子どものころの自分は、自分自身の「身体感覚の時間」を生きていた。そこに時計やカレンダーやグリニッジ天文台などの時間は必要なかった。時とは何かと考えてみると、自分の身体と宇宙の時間とが尺度になっていると思う。
内的な時間は、呼吸と心臓のリズムで"伸び"たり"縮ん"だりする。「いまここ」という時間感覚も、呼吸と心臓のリズムのあり方から感じられるものだ。呼吸をゆっくりと深くすれば、時は"伸びる"。呼吸を早く浅くすれば、時は"縮む"。言い換えれば、長期的な視点を持つためには、呼吸をゆっくりと深くする必要がある。呼吸が早く浅いと、どうしても短期的な視点になってしまう。それは自分の体で実験してみるとよくわかる。イライラ・ソワソワというオノマトペは、そうした言葉にならない感覚を表現している。
「聴診で相手の心音を聞くとき、何を聞いているのか」と尋ねられることがある。専門的には心雑音の有無を聞いているのだが、大局的には相手の時間を感じ、相手のリズムに耳を澄ませている。
目の前の人が「音楽」だと仮定してみる。その音楽の指揮者は? 楽団は? 楽器は? リズムは? 音響の空間は?……と考えてみるといろいろな発見がある。ロック、クラシック、ジャズ、伝統音楽と音楽にあらゆるジャンルがあるように、目の前のこの人は、なぜいまこの音楽なのだろうかと、その人の調和の音を聞きに行くのだ。いのちがつくる調和の音は、何かしらの必然性がある。異常とされるものでさえも、そこには必然性と原理原則があり、そこを細かく読み取くように耳を澄ます。そうして耳を澄ましていくと、ノイズの存在意義がわかってきて、ノイズにも深い意味があると分かる。その人にとってのノイズとは、情報量が多すぎていまだ意識化できないものであり、まだ適切な光が当たっていないものだ。雅楽や謡曲、三味線や尺八などの音の響きを聞いているときにも、ノイズの中に無限の音響を感じ取った歴史なのだと分かる。実際、自然界の音にも、風の音、水の音、雨の音、人間の音、虫の音、光の音……、多様な音が多重に重なっている。それは、人体という多様な響きの音をどれだけ同時に聞き取れるか、ということと似ている。
呼吸や心臓のリズムを入り口として聞いていると、人体には多様なリズムが内在していると分かる。いのちは全体的で総合的なリズムを形づくっている。
人体の音楽そのものを聞くためには、自分の思考を沈黙させ、内部にある自然界を静寂にさせる必要がある。武満徹さんは、「私はまず音を構築するという観念を捨てたい。私たちの生きている世界には沈黙と無限の音がある。私は自分の手でその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。そして、それは沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない。」(『音、沈黙と測りあえるほどに』新潮社刊)と述べていたことは、私が人体の音を聞くときの大きなヒントになった.
時を感じることは、外的な自然の音を聞き、内的な自分の体の音を聞くことが基礎にあると思う。
毎日、診察室で人間のいのちの音に耳を澄ませている。生きている以上、どんな人の中にも、いのちそのものの調和の音が聞こえてくる。あなたは、毎日そうしたいのちの音を聞いているだろうか。
1979年熊本県生まれ。医師、医学博士、東京大学医学部付属病院循環器内科助教(2014-20年)を経て、2020年4月より軽井沢病院総合診療科医長、信州大学社会基盤研究所特任准教授、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員、東北芸術工科大学客員教授を兼任(「山形ビエンナーレ2020」芸術監督就任)、2022年4月より軽井沢病院院長に就任。在宅医療、山岳医療にも従事。単著『いのちを呼びさますもの』(2017年、アノニマ・スタジオ)、『いのちは のちの いのちへ』(2020年、同社)、『ころころするからだ』(2018年、春秋社)、『からだとこころの健康学』(2019年、NHK出版)など。
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記事は雑誌ソトコト2022年7月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。