明して、高速でオープンして、高速で閉店する。地元の皆さんは、それを僕がやっていると思っているから、文句というか、「何がしたいの?」という声が全部、僕のところに届く。斎藤さんは全国区の人ですから、新富町での取り組みが全国で注目を浴びます。メディアからの取材も受け、「今、新富町が熱い」と外からも大勢の人が訪れるようになります。ただ、地元は逆で、「何がしたいの?」でした。

『こゆ財団』を立ち上げて、5つの町村を一つにしようとして開催した「夢プレゼンテーション」も僕が考えたことではなく、斎藤さんの企画です。いわゆるソーシャルビジネスやローカルベンチャーを募るイベントで、そういう系のイベントは斎藤さんは結構やられていたので。僕からすると、町を復興させようみたいなノリに感じました。それと同時に僕は移住促進にも取り組もうと考えていましたが、町内では名前が知られていても、町外ではまったく顔が利かないし、政策的にも未熟なレベルなので、外から人を連れてくるようなイベントを開くためにはいろんな人と会ったり、いろいろ新しいことを勉強しなければなりません。けど、町の人たちにはそれがわからない。『こゆ財団』の職員もよくわかっていない。役場の人たちも、「岡本がやってることはよくわからんわ」ってなっている。常に忙しい。常に勉強。自分の実力のなさに気づかされて、この頃はとても苦しかったです。

1粒1000円の新富ライチで、起死回生を狙う!

 斎藤さんが来てから、僕は東京出張に出るようになりました。ソーシャルビジネスや農業ビジネス、移住セミナーといったイベントに参加したり、人に会ったりするためです。ただ、当時の役場って、東京に行くというのは大変なことでした。東京に研修に行きたい時は、企画書を書いて、通ったらようやく行けるっていうレベルでした。消防主任の時も行ったのですが、餞別をもらえるレベルですから。新富町はそれくらい田舎だっていうこと。通過する町で、誰も知らない。吹けば飛ぶような田舎町。

 そんな田舎町が、斎藤さんや『こゆ財団』のプロジェクトによって、ソーシャル系、ローカル系の人たちに認知されるようになり、若い人たちが大勢、来るようになってきたのです。「ソーシャルビジネス・スクール」とか開催していたので、その参加者として来られるのです。ただ、ソーシャルビジネス・スクールっていう言葉を僕が口にすること自体、町の人からすると「え?」みたいな感覚でした。「岡本、なんか変わった?」みたいな(笑)。斎藤さんの活動には、「ソーシャルビジネス」みたいな横文字がいっぱい出てくるので、僕はそれを身につけなきゃいけない。東京の人と喋る時は。社会課題の解決をミッションとしたビジネスの手法、それがソーシャルビジネス。田舎の人たちにそれを喋ると、「なんか、あの、いいです」って向こうへ行ってしまいます(笑)。おばさんやおじさんは特に。新しいことにチャレンジする人材を育成する講座『児湯シータートル大学』もそう。町の人からすると、なんか気持ちが悪いという印象だったようです。思いを持ったみんなが集まって、気持ちが盛り上がったところで、「こんなんやろうぜ!」だったら受け入れられると思うんですけど、『こゆ財団』が突然、『シータートル大学』とか言い出すわけじゃないですか。さらに、地域で稼がないと終わるとか言い出す。それがよくわからんっていう。で、「よくわからん」という人たちに対して、まちづくり系の人たちは「やっかみとか、そういうのは常にあるから。気にしない」って言うんです。まちづくり系でホッピングしていく人たちっていうのはその感覚でいいと思うんだけど、僕みたいに新富町に暮らしている人間は、うまくいかなかったからって逃げられないんです。例えば、「夢プレゼン」も続けてない時点で「あれ、何だったの?」ってなっていたし、僕は逃げられないんでずっと言われ続けるんです。「あれ、何だったの?」って。『シータートル大学』の思想はいいんです。バズるんですよ、都内では。けれど、それでソーシャルビジネスを立ち上げようと移住してきた10人の方たちのその後がないんですよ。ちゃんとソーシャルビジネスができるための環境や仕組みが当時の新富町にはないんです。丸投げして、次に行っちゃうんですよ。「稼ぐ農業」とかに行っちゃうんです。そうやって散らかしていくんです。ただ、それは僕の責任でもあります。新富町という地域の現実を、当時の自分はうまく橋渡しできなかったのです。斎藤さんに。僕は新富町に住み続ける当事者だから、全国を飛び回る斎藤さんとは背負うものが違ったんですね。そんな「役割分担」みたいなものが、うまくできなかったのかもしれません。

