MENU

多様性

連載 | 福岡伸一の生命浮遊

科学を学ぶとき、科学史を学ぼう

  • URLをコピーしました!

 分断されてしまった2つの知、「科学」と「人文知」(つまり理系と文系)をつなぐにはどうしたらよいだろうか。手がかりのひとつは、科学を学ぶとき、人文知の方法を参照することではないかと私は考えている。キーワードは「時間軸」である。「歴史」と言ってもいいかもしれない。つまり、科学を学ぶ一番の方法は、科学「史」を学ぶことである。往々にして教科書は知識の提示が優先されるあまり、その知識がどのように獲得されてきたのかというプロセスが“漂白”されてしまう。しかし、このプロセスに目を向けることが、むしろ重要であり、それは人類がその知識を見出していく試行錯誤の道筋にほかならないのだから、知識そのものを理解するうえでも大いに役立つ。
 たとえば、細胞の構造を見てみよう。教科書には、細胞の断面図が描かれており、細胞内小器官にひとつひとつ名前がつけられており、文中にはその役割や機能が記されている。楕円状の微粒子は、ミトコンドリアと呼ばれ、細胞内のエネルギー生産工場として働いているといった具合だ。
 試験勉強のための知識としては、ミトコンドリア=細胞内エネルギー生産工場、という暗記だけでよいかもしれない。しかし、一度、この「上から目線」の記述をひっくり返してみよう。そして、人類がミトコンドリアに関するこの知識をどのように探究し、いかに獲得してきたのかを探ってみよう。これが、科学に「時間軸」を取り戻すということである。むろん、最初から、細胞内の小器官・ミトコンドリアが、細胞内エネルギー生産工場であることが一瞬にしてわかったわけではない。
 19世紀、削ぎ切りにした細胞の切片(こうしないと細胞に光が通らず、きれいに見ることができない)を顕微鏡で観察していた科学者・アルトマンは、細胞内部に糸くずのような微粒子が散らばっていることに気づいた。彼は、これを、糸を意味する「ミト」と粒子を意味する「コンドリア」から、ミトコンドリアという名前で呼んでみた。
 ちなみに、糸を意味する「ミト」(もしくは「マイト」)は、生物学ではほかでも使われており、細胞分裂の際、複製された染色体が細い糸で牽引されながら、分配される様は、マイトーシスと呼ばれている。これは日本語では、有糸分裂と訳された。なかなかの名訳である。日本ではほとんどすべての科学技術用語が和訳されているゆえに(明治期の学者たちが苦労して和訳したものが多い)、いろいろな知識を外国語をまだ学ばないうちから、そのまま母語(日本語)で習得できるという利点がある一方、いったん理科教育で「有糸分裂」と学んだものを、その後、英語(原語)に逆変換してマイトーシス(mitosis)に戻すのはなかなか大変である。すくなくとも高校レベル以降の教科書の術語表記は和英併記が望ましい。なぜか、ミトコンドリアはミトコンドリアで、和訳がない。もしあれば糸状粒子とでもなっただろうか。
 さて、話を元に戻すと、ミトコンドリアが糸くず状に見えたのは、顕微鏡下で、細胞を薄く削ぎ切りにしていたからで、それを三次元空間に再構成してみると(脳内3D)、糸くずには厚みがあり、それはちょうどテープ(日本語でいえば“きしめん”)が折り畳まれているかのような形状をしていることがわかってきた。
 細胞内に、なぜ“きしめん”が折り畳まれているのか。科学者たちは思考を巡らせた。折り畳まれているのは、細胞内という限局された空間で、できるだけ面積を稼ぐためではないか。稼いだ面積でいったい何が行われているのか。やがて、“きしめん”(それは細胞を取り囲んでいる細胞膜と同じ成分からなる膜がジグザグに折り畳まれた構造体だった)の上に、幾多の酵素群が並んでいることがわかった。
 酵素は細胞から取り出しても、その反応を調べることができる。何年にもわたって、細かく酵素反応が解析された。ようやくわかってきたことは、細胞内部の、そのまた内部のミトコンドリアの“きしめん”の中で「呼吸」がなされているということだった。呼吸と言っても、私たちが肺で息を吸ったり吐いたりすることではない。酸素を使って燃料を燃やして、エネルギーを得る、ということである。
 この場合の燃料は、私たちが摂取した栄養素、主としてブドウ糖のことだ。細胞はブドウ糖を取り込み、それをピルビン酸に分解する。ミトコンドリアはこのピルビン酸を受け取って、酸化し、エネルギーを取り出す。これが細胞内エネルギー生産の基本工程であり、ミトコンドリアはまさにその現場だった。

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

よかったらシェアしてね
  • URLをコピーしました!

関連記事