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【連載第3回】イン・ザ・タウン〜寿司屋の息子の僕が、役場職員としてまちを盛り上げるようになった理由〜

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宮崎県新富町で、地域と深く関わりながら挑戦を続けてきた『こゆ財団』の岡本さん。一棟貸しの宿『茶心』の立ち上げや、新会社や社団法人の設立まで、その歩みは常に地域の人々と紡ぐストーリーの積み重ねでした。さまざまな課題や苦悩を越えて辿り着いた、「自分事として地域に関わる人」を育てるためのパッションの軌跡をお伝えします。

目次

自分事として取り組める人を育てたい

『こゆ財団』設立2年目に斎藤さんの企画で、一棟貸しの宿『茶心』をオープンさせました。新富町には宿泊施設が少なかったため、以前申請した地方創生交付金の使い道の一つに、空き家を活用して宿泊施設をつくるという項目を設けていました。それを実行するフェーズになっていたからです。ただ、当初はなかなかいい感じの空き家が見つからなくて、一緒に役場から『こゆ財団』に出向していた黒木雅史さんが、上新田という地域に県議会議員の黒木健司さんがお住まいだった家が空き家になっているっていう情報をキャッチし、その方のところに依頼に行きました。「今、使っておられないようでしたら、町のために貸してくれませんか?」と。すごく大きな家で、建物は2棟あり、県議会議員という仕事柄、お客さんが大勢来るからでしょうか、23畳の和室があったり、めちゃくちゃ広くて立派なつくりになっているんです。玄関に入った瞬間に、木でできた大きな置き物が置かれていたりして。最初は、「『こゆ財団』って何?」って感じで、正直、貸したくないというか不安げな様子だったのですが、新富町に人を呼び込んで、泊まっていただいて、お金を落としていただきたい、新富町を知っていただくための一棟貸し宿を始めたいという話をさせていただいたところ、僕らの町への思いに共感してくださって、安価な賃料で貸していただけることになりました。建物の中を改修することにも、「ある程度、好きにやっていいよ」とご了解をいただくことができました。残念ながらその方は3年ほど前に亡くなられ、今は奥さまが近くに住んでおられます。そのお住まいの隣は茶畑になっていました。そして、『新緑園』という地域の皆さんから愛されているお茶屋さんも200メートルぐらい先にあり、ご主人が自分でブレンドしたお茶を小売りや卸売りをしています。お茶畑も持っています。そんな素敵なお茶屋さんや茶畑が近くにあったので、お茶を中心としたコンセプトの宿にしたらどうだろうという斎藤さんのブランディングもあって、『茶心』という名前の一棟貸し宿泊施設を始めました。

改修については、石躍設計事務所さんっていう町外の設計事務所に依頼しました。最初は町内の設計事務所を探したのですが、断られたのです。広い日本家屋を宿に改装することをおもしろいと思って取り組んでくれるような設計事務所が町内にあまりなかった気がするのと、新富町は自衛隊の飛行機が飛ぶので、防音工事の仕事がたくさんあり、設計事務所も正直、その仕事が多いから、僕らが依頼するようなコンセプトしかない雲を掴むような仕事に対して、どういうふうに進めたらいいのか多くの経験がなく、更には僕にも経験がないので断られたという次第です。その後、人づてに設計事務所を探していき、石躍さんに出会えました。僕の話に耳を傾けてくれて、こういう新しいものというか、僕らがやろうとしていることに対して前向きに捉えてくれました。「じゃあ、内装はこんな感じがいいんじゃないですか」みたいな提案をしていただきながら、進めることができました。都市部だと日本家屋を宿にリノベーションするような建築デザイナーは結構いらっしゃると思います。今振り返れば、プロポーザルとか公募とか、そういう形で募集すればよかったかなとも思いますが、当時は、デザインされた内装の宿で、ターゲットは高めの所得層の方とインバウンドみたいなコンセプトだけが決まっていて、あとはお任せみたいな感じだったので、随分困らせてしまったかもしれません。僕も勉強しながら打ち合わせを重ねるという状態でした。施工は町内の吉野工務店さんにお願いしました。

