六龜、1年ぶりの再微住。
2018年8月。1か月の少し長めの台湾・高雄微住中、友人の紹介で六龜というまちを訪れた。
高雄は港や海のイメージが強いが、ここ六龜は高雄市東北部に位置する山と川に囲まれた山間の地。
六龜での微住中、お茶農家では茶摘から焙煎、実際の商品になるまでの製法を体験。
別日には、もう一軒の農家で灼熱の高雄の太陽の下、キュウリ採りの手伝いをした。ちょうどまる1年が経ち、彼らに会うためアジア微住初の“再微住”をした。
1年ぶりのお茶農家の家族との再会。「ただいまー!」「1年、あっという間だね」という会話。相変わらずシャイなお父さんは全然顔を合わしてくれないけれども、「マンゴー、日本じゃ高いんだろう?」と言って、旬のマンゴーやバナナを山盛り出してくれる。
しばらくリビングで団欒をしていると、お母さんが「吃飯吃飯!(晩御飯の時間だよ!)」と声をかけてくれる。お母さんは夕方まで仕事に出かけていたにもかかわらず、数十分であっという間に晩ご飯をこしらえる。「お母さんのご飯はなんでこんなに早くて、こんなにおいしいの?」って言うと、「うちのガスはお店用のものを使っているからよ」と、こんな会話、去年もしたな。でも、去年と比べて特別に招かれてる感じもしない。どことなく、久しぶりに帰省した時の実家に似ている。
その夜、去年と同じ部屋のベッドの上で考えた。ここは自分の実家のようで、でもどこかふわふわした絶妙な居心地。これが“観光”というフィルターを破り、その土地の本当の“ローカル”に入り込めたということか。
この家族とは再微住によって関係の深度が変わった。まさに微住のコンセプトでもある“一期三会”以上の関係だろう。ここは自分の“ホーム”に限りなく近いアウェイ。
僕らは新たな”ふるさと”を探している?
自分の“ホーム”とは何かと考えると、まず思い浮かぶのは、家や家族、そして故郷だ。
故郷は当たり前のように生まれた場所で、自分の意思では決められない。これからの時代、もともとの生まれた場所の故郷に加え、関係性の中でつくり上げた、ゆるい故郷=“ゆるさと”があってよいと思う。
“ゆるさと”づくりは国内でもいいが、僕はアジア各地へ視点を広げ、自分に合う場所や関係を探りたい。自らの意思で選べるホーム“ゆるさと”がこれからの時代を生き抜く“軸足”になる。
そして今回の再微住で感じた、微住の中での夏休みの“帰省”のような感覚。1回だけの微住ではつくり上げられない再微住こその体験だ。
当たり前の”ホーム”の危うさ。
自分の意思では決められない既存の“ホーム”に今、少しずつ無理や歪みができている。
仕方のないことだが意思なきホーム(自国/故郷/家族)に対して、人間は盲目的になる。そこに歪みが生じて、今日のアジアの国同士の衝突にまでつながっている。
だからこそ、僕たちは自分のホームを能動的にリデザインすることが必要だと思うし、“ゆるさと”はその一つのカードだ。
ホームに近い漢字の「我」は、中国語で「自分」を意味する。この漢字の由来を調べると、もともとは武器を意味するそうだ。
漢字の形状も強い印象で、「我が強い」や「我がまま」などネガティブな意味合いも持つ。
今後、アジアでこの「我」を上手に扱わないと大変なことになる。詳しい話はまた別の微住先で。