 最初の3年間はそれでもいいと思ってました。新富町のことなど誰も知らないし、とにかく幅を広げて、その後、収束させて、残っていくものをしっかり取り組めばいいと。ゼロイチだから、何が当たるかわかんないし。残ったものをしっかり育てていけばいい。で、今、それをやってます。これまでの経験から仕組みづくりや人づくりをやっているので、ゆっくりですが右肩上がりでしっかり発展していくと思いますよ。
 今も続いているのは、るぴーモール虹ヶ丘商店街で毎月第3日曜に開催している『こゆ朝市』と『こゆ夜市』。2017年から10年近く続けています。最初はファーマーズマーケットとして農作物を販売しようとしたのですが、農家さんがあまり集まらず、今では名前も趣旨も変えて展開しています。だって、キュウリ農家さんが出店したら、キュウリだけ山積みですよ(笑)。そんなの売れるわけないじゃないですか。外から来た人は現場を知らないからしょうがないけど。今は担当の若い人たちがいい形をつくって、次のフェイズに上げていってくれています。出店者さんが50、60店舗、登録してくださっているので、毎回参加したい店舗が出店するという仕組みができています。今も継続しているイベントや取り組みに関しては、町の人たち、役場の人たちからも評価されています。

 ライチも残っていますね。ご存じですか? 一粒1000円のライチ。その話をしましょうか。ライチのブランド化。実は、最初に目をつけたのはライチではなく、エリザベスメロンだったんです。エリザベスメロンという新富の特産の小さい黄色いメロンがあるんです。以前、観光協会でも市外で売ってたりしたので、ちゃんとブランディングしようと思って、当時は7、8軒あったエリザベスメロン農家さんを集めました。まず、栽培のところから見ていこうという話をしていると、「君が言ってることは嬉しいけど、これからメロンを盛り上げていこうとはあんまり思ってないんだよね」って言われてしまったのです。エリザベスメロン農家さんたちは高齢化していたので、これ以上力を入れたくないということでした。

 どうしようかなと困ってたら、以前、森哲也さんというライチ農家さんと話した時、「うちはマンゴーと同じぐらい経費をかけて栽培しているのに、ライチのことは誰も知らんし、経済連やJAもマンゴーばっかり宣伝する。まったくこっちを見てくれない」って言ってたことを思い出したのです。「それだ!」と思って森さんのところへ行って、「うちとやりますか?」と話したんです。「その代わり、森さんもJAと縁を切るつもりでやってほしい。僕は売れなかったら役場に辞表を出します」「わかった」という2人の覚悟のもと、ライチのブランディングが始まったのです。

 僕は、『こゆ財団』の評判が悪かったんで必死でした。起死回生の成果を残そうと、それでライチに目をつけたのです。実は、『こゆ財団』を立ち上げた時に僕は一度、辞表を書いているんです。「成果を出せなかったら責任取ってやめよう」と。いや、成果はそれなりに出してるつもりなんですよ、設立以来ずっと。だけど、やっぱり評判が良くない、今考えると。当時は斎藤さんとか有識者とか、総務省の人とか、「めちゃくちゃおもしろいですね」って言うんですよ。『シータートル大学』にしても。この感覚を身につけないとやばいなと思ってたんですけど、今振り返ると、「そうでもないかもしれん」って感じがします。今だったら、ちゃんと地域を見てつくった方がいい。あの頃は、「上澄み」だけを見ていた気がするのです。上澄みというのは、地域の人やモノの積み上げがないのに、新しいこと、知らなかった考え方、全国や海外でやっているような事例を突然に地域に組み込もうとするなど。確かに通り過ぎる町を多くの人に知って貰って新富町に来てもらうには、派手な演出も必要だとも思うし、外の人は普通のものに魅力を感じない。だけど、外の人が魅力的に思うものは町の人がついてこれない。それを高速で進めるのでなおさら。