改修が終わり、雰囲気のいい宿が誕生しました。宿泊業や広報が得意な方が家族で新富に移住されてきたので、その夫妻にオペレーションや広報をお願いしました。『茶心』の敷地内にあったもう一棟の家に、壁で仕切って住んでもらって、民泊という形で運営したのです。住んでいる家の一部を貸すというのが民泊でしたから。民泊は旅館業法と違って免許が取りやすい反面、年間180日しか営業できません。よく農家民泊というのがありますが、あれは農家さんの家に宿泊させて、農作業を体験したり、一緒にご飯を食べたりして、楽しんでもらう宿泊施設です。『茶心』は農家民泊ではありませんが、お茶の心を体験する宿として楽しんでいただいています。

地方創生交付金で改修をしてオープンしたのですが、当時は財団内にも宿泊施設を運営したことがある人はいなかったので、外部のアドバイザーを入れたり、ゲストとして呼んでアドバイスをもらったりして進めていたものの、なかなかうまくいかなかったのが実際のところです。最初は、新富町を知ってもらう宿としてスタートしているので、新富町にゲストを誘ったときに泊まっていただき、『茶心』や新富町の良さを発信していただくというような感じで認知度を広めていこうとしていました。ただ、順調にお客さんが入り出すのはもう少し後になってからで、今は宿が好きな女性スタッフが切り盛りしています。『茶心』にも力を入れているので、宿泊のお客様に朝ご飯をお出しし、夕食も選んでいただけるようにして、ライチの季節にはライチを、他の季節も果物をお出ししたりしてサービスを充実させ、人気の宿になりつつあります。

宿泊施設は他にも、JR日向新富駅の駅前にゲストハウス『新富ノ家』も運営しています。こちらはバックパッカーが素泊まりするようなリーズナブルな宿です。それから、『OIWAKE SDGs PARK(新富町宿泊交流施設 追分分校)』という廃校を活用した宿泊交流施設もあります。建物は町の所有で、内装の改修などは役場が行い、『こゆ財団』が委託されて管理・運営しています。主に学生の合宿などに利用してもらっています。まだ、認知度が低いので、まず町外の方にも広く知ってもらえるよう、イベントを開催しています。2026年11月にも宿泊者が追分地域を歩いて楽しめるようなイベントを開催する予定です。追分地域には、大福屋さん、パン屋さん、ライチ狩りができる果樹園、ドッグラン、キャンプ場など、分校から歩いて巡れる距離にさまざまな施設があります。そうした施設のマップをつくって巡ってもらい、追分の良さを感じてもらいたいというイベントです。泊まってくれた方々が、「宿泊施設も、地域もよかった」と発信してくれて、追分の良さが広まるようにしていきたいです。追分って、新富町でもちょっと特殊な地域で、町の中心部にある富田小学校から遠かったため、4年生までの小さな児童がもっと通いやすいようにと、地域の人たちが国に要望して、追分分校をつくったのです。だから、分校に対して強い思い入れがあるわけです。そうした地域の歴史を踏まえて、地域の人たちと一緒に宿泊施設をつくっていきましょうと、今、話し合いを重ねているところです。なので、今とは運営の仕方も変わっていくと思います。コンセプトも刷新して、リニューアルします。そもそも、追分地域は町外の人には知られてないので、外の人たちに知っていただいて、その口コミで、「宮崎で合宿所といえば追分」となるように、認知度を上げていこうと努めています。

いったん話は飛びますが、町長の秘書としての役目を終えた2025年、僕は代表理事として『こゆ財団』に戻ってきます。そのとき、『追分分校』に地域の人たちから苦情が届いていることを聞きました。宿泊者の音がうるさいとか、朝までライトがつきっぱなしになってるとか、バーベキューは校舎の裏側でするルールなのに表の方でやっているとか。宿泊者と地域の人たちが対立する構図ができてしまっていたんです。スタッフは、地域の人たちが自分たちで追分分校をつくったという自負があることを知らされていないようでした。やっぱり、外から持ってきてドンと置くというやり方ではダメなんです。外から持ってきて置くにしても、ちゃんと地域の人たちの声を聞いてから置くようにする。そうやって地域をリスペクトしながら進めることができたら、スタッフも地域の人から愛されるようになりますから。「この人、頑張ってくれてる」って。それが逆に対立してしまうと、「お前たちは金儲けでやってんだろう」って非難されることになってしまいます。そうではないよっていう形に持っていかないと。

