ソーシャルでエシカルな関心をもつ人を惹きつける、街の中に広がる学びの場「ソーシャル系大学」。今回は、都市の生涯学習の始まりと展開を取り上げる。大正デモクラシーの興隆とともに、一部の特権的な人のためだった学問が街に開かれるようになり、市井の人々による文化活動も盛んになった。それから百余年。『大都市・東京の社会教育─歴史と現在』という記録集を参考に、都市における学びの拠点を振り返る。
ソーシャル系大学につながる系譜から、重要な拠点は2種類あった。
日本では、人口流入や産業の集積、技術の革新など、時代に応じて都市型の学習活動が模索されてきた。明治期、国家が主導した産業振興により資本が蓄積されるようになると、都市部には多くの工場や事業所が設立され、トラムや鉄道で通勤し給金をもらい、消費しながら生活をする都市労働者層が形成される。第一次世界大戦後の好景気に沸く都市部には、住宅や社会インフラが不十分な場所にも農村から人々が流入した。その後不況が続くと困窮する人も増え、それを救おうと生活改善運動、消費組合運動などが勃興する。
大正から昭和にかけて「東京市」が設置した「隣保館」や「市民館」は、その時に整備された学習拠点で、市民館は「市民の家として共働、共学、共生の3つの生活の目標」を提供し、「当時起こってきた思想問題や社会問題など社会不安に対処するもの」だった。例えば『大塚市民館』は、旧・養育院の流れを汲む施設で、1928年に託児所や児童相談所と合わせて市民館となった。今の『東京都立大塚病院』である。大塚には日本のナイチンゲールと呼ばれた瓜生岩子を記念した『四恩瓜生会』による母子ホーム、婦人食堂、託児所を備えた市民館が、根津には乳幼児保護を重視し、女子教育も提供した市民館が開設された。救急医療も児童福祉も職業訓練も十分ではない時代、必要に迫られ、開設された拠点が、都市に暮らす人たちの生活を支えていた。
ただし、学びの拠点としての公民館はその後、必ずしも東京に根付いたわけではない。公民館は定住志向の人たちのための施設で、貸間暮らしの単身者が多い都市部では実現が困難だったからである。では戦後、市井の人々はいったいどこで学んでいたのだろうか。
ソーシャル系大学につながる系譜という観点から振り返ると、重要な拠点は2種類あった。ひとつは『青年館』である。1960年代、勤労青年たちが集まり、自主的に学ぶ場として東京都が予算化し、1965年、各区に1館は建設しようと事業が始まった。実際には、図書館や区民会館との併設が多かったというが、行政が主導し、青年を主な対象とする施設が各地に設立された。もうひとつは『杉並区立公民館』である。1953年に設立され、原水爆禁止運動の指導者としても知られる国際法学者・安井郁が館長に就任した。10年以上にわたって高水準の公民教養講座、レコード・コンサート、映画会などを実施し、都市型公民館を目指したという。その後、東京都では「コミュニティ・カレッジ構想」も部分的に実現されたが、社会環境の変化からか事業規模の縮小が続いている。
令和の時代、単身世帯の増加、高齢化、経済格差、世代間格差の拡大は、都市の問題でもある。ソーシャル系大学の多くは、インターネットとSNS、オンライン会議システムによって地理的な制限を超えるスキルを持っている。これを活用することで、都市の学びはどのように変化するのか。学びの拠点としてのソーシャル系大学の特性と可能性をこれからも考え続けたい。
参考文献 『大都市・東京の社会教育─歴史と現在』(東京都社会教育史編集委員会編、小林文人編集代表、エイデル研究所刊)
参考文献 『文京区史』第4巻(東京都文京区編、東京都文京区刊)