1年ほどが経過した頃、事件は驚くべき解決を迎えた。犯人は……。
久しぶりの海外出張の日、空港の書店でおもしろそうな本を見つけた。『大英自然史博物館珍鳥標本盗難事件』というもので、興味深い。大英自然史博物館の鳥類標本盗難事件では、20世紀の半ばに研究者として来館して標本を持ち帰り、さらに盗品であることがばれないように偽造まで行ったリチャード・マイナーツハーゲンが有名。ところがその話ではなく、2009年に起こった大量の標本盗難事件に関するものだ。ヨーロッパへ向かうフライトの間に一気に読了してしまった。
この本では盗難事件について調査した著者が、犯人や周辺人物にインタビューした内容まで詳しく書かれている。犯人は当時21歳の音楽学校に通う学生。幼少のころからフライフィッシングに使用する毛針の有能な製作者でもあった。その彼がワシントン条約等で取引が規制されている稀少な鳥類の羽欲しさに、イギリス・ロンドン近郊の町・トリングにある大英自然史博物館鳥類部門の窓を破って侵入し、300点弱の標本を盗み出したのだ。
その中にはアルフレッド・ラッセル・ウォレスがマレー諸島で収集した貴重なものも含まれており、チャールズ・ダーウィンと共に自然選択による生物の進化理論に至るきっかけとなったコレクションが傷つけられた。事件発覚後犯人は捕まり、一部の標本は無傷で博物館に戻されているが、羽をむしり取られたり標本ラベルが外されたりしたもの、いまだ不明の標本もある。
2012年にトリングの博物館を訪問したことがあるが、その3年前に悲惨な事件があったことを知らなかった。哺乳類の標本は鳥と違って地味な色合いのものが多いので、こういった輩に狙われることはないかもしれない。だが一度だけ盗難を疑った珍事件があったことに苦笑する。国立科学博物館は2011年に1年をかけて、東京都新宿区百人町の土地から、現在の茨城県つくば市天久保へと移転作業を行った。標本を移動する作業が終わってしばらくしてからのこと、収蔵されているはずのニホンオオカミの頭骨のすべてがないことに気がついた。日本で絶滅したオオカミは哺乳類コレクションの中でもタイプ標本と並ぶ重要標本に位置づけられる。冷や汗をかきながら骨格標本室のほかの場所を探して回ったが、やはりない。移転作業中にも来客は多かったし、誰かが持ち去ったのか、あるいは輸送の過程で紛失してしまったのか。困ったことになった。
1年ほどが経過した頃、事件は驚くべき解決を迎えた。犯人は僕自身だった。移転作業当時、ニホンオオカミの学名はCanis lupus hodophilaxというが、これを箱に書くと貴重な標本であることがわかってしまうので、アシスタントが気を利かせて、大陸産のオオカミすべてを含む「Lupus」とだけ書いて輸送業者に回した。作業の忙しさにそのことをすっかり忘れていた僕は、これを「Lepus」、つまりウサギ類の属名を示すものと勘違いして、剥製標本室の棚の一番上の目立たないところに収納してしまっていた。ともあれ、僕の仕業でよかった。標本がなくなるということは、“博物館人”として最も悲しむべきことだから。