ライチのブランド化はまず聞き取りから始めました。森さんの農園へ行って、1本の木からだいたい100個くらいのライチが実ることがわかり、そのうちの50グラム以上の大きな実は10個くらい。大きくなればなるほど甘みも増して、果汁も多くなるというので、それをプレミアムとしていちばん高価なライチにしようと。40グラム以上50グラム未満はレギュラーサイズ。それ以下は別の出荷先にします。

 次はプロダクトデザインです。どんなデザインの箱に入れて販売するか。その前に名前ですが、楊貴妃というネーミングで売り出したのですが、実は商標権を取られていて、向こうの弁護士から通知が届き、勝手に使っていると。そういう知識もなかったんです。西表島のライチが商標を取っていたのです。「もうこの名前は使いません」と返事したら許してくれて、損害賠償請求もなかったので、よかったです。その後は、「新富ライチ」という名前で販売しています。

『こゆ財団』を設立したのが4月で、ライチは6月に出荷するため、ブランディングする期間は2か月間しかないわけですが、その間に全部、財団のメンバーとやりました。デザインから何から。SNSでの発信も、クラウドファンディングも。1個1000円で販売しようと言ったのは斎藤さんです。1本の木から10個しか取れないという希少価値もありますし、何よりそれだけライチのコストはかかっている。

 そうして新富ライチが誕生しました。7月頭には僕はキャリーケースにライチを詰めて、東京へ営業に行きました。ネット上に出てくるフルーツショップに片っ端から電話をかけて、飛び込み営業。当時、営業していた銀座の『カフェコムサ』もその一つです。今は、『カフェコムサ』全店に生ライチを卸しています。1ピース2000円くらいのライチケーキが誕生して、それがめっちゃ売れてるんです。

 秋頃になると新富ライチが跳ね出したので、インフルエンサーと契約して、「インフルエンサーと一緒に行くライチツアー」なんかも開催しました。1粒1000円のライチを食べたり、レストランでライチパーティをしたり。そこに森さんが来て、ライチ栽培について話すイベントを開いたり。そうやって認知度がどんどん上がっていったら、バラエティ番組の『マツコの知らない世界』で取り上げられて、またドンと有名になりました。それで、生ライチはおいしくて高いという評判が広がり、市場の値段も上がっていったんです。そうすると、ライチを栽培する農家が新富以外の町にも現れてきました。ライチが売れるから。つまり、『こゆ財団』がライチの市場をつくったと言っても過言ではないと僕は思ってます。

 というふうに、順調に新富ライチが売れ行きを伸ばしていたら、ある日、宮崎県から職員がやって来たのです。何を言うかと思ったら、「あなたたち『こゆ財団』が勝手にライチをブランド化してPRするから、県がライチをブランド化して一斉に売り出そうと思っていたのに、邪魔されて困っている。だから、ライチの販売をやめてくれ。県でやるから」って。「は?」。意味不明ですよね(苦笑)。だって、おかしくないですか? マンゴーばっかりPRして、ライチのPRをしてくれないから始めたことなのに。頑張って市場までつくった途端、横取りしようというのですから。たぶん、どっかから言われて来たんでしょう。「なんでこっちがやめなきゃいけないんですか?」って僕は言い返しました。やめる気なんてさらさらありませんから。そしたら、「もういいです」って怒って帰ってしまいました。そんなエピソードもあるくらい、新富ライチのブランディングは成功しました。農家さんの収入も上がりましたし。

 そして、なぜ新富ライチのプロジェクトが今も残っているかというと、農作物は高速PDCAできないからというのもあると思います。ほとんどの作物が年に1回の収穫ですから、高速で回転させられないんですよ。だから、結果的に残ったということもあったかもしれません。

