「小さいこと、スローなこと、弱いこと」はいいことだ。「稀少なこと、本来あるものを大切にする考え方」こそ美しい。
ぼくがそう確信できるようになったのは、おそらく2010年に南半球の小さな島国・ニュージーランドに移住して、自給自足ベースの森の生活を送るようになってからだろう。
米国主導の大量生産・大量消費経済が、世界を狂わせてきたこの半世紀。多くの国が影響を受けてきたが、日本はもっともそれに振り回された国だと言っていいだろう。
現在、ぼくは48歳。これまで書いてきたように、高度成長期に日本で育ったぼくは、狂喜乱舞する大人たちの姿にずっと違和感を感じていた。「右肩上がりに成長し続けないといけない」という社会風潮が息苦しかった。
それは、「大きいこと、速いこと、強いこと」が絶対的にいいと盲目的に暴走する日本社会への疑問、コントロール不能となりモンスターと化した、「行きすぎた資本主義経済」への恐怖感とも言えるかもしれない。
自分が高校生まで暮らした大阪郊外の田園エリアでは、自然豊かな里山風景が見る見るうちに均一な住宅街へと変貌。さびれた駅前には次々と、大小さまざまな新品のビルが立ち並ぶようになった。
太平洋戦争で焼け野原となった国土はいつの間にかピカピカとなり、この国は先進国の仲間入りをしていた。
戦中と終戦直後に、国民全員が飢餓に苦しみ、多くの方が餓死した事実を忘れたかのように、世間には大量の食べ物があふれるようになった。多くの日本人が、食べ過ぎで生活習慣病となっている現状は残念というか、愚かと言わざるをえない。
それだけでなく、今や食料の大半を捨てているのだから恐ろしい。過去を忘れてしまっているだけでなく、世界に飢えに苦しむ人たちが8億人以上もいる現実を見ようともしない。そして、哀しいことに、日本が世界トップクラスの食料廃棄国であることはご存じのとおり。
食べ物だけでなく、日本には驚くほど大量のモノが余っている。その種類と量は世界一と言っても過言ではないだろう。
片や、70年前にはこの国にはモノは何もなかったはずだし、今でも、途上国や紛争地域では、必要なモノが足りないことで命を落とす人たちがいるほどなのに。しかも、信じられないくらい、その価格は安くなっている。
偏った形で世界を流通する、それら大量の食料とモノの大半が、異常な手法で生産されている。「経済効率を何よりも(命よりも)優先すべし」という、大企業による非人道的な号令のもと、生産の現場では、地球環境とほかの生物、働く人々を激しく傷つけている。
さらに、それらは、消費者の健康を著しく害しているだけでなく、もう元に戻れないほど自然を破壊し尽くしている。そして、わずか数パーセントの人たちが、その狂った仕組みから莫大な利潤を得ている。
今の豊かな暮らしは、大国と大企業の努力のたまものかもしれない。だが、この美しい星を壊してきたのも、人類の美しい営みを粗末にしてきたのも、大国と大企業である。
今の日本の豊かさと便利さが「過剰」「異常」だと感じるのは、ぼくだけじゃないはずだ。このまま、日本は「大国」への復活を目指し続けるべきなのだろうか。このまま「大企業」に蹂躙され続けるしかないのだろうか。
その昔、世界から尊敬された「もったいない」「足るを知る」「禅と清貧」「自然との共生」をベースとした、小さくて美しかったニッポンへの原点回帰を、今一度、本気で考えてもいいのではないだろうか。