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連載 | 標本バカ

北海道のトウキョウトガリネズミ

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僕は動物採集人が大好きで、ホーカーだけが汚名を着せられるのは見ていられない。

 チビトガリネズミは世界最小の哺乳類の一種で、体重は2グラム程度、頭骨の大きさは1センチ程度。この小さい頭骨の後半部が脳の部分だから、脳のサイズは5ミリほどになろう。この“超微小コンピューター”で敵から逃れ、獲物を探し、繁殖して命をつないでいる。日本では北海道に局所的に分布するのみで、これを亜種トウキョウトガリネズミと呼ぶ。1903年に英国人採集家のホーカー(R. MacDonald Hawker)が採集した標本が英国にもたらされ、それを受け取った『大英自然史博物館』のオールドフィールド・トーマスにより「Sorex hawkeri」の学名で新種記載された。記載論文には採集地が「Inukawa, Yedo, Hondo」とある。Yedo(江戸)だから「トウキョウ」というわけだ。しかし前述のとおりこの最小哺乳類は日本では北海道だけに生息するもので、亜種名は「採集者が標本ラベルにYezo(北海道)と書くところをYedoと間違えたことに由来する」という説明がされている。現代人が最も利用していると思われるフリー百科事典「Wikipedia」にさえ同様の説明があるが、さまざまな情報をこのネット事典に依拠することが危険であることは、僕の誕生日が12月14日と誤記されていることからも明らかだ。

 僕は動物採集人が大好きで、ホーカーだけが汚名を着せられるのは見ていられない。タイプ標本の写真を見ると、頭部が入った瓶の蓋には確かに「Yedo」と書かれている。しかしそこには同じ筆跡で「BM」から始まる標本番号とトーマスが与えた学名「Sorex hawkeri」が書かれている。この筆跡はホーカー本人ではなく、彼からの小さなプレゼントを博物館で整理した人のものだろう。つまりホーカーは「正しい採集地を伝えたが、博物館で間違って記録された」可能性もあるのだ。

 このあたりを検証しようと思うのだが、ホーカーという人物、なかなか謎多き人。彼が日本をどのように旅したのかは不明とされる。そこでちょこっと標本から調べてみることにした。大英自然史博物館のデータベースで「hawker」を検索したところ、110点の標本が見つかったが、なんと日本産の標本はトウキョウトガリネズミ1つだけ。そのほかはスーダンやソマリアといったアフリカ北部の国で、彼は1897年から1902年にかけて何度か大規模な調査旅行を行ったことがわかる。1902年の旅行ではその採集品の鳥類解説とともに、短い紀行文が『IBIS』という雑誌に掲載されているが、鉄砲を担いでライオンや大型草食獣、さらにはアフリカゾウと対峙するといった派手な狩猟行だったようだ。そんな中でホーカーは、ちゃんと小哺乳類も採集したしっかり者だ。それらはトーマスに届けられて新種記載されている。

 そんな人物が、その翌年にふらっと日本を訪れて、さらに当時開発が進んでいなかった北海道の奥地まで旅して、虫と見間違えるような小さな哺乳類を1匹だけ捕まえて帰り、そしてその採集地を間違えて伝えたとは、にわかには信じがたし。どうもホーカーが本当に日本に来たことさえ、怪しく思うのだがどうだろう。彼の名誉のためにも何とか明らかにしたいものだ。

文●川田伸一郎
題字・金澤翔子
illustration by Fumihiko Asano
かわだ・しんいちろう●1973年、岡山県生まれ。農学博士。国立科学博物館動物研究部研究員。著書に『モグラ博士のモグラの話』(岩波書店)、『モグラ−見えないものへの探求心−』(東海大学出版会)、『標本バカ』(ブックマン社)など。
記事は雑誌ソトコト2021年9月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。

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