私は現在、日米を行ったり来たりしながらの生活を送っている。米国の拠点は、ニューヨーク市にあるロックフェラー大学だ。かつて──もう30年近くも前のことだが──私はここでポスドク(ポスト・ドクトラル・フェロー)として研究修業を送っていた。日本語に訳すと「博士研究員」となるこのポジション、有り体に言うと“研究奴隷”、いや、雀の涙ほどのわずかな給金があるので、奴隷というのは言い過ぎだが、今の言葉でいうところのブラック企業の従業員。
科学の世界における研究室体制はまさにブラック企業だ。ノーベル賞をとるような(あるいはすでにとったような)有名な研究者は、一大研究チームを有名大学内に組織して、そのボスとして君臨している。多額の研究資金を集めて、世界中から若手研究者を募集し、選考のうえ、雇い入れる。それがポスドクだ。ポスドクは未来のノーベル賞を夢見て意気揚々とやってくるが、たちまち現実の厳しさに打ちひしがれる。ボスの命令のもと、徹底的に働かされるのだ。それも極めて安い給料で。
私が1980年代の後半、ポスドクになった頃の初任給は年2万ドルだった(当時の換算でも年収250万円)。研究は長時間労働だ。実験は、早朝から深夜までかかる。残業手当などもちろんない。ニューヨークのアパートの高い家賃を払うと、ほとんど残らない。もちろん住める場所も最低限のボロアパート。同じく給料の安い若者とシェアしている人たちも多かった。そしてボスはものすごいプレッシャーをかけてくる。働け、働け。早くデータを出せ。論文を急げ。ライバルチームに負けるな。もっと集中しろ。ボスの研究プロジェクトの傭兵として、ボロ雑巾のようにこき使われた。
しかし、私たち研究者の卵は、このプロセスをくぐり抜けなければ一人前になれない。理系研究者の人生は独り立ちするのに非常に時間がかかる。まずは大学の理系学部に4年、ついで大学院博士課程に5年。もうこれで20代後半となるが、まだ全然食えない。このあと海外に出て3年から5年ほど武者修行する。それがポスドク期間である。ポスドク期間に、ボスに実力を認められ、ボスが満足するような研究成果を挙げることができれば、ようやく独り立ちのためのパスポートを手にできるのだ。だから研究者にとってポスドク期間は絶対に逃げることのできない通過点となる。
私はこのポスドク期間、せっかく世界の文化と芸術の中心地・ニューヨークに住んでいるというのにもかかわらず、自由の女神にもエンパイアステートビルにも行ったことがなかった。精神的にも、経済的にもまったく余裕がなかったからである。とにかく研究のことだけで頭がいっぱいだった。言葉の壁があるため、とにかくがむしゃらに働いて身体で結果を示すしかなかったのだ。
そんなにまで追い詰められて研究生活を送っていたポスドクの日々だが、ずっとあとになって振り返ってみると、それはまったく意外なことに、私にとってある意味で人生最良の日々だったと思えるのだ。つまり、一切の雑念と雑事から解放され、自分の実験研究のことだけを考え、それを探究することだけに専心していればよかった期間。そんな時間は、そのあと二度と得られることはなかったのである。
同時に、観光名所に足を運んだことはなかったとはいえ、ニューヨークというこのエネルギーに満ちあふれた街の振動が、深いところで私の身体の奥底に刻み込まれてしまったのだった。これは不思議な感覚となってずっとあとあとまで私のなかでくすぶっていた。結局、3年ほど、ポスドク生活を送ったあと、私はホームシックにかかって、学生生活を送った京都大学の講師の職を得て、日本に帰国することになり、そこで十数年を過ごすことになったのだが、ふと物思いにふける時、あるいは、なにか不愉快なことが起きるたび、私はしばしば自分の内部に音もなく湧き上がってくるニューヨークの振動を感じ取ることができた。それはなつかしい憧憬のようなものでもあり、同時に、いてもたってもいられない渇望、あるいは禁断症状のようなものでもあった。
さらにそこから十数年が過ぎた頃、私は京都を去って、東京の私立大学に教授職を得て、生まれ育った東京の地に戻っていた。この間の経緯は語ろうと思えば語ることも多々あるのだが、今はやめておこう。この私立大学のよいところは、真面目に勤続しているとそのうち「サバティカル」という研究休暇を貰えることだった。その間は、大学の教育デューティから免除されて、どのような形で、どこにでも行くことができる。そこで英気を養い、新しいことを吸収し、研究に専心する期間を過ごすことができる。
そのサバティカルが運よく私にもめぐってきた。鮭がもとの川に戻るように、あるいは渡りをする蝶が自分の育った森を目指して飛翔を続けるように、私は自分の再・充電期間を過ごす場所を、かつて過ごした地、ニューヨークのロックフェラー大学にすることにまったく迷いがなかった。