そこで、戻ってきて早々に、『追分分校』のオペレーションを刷新しようと考えました。『追分分校』は最初の3年間は役場が運営のための補助金を出していましたが、僕が戻ってくるタイミングで0になりました。「補助金がなくなるけど、どういうふうにするつもりなの?」って聞いても誰も答えられません。どういう考えでこれからやっていこうとしているのか。そういうことを考えながら仕事ができる人材が育っていないと感じました。「なぜこれをやってるのか?」とか、「何が生まれようとしてるのか?」ということを問う人間が必要だと強く感じました。そうでないなら、掃除だけしに来てくれればいい。地域にどういうインパクトを与えるかとか、スタッフが自分たちで企画会議を開くとか、あーだこーだ悩みながら良いものをつくっていく。そういうことを日々紡いでいくことで組織は成長していくのに、日々の業務をこなすだけになってしまう。それは違うと誰かが指摘し、自分事として取り組める人を育てていかないといけないと思って刷新することにしたのです。誰が何を担って、どこを目指して向かっているのか。さらには、それがその人の人生のなかでの成長と相まっていくという形にしたいんです。じゃないと、『こゆ財団』も成長できないでしょう。だから、今は新しい若手スタッフを担当につけて、リニューアルに取り組んでもらっています。地域の方々と一緒に、期待の持てる追分になるように。 正直、『茶心』や『追分分校』の宿泊だけではそんなに利益は出ません。だからこそ、ちゃんと続けられるような仕組みを作り、地域の一つのシンボルとなって、「いいね」って言ってもらえるような施設をつくっていかなければいけないのです。都内だったら、金額を上げてもお客様は来るかもしれないけれど、宮崎なんでそう簡単には来てくれません。しかも、『追分分校』に限れば合宿がメインの宿泊施設。より多くの方に知っていただくためには宿泊者の回転数を上げていく努力も必要です。付加価値をつけるためのサウナとか、魅力ある企画にも挑戦していかなければいけません。そうしても、ビジネスとして成功したと言えるほどの利益は簡単には上げられないでしょう。そうではなく、この町でやって、地域の人たちからも喜ばれつつ、続けることのできるほどの利益を上げていく。そうすることが、「めちゃくちゃおもしろいです」「幸せです」っていうところに向かっていこうと僕は言っているんです、担当スタッフには。まずそこから始めようと。

『アグリスト』の立ち上げに関与

『こゆ財団』3年目の事業として、『アグリスト』という新富町初のスタートアップ企業を設立しました。それ以前に、財団のなかでIT農業研究会を立ち上げていました。僕は新富町の産業の基本は農業だと思っていて、さらに農業界にもIoTやICT、AIの波も来ると思ってたので、福山望さんら若手農家さんとも、「農業も絶対に高度な機械化、自動化していくよね」って話をしていました。「ただ、新富の農家は今すぐには変化できないけれど、近い将来のために勉強会をしていきましょう」って提案し、有志の農家が毎月集まって話し合っていたのです。それが、IT農業研究会。当時の『こゆ財団』は、ローカルビジネスで起業しようって謳ってたので、スタートアップ界隈とはつながっていたんです。農業系のスタートアップも。そこで、外から新富町に来たスタートアップ界隈の人たちをIT農業研究会に呼んで、勉強会を開いたりもしていました。たとえば、センサー。単純な話ですが、センサーをビニールハウスに取り付け、成長の様子をスマートフォンで見て、「どうですか?」みたいなレベルから始めて。そのセンサーが実際の作業に役に立つのか立たないのか話し合ったりしていました。

そんななか、宮崎県都城市にある都城工業高等専門学校とつながりました。高木夏樹先生っていう方がいらっしゃって、「農業のIoTとかをやってみたいっていう生徒は一定数いますよ」という話を聞き、高木先生を中心に農業に実装していくような機械を、大学でいうと研究室やゼミみたいなところですが、それを高専のほうで募集してもらって、最初は4人ぐらいだったかな、「やってみたいです」と手を挙げた生徒たちをIT農業研究会に入っている農家さんたちのところを回ってもらって、ヒアリングして、どんな機械をつくるといいかを考えてもらいました。それを農家さんにプレゼンして、「その機械なら使ってみたい」と農家さんが思うような機械を実際につくってみようという取り組みを始めたんです。町にも連携協定を結んでいただいて。

