ぼくが高崎の実家に帰ると、母が知人に「半分死んだ子がこんなに大きくなって」と笑顔で紹介するのだ。
1969年11月10日のこと。
群馬県高崎市にある産婦人科には地元の新聞社の記者が待機していた。それは5000グラムを超える群馬県で一番大きい赤ちゃんの誕生の幸せなニュースを伝えるためだ。
ところが、現実はそんな簡単なことではなかった。
「新記録」で生まれるであろう赤ちゃんは、あまりの大きさのため、母親の産道でにっちもさっちもいかなくなっていた。このままだと母子の生命ともにまずい。
産婦人科の先生は母親にこう言った。
「お母さんの健康を取りますか。子どものいのちを取りますか」
母は迷わず子どものいのちを取った。もちろん、いわゆる健常で生まれる可能性は低い。
先生はその生まれてくる子どもの頭ではなく、万事を考え、右腕を力いっぱい引っ張って、産道に引っかかったままのその子どもをこの世界へと引きずり出した。
5050グラム。群馬県で一番大きい赤ちゃんの誕生だった。ただし、右腕に損傷と麻痺が残り、地元の新聞社が望むニュースとはいえず、記者は去り、記事にはならなかった。
その赤ちゃんが、指出一正、ぼくである。
なかなかにいろいろなことがあったが、母の決断と家族の大きな愛で今に至る。生まれてよかったな。
だからこそ思う。どんなに厳しいことに直面しても、生かされることになった人は、生きなくちゃならない。それがかならずいつか、みんなの幸せと笑いに変わるんだ。