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多様性

連載 | フィロソフィーとしての「いのち」

いのちは、かさなる

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 あなたの「水にまつわるはじめての記憶」はなんだろうか。自分が思い出せる限り、はじめての記憶は、2歳のころの水の記憶だ。病気で入退院を繰り返していたころ、ベッド上で天井のシミを見て日々を過ごしていたころの克明な記憶。空中に浮かぶ楕円形のボトルから、一滴一滴、ポツンポツンと雫が垂れている。空中をユラユラと細長いホースが揺れ動き、一滴一滴の水がホースの空洞を滑り込むようにして体の中へと入り込んでくる。水は自分と合体し、ひとつとなる。一滴の水と自分という全体、水といのちの核とが分かちがたくつながっている。全身で感じていた幼少期の記憶。

 その後、水道の水、トイレの水、お風呂の水、雨、霧、水たまり、池、川、海。あらゆる場面で水と遭遇することになる。ふと、病室で見た水滴と同じものではないかと、少しずつ水のつながりを発見していった。水はつながっているようで離れている。バラバラのようでいて矛盾なくつながり合っている。水は巨大な生命ではないかと感じていた。

 さて、あなたが“空白で純白で白紙”だったころ。「水にまつわるはじめての記憶」は、なんだろうか。水の記憶をさぐることは、あなたの深い無意識に至るためのゲートだ。

 幼少期、こうしてベッドサイドで「いのち」のことを考えていた。むしろ、「いのち」の表現が、水であり、人であり、空間であり、風であり、光だった。いのちが常に主語でありはじまりであり、その姿かたちは万華鏡のように展開されていた。言葉を学習していくと、自然界は名前のカテゴリーの中でていねいに区分けされていき、違和感が残った。子どもの自分にとって、自然界に名前はなく、あえて言えば「いのち」の発露でしかなかった。この世に存在するもの、それは人でも植物でも動物でも、路傍の石でも砂でも、空間に漂う風でも水でも光でも、すべてはいのちだ。いのちは、死という区切りを迎えることで、すべての存在に平等に分配されていく。そうして「いのち」は分配されるように循環する。

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 ただ、「いのち」は受け取ろうと決めた人にしか分与されない。そこには自由意思の余地が残されている。「いのち」を受け取るか拒否するかは、自分が決定権を持ち、あくまでも自由だ。強制されることはない。そうしたことが「いのち」が巡る世界での原理・原則だと子どもの自分は発見した。

 受け取ると決めた人が「いのち」を受け取ればいい。いのちは光のように同じ場所に重なっている。死に行く人を看取ることも同じ。死にゆく人の話をしっかりと聞き、「いのち」を受け取ると決める。そうすれば、みんながいのちの中で重なっている。子どものころ、誰もがそうした体験をしていると思う。表層の意識では忘れているだけだ。言語の習得で得るものもあるが、失うものもある。子どもや赤ちゃんを見ていれば誰もが感じることだ。「いのち」は主体的に受け取ろうと決めない限り受け取れない。いのちは集合的なもの。わたしたちは誰かにいのちを託しながら、いのちは重なっている。

文・絵 稲葉俊郎
いなば・としろう●1979年熊本県生まれ。医師、医学博士、東京大学医学部付属病院循環器内科助教(2014-20年)を経て、2020年4月より軽井沢病院総合診療科医長、信州大学社会基盤研究所特任准教授、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員、東北芸術工科大学客員教授を兼任(「山形ビエンナーレ2020」芸術監督就任)。在宅医療、山岳医療にも従事。未来の医療と社会の創発のため、あらゆる分野との接点を探る対話を積極的に行っている。単著『いのちを呼びさますもの』(2017年、アノニマ・スタジオ)、『いのちは のちの いのちへ』(2020年、同社)、『ころころするからだ』(2018年、春秋社)、『からだとこころの健康学』(2019年、NHK出版)など。www.toshiroinaba.com
記事は雑誌ソトコト2021年9月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。

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