どんな機械づくりに取り組んだかというと、たとえば、ピーマン。収穫したピーマンは、コンテナからバーっと一気に広げられて、MサイズとLサイズを人の目と手で選別していくのですが、MかLか一目ではわからないものは1個ずつ量りに載せて重さを測ります。100グラム以上はL、100グラム以下はMと測って選別しますが、量りの重さが表示されるまでに時間がかかります。ピーマンを載せたら瞬時に重さが表示されたら選別の時間が削減されるので、そういう量りをつくりましょうかと提案した生徒がいました。「ぜひつくってほしい」とピーマン農家も賛同し、つくることになりました。しばらくして、生徒が試作品を持ってきました。使ってみると、農家さんは「まだ遅いなあ」という反応。生徒はつくり直すのですが、実際に機械ができる、できないということ以上に、若い生徒と農家さんが交流すること自体がよかったです。場が明るくなりますから。

近頃、農業の現場はいよいよ「人手不足だ」という声が上がるようになりました。人手不足になると、期待されるのがロボットか外国人です。外国人は今もそうですが、農家さんが家を構えてあげなければいけません。最近では便利なアプリも登場していて、北海道から九州まで農業しながら旅ができるようなアプリもあり、それを利用して農場や畑で働く人も増えてきています。全国のJAや自治体が連携して展開されている「daywork(デイワーク)」は無料で登録できるみたいですね。それにしても人手不足が深刻なのは変わりないので、「自動収穫ロボットをつくってほしい」って言ったのが、ピーマン農家の福山望さん。お父さんが機械自動開閉装置という、雨が降り出したら勝手にビニールハウスが閉じたり、暑くなったら換気するために上に上がったり、ハウスの一部が自動で動く機械を企業と一緒に開発した方です。福山さんというのは、そんなふうに一族的に機械に明るいというか、福山さん本人も植物に限らず自分でいろんなものをつくるのが得意な人で、たとえば、電動自転車を時速40キロぐらい出る自転車に改造(もちろん公道では乗っていません)したり、自分の作業場を自分で建てたり。絵も上手ですし、道具をつくったりすることも得意です。その福山さんが、自動収穫ロボットのハサミの設計図を書いたりして、それで自動収穫ロボットづくりにチャレンジしようってことになったのです。

ところが、高木先生が、「自動収穫ロボットはレベル的にうちでは難しい」と言って、「北九州高専はどうですか」と勧められ、福岡県北九州市の北九州工業高等専門学校を訪ねることになりました。そこで滝本隆先生と出会います。滝本先生は北九州高専学内ベンチャーを立ち上げた方で、高専の先生なんだけど企業案件もやるみたいな。訪ねたときは、ロボットアームをつくっておられました。滝本先生と話し、一度見に来て欲しいとお願いしたら、新富町まで来てくれました。ビニールハウスを見てもらったら、「物理的にはできますよ」とおっしゃってくださいましたが、実際問題、エンジニアもいないし、研究開発の資金もない。どうやって進めるかっていうところで、北九州高専に通っていた、生徒さんがエンジニアとして休学して新富町に来るということになったのです。その学生エンジニアのために福山さんが自分でつくった作業場を半分事務所にして、そこで仕事ができるようにしてあげました。さらに、福山さんのビニールハウスの一部を実験農場として貸してくださったようです。本当に地域の方々の協力には頭がさがります。もちろん、エンジニアが来たからっていきなり自動収穫ロボットができるわけではありません。ただ、動きが出始めるということです。お金も必要ですから、農林水産省の外郭団体である農研機構の補助金を取りに行きました。当時、ICTとかAIとか、IoTを使った新しい仕組み、新しい挑戦を農研機構が数多く募集していました。カオス状態だったんですが、しっかりと実証して、その知見を農研機構に納めるのが補助金獲得の条件でした。そこで、自動収穫ロボットの製作に関して『こゆ財団』が補助金を申請することになりました。ただ、『こゆ財団』だけで申請したところで落ちるのは確実です。ロボットの知見もないし、正直、高専の学生が1人移住して開発を始めたぐらいでは相手にされないのです。そこで、僕が出てくるわけです。僕は県を回りました。コンソーシアムをつくって、この開発を県と一緒に進めさせてほしいというお願いをしたのです。自動収穫ロボットはあった方がいいとみんな思っていますから。いろいろありましたが、最終的にチャレンジすること自体は肯定してくれました。自動収穫ロボット制作の申請は、結果的に最終審査まで残り、東京へ行ってプレゼンしました。ロボットの詳しい部分は学生エンジニアにある程度書いてもらってイメージを伝えました。今はまだできてないけれど、これからここを目指してつくっていくという夢の部分が多いプレゼンでしたが、なんとか審査に通り、年間7000万円を得ることができました。それを原資にして、自動収穫ロボットをつくるための会社『アグリスト』が誕生したのです。それによって、エンジニアを雇うお金もできました。ただ、僕の役割はここまでです。『アグリスト』の立ち上げまでを担当したところで、『こゆ財団』設立後3年間が経ったので役場に戻ったのです。残念ながら、それ以上関わることはできなくなりました。

