「男」として扱われて
今通っているジムには4名のトレーナーがいて、僕は彼ら全員にゲイだとカミングアウトしている。最初に代表の方と恋愛の話になった時に、「僕、ゲイなんで女性に興味ないんですよ」と伝えたのだが、その時は驚きもされず、彼は、よく行くゲイバーがあること、そのバーのママを尊敬していることを教えてくれた。そして「自分のジムにも、ゲイの方が来てくれてうれしいです」と、とても爽やかに言ってくれた。それはよくある「おもしろい人がきたぞ!」というような騒々しい反応ではなくて、ただ自分にとって身近な存在が現れて親近感を感じてくれているようだった。
そんな彼らとのコミュニケーションは、完全に体育会系男子のそれだ。僕自身、一応は体育会系出身なので、彼らと話しているとすごく気持ちがいい。まず、声がデカい(笑)。そしてポジティブで、素直で、紳士的だ。最近ハワイに行ってきたのだが、出発前の時期は「ハワイでイケメン振り向かせましょうよ!」とか冗談を言ってくれたり(僕がそういう話をするからだが)、いつも彼らとはゲラゲラ笑って自然と話せる間柄になった。
僕らの間には「男同士」という気配があり、それでいて「ゲイとノンケ」という差による気遣いの気配も漂っている。そして、ただ運動が好きな仲間という共同性も感じられる。彼らといると僕は、自分が「男」であることも「ゲイ」であることもとても自然と受け入れていることに、今日トレーニングに行ってきて気づいた。
これは、多くのノンケの方にはよく分からないことかもしれないが、これまでの社会で「ゲイだ」と公表して生きるということは、周囲の人間から「女性性」を期待されることが増える、ということだった。
僕がカミングアウトして4年ほど経ったが、その間何度も、「ゲイだ」と言った瞬間から僕を褒める際の形容詞が「かわいい」に変わることを経験してきた。“女子会”と銘打ったものにも呼ばれるようになったし、「太田は男の気持ちだけではなく、女の気持ちも分かるんだよね」と勝手に言われることも増えた。
僕の場合ラッキーだったのは、こういう扱いが嫌ではなかった、ということだ。求められる女性的なキャラクターに沿ったメンタリティが、実際に僕の中には存在していたのだ。だけど一方で、「男性性」を抑圧されるような空気を感じ、息苦しかったのも事実だ。僕の中の「男性性」は、「ゲイだ」と公表する以上は期待される機会がほとんどなく、心の中で置き去りにされてきた。いや、僕がそうしてきたのかもしれない。
僕はいままで「男性性」を肯定しない象徴的な行為として、自分が男性的な振る舞いをした時(例えば、思い荷物を持ち上げたり、低い声を出したり)「今の僕、ノンケやん」とセルフ・ツッコミをして笑いをとってきた。それはいつも決まってウケた。そういうノリに期待する空気は、少なくともこの4年間、ずっと存在していた。
だけど、今通っているジムの面々は、僕が筋トレという「男性的」とされがちなことに取り組んでいても、その中でただ「男性」として振る舞っていても、何もツッコミもしてこないし笑いもしない。さっきも言ったとおり、僕らは「男同士」というか「人間同士」として、いつも一緒に笑い合っているだけだ。
多分、時代は変わってきているのだと思う。よく考えてみたら、僕は定期的に“女子会”をしている女子たちの前でも、無理に女性的に振る舞うことがなくなったし、社会全体が「ゲイはゲイなだけでは決してない」と理解してきているのだと思う。
だから僕は今日、そろそろ「ノンケやん」というツッコミもやめていかないとな、と思った。あれはお決まりの笑いの型だったけれど、そんな自己否定のうえにある笑いは、次世代に残していきたくないし、「やる気あり美」という、「笑い」にアイデンティティをもったLGBT系団体をやっている自分が、終わらせていく必要があるとも思うのだ。
とはいえ、「笑い」は「笑ってはダメ」と言ったら余計助長されてしまう性質がある。だから「ノンケやん」を超える定番ツッコミを考えなくてはと思っている。