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多様性

連載 | 福岡伸一の生命浮遊

ノーベル賞のホットな話題 | 126

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 前回まで、「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマとする大阪・関西万博(EXPO2025)のプロデューサーを拝命した私が、新型コロナウイルス・パンデミックの今後、どのように“いのち”と向かい合うべきか、その基盤となる生命哲学についての展望を述べてきた。今回は、その論議はちょっとお休みとして、ちょうど秋のノーベル賞発表のシーズンを迎えたので、この話題に触れてみたい。

 メディアの予想記事によれば、医学・生理学賞の有力候補として、新型コロナウイルスに対するmRNAワクチンの基本技術を開発した、カタリン・カリコ博士の評判が高かった。確かにmRNAワクチンはパンデミックに対する切り札として、世界を救った。そして彼女の、研究者としての道のりも独特だった。1955年、社会主義体制下のハンガリーに生まれ、生物学を志し、研究者の道に進むが、一党独裁下の政府の方針で研究費が削減され、事実上失業状態に陥った。1980年代半ば、あり金をすべて娘のクマのぬいぐるみに詰め、渡米を決意した。しかし、なかなかよい研究職がなく、成果は正当に評価されず研究費の申請もうまくいかなかった。でも、彼女は自分の研究に信念を持っていた。生命の設計図であるDNAの情報は、RNAに転写される。RNAはとても分解されやすい。外部から投与されたRNAは異物と認識されて排除されてしまう。カリコ博士は、RNAに特殊な化学修飾を施し、保護剤をコーティングして生体内に投与すれば、異物と認識されず、分解からも守られて細胞内に入り、タンパク質に“翻訳”されることを発見した。これがRNAワクチンの原理となった。

 十分にノーベル賞に値する業績であり、苦労人の彼女が受賞すれば、そのサクセスストーリーは話題に事欠かない。しかし、私は「まだ、時期尚早ではないか」と思っていた。ノーベル賞選考委員会は慎重だ。ワクチンは先進国ではかなり普及したが、発展途上国には十分届いていない。だから、ノーベル賞の趣旨である「全人類の幸福に貢献した」とはまだ言えない。そして、ほんとうの効果と安全性を見極めるためには、さらなる時間が必要である。

 案の定、今年の受賞者は、カリコ博士ではなく、デービッド・ジュリアスとアーデム・パタプティアン両博士となった。二人は、温度と触覚の受容体の発見者である。生物は環境からさまざまな刺激を感知し、それに応じた反応を示す。視覚は光、嗅覚は匂い物質、味覚は糖や塩といった呈味物質を検出するレセプターを研究すればよい。ところが、熱い・冷たいという温度がわかる感覚はいささかぼんやりしている。さらに、触ったり、圧を感じたりする感覚は、確かに存在してはいるが、とらえどころがない。実際、なかなか研究の糸口がなかった。なぜなら匂いや味のように、物質的な基礎がないからだ。

 ところが、思わぬところにヒントが転がっていた。唐辛子の辛味成分、カプサイシンである。カプサイシンは植物がアミノ酸から合成する脂溶性(水に溶けにくく、油に溶けやすい)物質で、化学構造も判明している。このように物質的に明確なツールがあると研究がしやすい。

 カプサイシンをなめると、ピリピリとした強い辛味刺激の感覚が生じる。これは、「甘い、すっぱい、苦い、塩辛い、うまい」の基本五味とは異なる感覚である。感覚を伝達している神経経路も異なる。かくして、カプサイシンが結合しうるレセプターが探索された。その結果、発見されたレセプターは細胞膜を貫通するタンパク質でできていた。

 通常、レセプターは、細胞の外側を向いている部分に信号物質が結合することによって活性化される。ところが、カプサイシンが結合する部位は、このレセプターの尻尾側、つまり細胞内の部位にあった。カプサイシンは脂溶性物質なので、細胞膜(これも油脂から構成されたシート)に潜り込み、細胞内部に入ったあとレセプターに結合することがわかった。唐辛子料理を食べると、最初はそれほど辛くないように思えても、あとから激烈な辛味がやってくるのは、カプサイシンの細胞内浸透にタイムラグがあるからだった。しかも、水を飲んでも辛味が消えない理由も説明できる。細胞内に入ってしまった物質はなかなか洗い流せないのだ。

 そして、もうひとつ大発見があった。カプサイシンのレセプターは、なんと温度センサーでもあったのだ。温度が43度以上になると、カプサイシンが存在しなくても、このレセプターが活性化され、これが信号となって、カプサイシンのときと同じ情報が神経を通って脳に達する。英語でhotは「辛い」という意味と「熱い」という意味の2通りあるが、これは生物学的に正しかったのである。

待望の新刊!『生命海流 GALAPAGOS』

 (64501)

「生命」「進化」とは何か。福岡伸一がダーウィンの足跡をたどり、ガラパゴス諸島フィールドワークの中から、新たなる生命観を導き出す。絶海の孤島で繰り広げられる大自然の営みと進化の不思議を、ユーモア溢れる文章と美しい写真で描く。旅のリアルと思索が行き来する、まさしく「動的平衡」なガラパゴス航海記。
福岡伸一著、朝日出版社刊
本体2090円(税込)
ふくおか・しんいち●生物学者。1959年東京生まれ。京都大学卒。米国ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て、青山学院大学教授。米国ロックフェラー大学客員研究者。サントリー学芸賞を受賞し、ベストセラーとなった『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)、『動的平衡』(木楽舎)ほか、「生命とは何か」をわかりやすく解説した著書多数。ほかに『福岡伸一、西田哲学を読む』(小学館)、『ナチュラリスト』(新潮社)など。大のフェルメールファンとしても知られ『フェルメール 光の王国』『フェルメール  隠された次元』(木楽舎)がある。朝日新聞に小説「新ドリトル先生物語 ドリトル先生ガラパゴスを救う」を連載中。
collage by Koji Takeshima
文・福岡伸一
記事は雑誌ソトコト2022年1月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。

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