『ニューアグリベース』の立ち上げを応援

3年間、『こゆ財団』で身を粉にして働き、役場に戻りました。出向って基本的に3年間なのでどうしようもありません。任命権者、つまり町長が特に必要があると認めた場合に限って、派遣先団体との合意及び本人の同意を得られれば、派遣開始から通算5年を超えない範囲で延長できるとは法律に書いてありますが、延長はありませんでした。僕も正直、疲労がすごかったし、ほとんどうまくいかなかったので、『こゆ財団』では結果も残せなかったし、もう財団には戻ってこない、誰か上手くやれる人が運営したほうがいいという、情けない気持ちで役場に戻りました。『こゆ財団』時代に点数をつけるとしたら赤点です。自分が立ち上げておきながら、無責任で本当に申し訳ないのですが、思い描いていた『こゆ財団』にはほど遠い状態でした。事業自体がうまく運営できなかったことと、財団で働いてくれてる人や『こゆ財団』に来た人たちがどんどん力をつけて活躍していく未来をつくりたかったのですが、そうした人材を育てることもできませんでした。

2020年、出向が解けた僕は役場へ戻りました。小嶋崇嗣町長からは「置くところがない」と言われましたが、結局、産業振興課畜産係の課長補佐として配属されました。そこでサッカースタジアムのあるまちづくりエリアに新しい形の農業公社(社団法人)をつくり、直売所移設と実験農場(農業試験場)を建設移設するという計画を実現するよう命じられました。

社団法人は、『こゆ財団』設立のときよりも断然スムーズに設立することができました。その大きな理由は、立ち上げのメインの人物が僕ひとりではないということです。社団法人の立ち上げについては児玉洋平さんという、当時は農林水産課の課長補佐で、現在は総合政策課課長補佐の、僕の1歳下の後輩職員に話を振りました。「一緒にやろう」と児玉さんを誘ったら、「そんなことをして何になるんですか? 意味がわかりません」と強く否定されました。おそらく、自分たちもしっかり事業をやっているし、また『こゆ財団』みたいな変な話に巻き込まれるんじゃないかと警戒していたのではないでしょうか。でも、直売所や実験農場をつくるためのプレゼン資料を僕がつくり、「こういう感じで考えてるんだけど、どうかな?」って児玉さんと、もう1人の係長の長友宏洋さんに丁寧に話をしました。直売所は、新富JAのところにあった旧Aコープを移設し、農水省の補助事業を活用して大きな直売所につくり変えるという企画を書きました。企画を考え、皆の意見を聞き、プレゼンをするのは僕ですが、実際に動くのは児玉さんというやり方をしました。誰かがやる。ただ、段取りは僕がやる。資料をつくってJAの組合長にプレゼンしますが、それも僕一人ではなく、課長にも一緒に行ってもらう。『こゆ財団』のときは全部1人で背負った気になってやっていたところを、周囲の話を聞き、周りの人を巻き込みながら進めていくようにしたのです。