 残ったものの中でいちばん貴重だったのは、外とのつながりかもしれません。斎藤さんの人脈で外とつながれたのですが、今もつながりが継続しているのです。つながった人を介して、新しいつながりも生まれています。そういう人が新富町に来られ、農家さんと会ったりして、いろいろなつながりが展開しています。今、『こゆ財団』が外の人とのつながりのハブとなっていることは、すごくありがたいことです。

 また後で話しますが、新富町文化会館。800席のホールがあるんですけど、そこを今『こゆ財団』が運営しているんです。2026年4月から。いい事業になりそうですが、それも人とのつながりがあったからこそ。そんなふうに、すぐに終わったプロジェクト、今も続いているプロジェクトなどさまざまなプロジェクトを手掛けてきましたが、とにかく忙しかったです。最初の頃は毎日仕事をして休みを取れなかったものですから、ちょっと鬱になりかけてましたし、家から出るのが怖くなったこともありました。『こゆ財団』がどっちの方向に、どんなふうに進んでいったらいいか、わからなくなっていたのです。

 領収書の仕分けや会計も複雑でした。補助金ごとにわけたり、ふるさと納税は別会計にしたりと、会計が6種類くらいあり、事務員はどう振り分けていいのかわからないから、全部僕が振り分けていました。さっきも話したように、高速PDCAで目まぐるしく展開するプロジェクトを勉強し、役場や町の人たちに説明する。斎藤さんは地域のことをあまり知らないので、地域の声を聞かずにどんどん進めていくのですが、僕は地域の人間なので、地域の声を聞いて回る。その板挟みというか、乖離していた中でどうすればいいのか、修正できずにいたのです。「ふるさと納税の寄付金を使って派手なことをやっている」というふうに見られていたかもしれません。一方で、僕は、一緒に出向した黒木君などの助けで、ふるさと納税の寄付額を4億円から9億円さらには19億に伸ばしました。県内には寄付額日本一がいるので、あまり目立たないかもですが、当初は何もなかったのですから、それはそれで少しは認められてもいいような気もしますが、なかなかそうはなりませんでした。

 以前は、消防団や農家グループを束ねて、「やろうぜ!」と拳を振り上げてやって、成果を出せたら「飲もうぜ!」とお酒を飲んで喜び合う。そんな仕事ぶりで満足できていたのです。でも、『こゆ財団』はそれじゃダメなんですよね。 今までのように町民の心を掴めなくなってしまったのです。一生懸命やってるし、結果もそれなりに出しているつもりなのに、掴めない。その理由がわからなかった。もう一つ階段を上がって、上のレベルで仕事を進めなければいけなかったのでしょう。それができなかった。斎藤さんの方針についていくのがやっとでした。

 支えてくれていた町長も、『こゆ財団』設立1年目の10月で辞任されました。僕は直接、「梯子を外されたね」って町民から言われました。「町長の後押しがあるからこそ、税金を使ってノリノリで事業を進められるんでしょう」という批判があちこちから聞こえてくるようでした。「楽しそうに東京とか行ってんじゃないよ」と。

 ある朝、僕は玄関から出られなくなりました。妻が後ろから「大丈夫よ」と抱きしめてくれました。どうすれば『こゆ財団』が地域のために動けるようになるのか。僕にはわからなかったのです。

【岡本啓二プロフィール】
1976年宮崎県新富町生まれ。寿司屋「亀八」の息子として育ち、地元の無形文化財・神楽の伝承者としても活動。1999年に新富町役場へ入庁し、税務、福祉、防災、農業振興、企画政策などを歴任。39歳でまちづくり政策課長補佐に就任し、こゆ財団設立を企画、ふるさと納税を2,000万円から20億へ拡大。2018年には地方創生の優良事例として総理大臣官邸で発表。現在は一般財団法人こゆ地域づくり推進機構代表理事として、文化芸術・スポーツ・産業・人材育成を横断し、「挑戦が挑戦を生む地域」の実現に取り組んでいる。

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