うーうーうー

連載 | こといづ | 109 うーうーうー

2022.06.14

山の家に引っ越ししてもうすぐ8年、毎日楽しく過ごしているけれど、一度、ほかの土地にも住んでみたい、引っ越したらどうなるのだろうと考えることが多くなってきた。谷間に住んでいるので朝日や夕日を味わえないのは、やはり残念だったり、海の近くに住んでみたい憧れがずっと心にあって、無いものねだりなのは分かっているけれど、残りの人生で思いっきり味わってみたいな、久しぶりに新しい土地で新鮮なドキドキを感じてみたいなと思うようになった。

長い冬が終わって、ようやく暖かくなったので、新天地を探すつもりでいくつか旅に出かけてみた。住むつもりで知らない土地を旅すると、いろんな情報が飛び込んできておもしろい。もしここに住んだら、こんな素敵なことがあって、大変なこともあって、あの場所が一番のお気に入りで、ここからの眺めに毎日の疲れが癒される、そんな話をたくさん聞くことができた。車を走らせていると、ここで買いものをするのだろうな、この人と知り合いになるのかなと考え過ぎて、なかなか忙しい。山で暮らしていると、世界が家の周りにしかないように感じる日があるけれど、改めてさまざまな土地でたくさんの人が生活しているのに気づいて圧倒される。

旅から帰ってくると、やっぱり山の家は落ち着くなあ。あたりを見回すと、まだまだやり切れていないことだらけで、あれもこれもまだやれていないな。引っ越すなら、手を出さないほうがいい。時間も労力も無駄になってしまう。でも……。よし、やり切ってみるか。いずれここを離れるかもしれないけれど、この場所で何かできる歓びは、ここでしか生まれない。茂りすぎた木々を間伐したり、逆にずっと木が欲しかった場所に植林をした。根が張るまで毎日水やりをしているうちに、植物のことをもっと知りたくなって観察するようになった。妻も、毎日やってくる鳥たちに興味が湧いて、数冊の野鳥図鑑を見比べながらバードウォチングをするようになった。生きものの名前を知って、生態を学ぶと、前よりももっと世界が濃密になって、彼らが他人ではなくなっていく。同じ場所が気に入って集まったのだから、似たもの同士、大切な仲間だ。使い切れていなかった畑の半分を耕して田んぼに変えてみた。一から田んぼをつくるのははじめてで苦労したけれど、何度も裸足で泥を踏んで歩き回っているうちに、ようやく水が溜まるようになった。家から眺める田んぼに山と空が映って美しい。早速、アメンボやトンボ、カエルがたくさんやってきて、我が家に新しい歌を運んでくれる。気がつけば、引っ越しのことは頭の片隅に追いやられて、今度は自分で小屋を建ててみるか、息子の遊び場をつくるかと、やりたいことが連鎖していく。

どこもかしこも生まれたての黄緑の葉が、ててててと光り輝いて、瑞々しい気配に包まれる。最高に気持ちのいい季節。最後の最後まで冬の装いの枝だけだったケヤキの木から、むくっ、さわわっと新緑が一気に芽吹いて、谷にどっと風が吹くと、生命あふれる夏の予感に包まれた。ちいさな息子が手で円を描くように踊っている。うーうーうー、口をとんがらせて、人生はじめてのうたを歌った。

たかぎ・まさかつ●音楽家/映像作家。1979年京都生まれ。12歳から親しんでいるピアノを用いた音楽、世界を旅しながら撮影した「動く絵画」のような映像、両方を手がける作家。NHK連続テレビ小説『おかえりモネ』のドラマ音楽、『おおかみこどもの雨と雪』『バケモノの子』の映画音楽、CM音楽やエッセイ執筆など幅広く活動している。最新作は、小さな山村にある自宅の窓を開け自然を招き入れたピアノ曲集『マージナリア』、エッセイ集『こといづ』。
www.takagimasakatsu.com

文・高木正勝
絵・Mika Takagi

記事は雑誌ソトコト2022年7月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。