『こゆ財団』の運営に携わって、全国と新富町を比べながら客観視できるようになったからということもあります。新富町から出たことがなかった僕は、『こゆ財団』の仕事で東京をはじめ、全国に出かける機会が増えたことで、その大きさを知ることができたのです。そして、「新富町も変わっていかないと、かなり厳しいぞ」と思うようになりました。『こゆ財団』をつくるときもそういうセリフは口にしていたのですが、よくわからないまま言っていたような気がします。「このままじゃ人、減るよね」「町が寂しく廃れていくよね」と言葉では発していたけれど、実際それがどういうことなのかは深く落とし込めていませんでした。さらに、『こゆ財団』をつくるときは、最終的には僕が責任を取ればいいと腹を括っていました。町をいい方向に持っていければとそれでいいと思い描きながら取り組んでいました。ただ、結果はそうはならなかったし、人も育てられませんでした。そんな危機感や反省から、僕一人が気を吐いてやってもちっぽけで、意味がないと強く思うようになったのです。「もっと、周りの人たちの話を聞き、共に面白い未来を作らないといけない」って。「その方が力強く進むんじゃないか」と。なので、年下の職員たちに対しても丁寧に接したと自分では思ってます。「俺はこう思うけど」という説明をして、彼らの意見も聞きながら進めていく。彼らも以前の僕と同じように外の世界や新しい考え方に触れる機会が少なかったので、社団法人をつくる前には、九州の主要な直売所を全部見てもらうことにしました。九州にある10億円以上売り上げている直売所と、10億円以下の直売所を回ってもらって、何が違うかを検証してもらったんですが、その頃から児玉さんの目の色が変わってきました。「直売所ができたら町が変わるんじゃないか」って言い出したように、社団法人づくりを自分事化し始めたのです。社団法人のネーミングも、今までなら僕が考えていましたが、児玉さんに任せました。「君がつくるんだから、名前も考えて。この先の町の農業がどうなってほしいかを考えた名前がいいんじゃないか」と。そうして考え出したのが、『ニューアグリベース』です。人が成長して僕を軽やかに超える瞬間をみたような気がしました。農産物の直売所って、普通はJAがつくるものですが、『ニューアグリベース』の直売所は役場がつくっているのも特徴の一つです。

児玉さんは、「そんなことやって何の意味があるんですか?」と否定的だったのに、自分事化して、名前まで考えるようになりました。その気持ちや行動の変化が生まれた理由ははっきりとはわかりませんが、町の外を見るとか、『こゆ財団』で僕が経験したことや失敗から学んだことを常に話していたので、法人の運営に次第に関心を持ち出したのか、本人のなかで何か沸々と湧き上がるものがあったのかもしれません。そんな変化を見るのは僕は嬉しかったです。後輩に託すというか、大きな仕事を一緒にやることで後輩も育ってくれたらいいなっていう思いもありました。僕が『こゆ財団』をつくってやったこと自体はダメでしたが、チャレンジする人間はいっぱい必要だと思ってます。そう、チャレンジする人間。僕は後先考えずに一人でどんどん突っ込んで大けがをする大バカ者でした。チャレンジする人たちを応援したい、こういう壁が現れるからこう突き破ろうとか、こういう崖が隠れているから気をつけてって、僕は『こゆ財団』で体現してるんで、さまざまな状況に応じたアドバイスが少しはできます。うまくいかなかったけど、経験はある程度してますから、それを全部教えたいっていう気持ちです。失敗から学んだことも『ニューアグリベース』には盛り込みました。

児玉さんは当時43歳かな。すごく優秀な職員ですが、社団法人設立するのは初めての経験でした。それでも1年目に企画を通して、翌年から『ニューアグリベース』に出向し、中心になって運営をスタートさせました。スタートして2年ぐらい経ったとき僕に、「岡本さんが『こゆ財団』で苦労されたことがやっとわかりました」と言ったんです。そのとき、僕は思いました。チャレンジする人がいないと、助けてあげる人もいないということ。文句を言う人しかいなくなる。なので、これからも若い人たちの背中を押して、そのチャレンジを応援してあげたいです。チャレンジする人には必ず落ち度があります。でも落ち度を批判するのではなくて、まずはチャレンジしたことを褒める、それから「もっと良くするために、ここは改善の余地があるよね」って自分の落ち度を理解し、次からはもっとよくしようと思えるようにちゃんと伝える。その人が今、どのあたりの成長段階にいるのかを考慮しながら。こういう指導というのは、自分がチャレンジしたことがないとできないと思うんです。だから、よき指導者を増やすためにも、よきチャレンジャーを増やさないといけないのです。

『ニューアグリベース』の設立資金は、最初はJAこゆと新富町役場から出資していただいています。その後は、直売所の売上などを運営資金としていただくというスキーム。売上10億円達成を最大の目標値と定めました。人件費は役場からの出向なのでタダです。職員は、役場から2人、JAこゆから2人、そして、県から1人出向してほしいとお願いしたので、計5人です。県からの出向により確かな法人として見られたと感じています。

農山村振興補助金という農水省の補助金も申請しましたが、これを八代和樹さんという産業振興課の後輩職員に任せました。補助金の申請書は僕は何回も書いてきたので教えることができるし、農水省に行くときは僕も同行してアドバイスしました。彼は僕の6歳下だったんで、直売所建設の補助事業に挑戦するという大きな仕事をやってほしかったのです。また、実験農場をつくるための資金は、企業版ふるさと納税で企業からいただきました。そこに実証として企業が関わるというスキームをつくって営業しています。『ニューアグリベース』は1年目に目標の10億円を売り上げ、今も順調に運営されています。児玉さんは頑張って直売所も立て、2ヘクタールの実験農場も企業版ふるさと納税で資金調達をして整備しました。3年間で異動なのでもう『ニューアグリベース』にはいません。「まだいたい」って言っていましたが。彼のようなチャレンジャーがもっと増えてくれたらいいですね。誰かの背中を押し、チャレンジが生まれ、そこに、その人の人生にとってのドラマも生まれるかもしれない。そんな仕事を続けていきたいです。 『ニューアグリベース』がスムーズに設立でき、順調な運営を続けられているもう一つの理由は、理事会の理事として議員さんたちにバランスよく入ってもらったことや、理事長に副町長になってもらったりしたことです。地域の農家、議員、JAなどまんべんなく理事会に入れて意見をしっかり聞きながら事業を行ったことが良かったです。『こゆ財団』設立のときは僕が代表理事になろうとしたために議会に一蹴されました。調子に乗っていると言われたのも無理はありません。そういう下拵えというのか、建てつけをちゃんとしていたからこそ、スムーズに事が運んだのです。『こゆ財団』のときの失敗があったからこそ、今回は同じ轍を踏まないように進めることができたというわけです。逆に言うと、『こゆ財団』のときはよくあんなふうに強引に進めようとしたなと思います。チャレンジしたことはいいと思うけど、チャレンジする場を何も考えていない、もう少し具体に落とし込まないといけませんでした。抽象的すぎたんです。あの頃の僕はまだよくわかっていなくて、とりあえずやってみようという熱量だけで動いていました。「それじゃあダメ。もっと考えて進めないと」と、あの頃の僕にアドバイスしたいです。でも、リスクを取ってでもやるっていう人間自体は少ないんで、それ自体は褒めたいです。「町のために本気でやる」なんて言う人間はめちゃくちゃ嬉しいし、いろいろ教えてあげたくなるじゃないですか。

秘書時代、から学んだこと

畜産課長補佐として産業振興課で2年ほど過ごしたのちに今度は町長秘書に役場の定期異動で任命されました。秘書になってからわかったのですが、秘書の仕事はめちゃくちゃ勉強になります。だって、ずっと町長の横にいるんですから。基本的に、すべての会議に出ることを許されるので、町の状況や町長のやろうとしていることなど、いろんなことがどんどんわかってきます。企業の幹部や代議士など要人と会食をされるときも一緒にいますから。やる気があって、好奇心があったら、めちゃくちゃ学べます。ただ、めちゃくちゃ忙しい。町長って、ほとんど休みがありません。なので、年間300日ぐらい一緒にいます。町長と一緒に動くとそのぶん僕も忙しくなります。

町長の発言や考えられた政策を、「担当課長に伝えといて」と僕に投げられることも多々あります。僕が各課につないでいくのです。特に各課をまたがる案件は調整に苦労しました。秘書の仕事って、日程を調整したり来客の対応をするイメージがあると思いますが、好奇心とか興味関心があって町長と一緒にいればいるほど案件がどんどん増えてくる。なので、わからないことも多く大変でしたが勉強になりました。町長は役場のすべてのことに関して精通した方でした。また、なかなか普通には思いつかないような施策を考える方でもありましたので、町長が言われる案件の意味や構造を必死で勉強し、特に横断的な事業に関しては各課への説明に苦労したことを覚えています。町長は細かく説明はしないので、「言われてることはこんな感じですか?」と1枚紙の資料を作って何度も確認し、修正して、構造・役割・時間軸・資金・ゴールイメージを各課へ伝える。そういうことを繰り返していくうちに町長がさまざまな施策に関して思っているであろうことが少しずつわかるようになり、またそれが繋がって全体像が少しずつ見えるようになってきました。「たぶん、町長はこんな感じで考えてます。こちらの課の役割はこうなります」というふうに各課長に話を持っていけるようになるのです。抽象から具体へ順序立てて、できるだけわかりやすくを基本に。そうやって何度も何度も訓練したおかげで自然と力がついていっちゃうわけです。次第に僕は、役場全体のことがぼんやりと見渡せるようになりました。

小嶋町長は物事を大変よく知っている方で、議会の答弁も各課長に答えさせず、ほぼ9割方、自分で答えます。法律も大好きです。人が考えないようなことを飛び抜けて考えていく人なので、理解するのが難しい。しかも、僕はすべての課長より年下なので、話すタイミングや話し方などを調整するのも難しかったです。ただ、そういう面でもすごく勉強になりました。大変でしたけど。町長が「こうしたい」って言ったら、それが叶うように調整したり、近づけたりするようにいろいろ考えるとこがありますが、小嶋町長の場合はそれが本当に結果として現れるし、町自体が目に見えて良くなっていくのがわかるのです。町長の考えで生まれたサッカースタジアムもそうだし、ヴィアマテラス宮崎もそうです。

町長はたくさんの企業の方と会いますが、会話のなかで企画が生まれていくんです。役場のみんなはその場にいないので、僕が案件を持って行くとまた何か始まった、「それはどういうこと?」ってなります。僕が噛み砕いて説明する。その繰り返しでした。町長はいろいろなことを僕に言います。10年後、20年後の町のビジョンについても語ります。僕はそれを、児玉さんのような年下の職員に伝えます。年下の職員はこれからの人たちなので、そういうことも話すようになりました。ただ、部下のレベルにもよります。この部下はもう何歳だから厳しい感じで言わなきゃとか、役場に入って10年目だから次のステップに上がるような話をしようとか、相手によって話す内容は変えます。新富町役場は小嶋町長になってから毎年10人ぐらい新入職員が入ってきます。僕が知らない人も結構います。そんな人たちには、「どうせこの役場で生きていくんだったら、おもしろい役場にしたほうがよくないか」って言ってます。 小嶋町長の下で3年間、秘書の仕事ができたのは本当によかったと思います。考えの組み立てが深いというか、考えが浅かった自分にとっては、町長の思考回路を探ることも勉強になりました。町長が就任されて新富町はこれまでできなかったことを力強く進めて実現しています。緻密だし、バランスを取るのも難しいことです。でも、町長は最初からそれを考えて、そうなるように動いています。そういうところ、すごく勉強させられたので、僕も早く町長のレベルに達したいと思うようになりました。小嶋町長は精神面でも今まで出会った人のなかで、社会に対する向き合い方という面ではいちばんすごい人だと思って見習っています。

【岡本啓二プロフィール】
1976年宮崎県新富町生まれ。寿司屋「亀八」の息子として育ち、地元の無形文化財・神楽の伝承者としても活動。1999年に新富町役場へ入庁し、税務、福祉、防災、農業振興、企画政策などを歴任。39歳でまちづくり政策課長補佐に就任し、こゆ財団設立を企画、ふるさと納税を2,000万円から20億へ拡大。2018年には地方創生の優良事例として総理大臣官邸で発表。現在は一般財団法人こゆ地域づくり推進機構代表理事として、文化芸術・スポーツ・産業・人材育成を横断し、「挑戦が挑戦を生む地域」の実現に取り組んでいる。

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