昨年7月の西日本豪雨災害で、愛媛県宇和島市で最も大きな被害に遭った吉田町。あれから1年経ち、136年続き、今では地域で唯一となった醤油屋の存在意義を改めて感じて、四代目夫妻が力強く歩み出そうとしています。
畳みかけた歴史を、夫のアイディアが救う。
穏やかな海と柑橘畑が続く急峻な山が日常に溶け込む愛媛県宇和島市。その中心部から約9キロ離れ、江戸時代に陣屋として栄えた歴史の面影が残る吉田町は、昨年7月の西日本豪雨災害時、市内でもとりわけ被害が大きかった場所である。この地区の一角に、国登録有形文化財の凛とした佇まいの建物がある。明治年(1884年)創業の『旭醤油醸造場(』以下、旭醤油)だ。現在、四代目の中川賢治さん、美保さん夫妻がその歴史を背負っている。
三代目の美保さんの父は、実は店を畳む準備を進めていた。「姉二人は県外に嫁ぎ、三女の私も松山市で働いていたので、父から継いでと言われたことはなく……。でも、年前に結婚を機に宇和島に戻り、夫から『続けようか』と言われて後を継ぐことにしました」と美保さん。
お客さんがいるのに辞める必要はないという、賢治さんの判断だった。
かつてはこの地区に3軒の醤油屋があったが、年前にはここだけに。地域の味を司る醤油。今でも注文が入ると、宇和島市内にある飲食店や家庭に一升瓶で届けているという。こうやって地域に根を下ろしながらも、高齢化や洋食化で醤油の消費量が減ってきている今、地域だけで商売を続けていくのは厳しい。そこで、賢治さんの偏食が新たな活路を見出す。「私は嫌いな食べ物を調味料でカバーするタイプで、子どもの頃から例えばマヨネーズにワサビを混ぜて野菜にかけたりしていました。この地域では飲み会が多くて、お酒が進んで食べ物にはなかなか手をつけず、サラダはシナシナになってしまうんです。そこで、かけても流れない調味料があったらいいと思って」と賢治さん。既成概念がなく、仕事にも遊び心を持ちたい賢治さんの発案でユズとスダチのポン酢を固体化させたジュレ、さらに固めた「ふりかけポン酢」を造り、起死回生を狙った。しかし、PRが足りず、売れない期間が数年続いたという。
そんな中、店に届いた、熊本県で開催される「ふりかけグランプリ」の出展依頼のファックスに目が留まった。県外にPRする機会になればと出展し、2年目で見事銅賞を受賞。メディアにも多数取り上げられ、地域の外でも商売をする自信をつけたという。その後、製造を担当する賢治さんのアイディアはとどまることはなく、釣り好きが高じて生まれた魚介の漬けだれや、自分の父親が手がける柑橘類を使ったポン酢を販売。また、元々は委託で製造したパクチー醤油が大ヒット。勢いに乗って大型の冷蔵庫・冷凍庫を備えた新工場を構えた数か月後の7月7日、西日本豪雨が起きたのだった。
さあこれからという時にすべてが水に浸かった。
前々日から雨が降り続くなか、週末のお祭りのために賢治さんと美保さんは自宅に戻らずに店にいた。賢治さんは降り続く雨が心配になり、午前5時ごろに車で急いで柑橘畑へと向かった。しかし、途中で土砂崩れが起きて道がふさがってしまい、別の道を通って戻ろうとしたところ、ただ事でないと気づいたという。「ものすごい形相で走ってくる年配者を見かけて。これは大変なことが起きたと分かり、店に引き返すことにしました」と賢治さん。そして、店に戻ると午前6時ごろにはバケツをひっくり返すような雨音が鳴り響き、足元からゴボゴボと音が。さらに、目の前の道路が水で埋まって蔵にも浸水し、樽が浮いてきた。200メートル先の川が氾濫したのだった。「両親を避難所に連れて行こうとしましたが、足下が全く見えず、水圧で歩くのも大変でした。両親を無事に送り届けて私は蔵に戻ろうとしたところ、わずか分の間に水が腰ほどの高さになっていました」と美保さん。蔵のすぐ隣にある宇和島市吉田支所の向こう側のエリアでは胸の高さまで増水し、普段は感じないほどの道路の微妙な高低差で被害状況が異なったという。
当日の午前時には雨も止み、水が引いた。命は助かったものの商品や機材のほとんど水に浸かって泥を被り、鼻を覆いたくなるような臭いが漂った。生活に必要な物資などはすぐに手元に届いて不自由はなかったが、電気も水道もストップして思うように掃除が進まない状況でも手足を動かす、そんな日々の始まりだった。給水に出かけたところ、近くの和菓子店の店主に言われたことに衝撃を受けたという。「『店の冷蔵庫が浸かったからもう辞めたよ』と言われて。ご主人は代で後継者もいないことから廃業を決意。なんとかしないと、としか考えていなかったので、辞める選択もあるのだと、改めて事の重大さを認識しました」と美保さんは振り返る。
しかし新工場を建てた矢先の出来事。資金の借り入れをしていたこともあり、ここで商売を辞めるわけにもいかなかった。水は引いても、壁のパネルや断熱材が浮き、クロスに水をかけてきれいにしても黒い汚れが浮いてきた。また、水に浸かった書類を干したが乾いてもめくれずに結局捨てたり、クーラーをつけようとしたら室外機が壊れて動かなかったりと、影響は思いも寄らないところまで及んだ。「数か月は化粧もしませんでしたね。落ち着いて、『あれ、化粧道具どこやったっけ?』と思い返したくらい」と美保さん。
先の見えない復旧作業と未来への不安にも負けずに、『旭醤油』を続ける決意をさせてくれたのは、被災直後に市内の寿司店から受けた電話だったという。「辞めるなら醤油を買いだめすると言われて。すぐに届けられる商品もなかったので、その店主はあちこちの店を数軒回ってある分を買い取ったそうです。醤油が変わると店の味が変わる。それほど大事なものなんだと改めて知りました」。さらには、市内の学校給食や病院食にも『旭醤油』の醤油が使われているため、昨年の秋にはほかの醤油蔵を借りて製造を再開。できる限りの量だったが、待っている人たちに届けてきた。
ボランティアや友人の手を借りて復旧作業を進めながら、クラウドファンディングで設備や建物の修繕費160万円を支援してもらったり、かろうじて水に浸からなかったブラッドオレンジジュースをラベルがなくてもいいから売って欲しいと遠方から連絡を受けたりと、自分たちの生活と『旭醤油』を立て直すために目まぐるしい日々を過ごしてきたが、予想以上に時間を要し、災害から1年が経った今年7月にようやく正式に再開できた。しかし、被災前の状況に戻すにはさらに数年を要するという。
「ここまで生活できたことを考えると、いかに余計なものを持っていたかに気づかされ、人のありがたみを本当に感じました。ある意味、水に泣かされ水にきれいにしてもらった。辛い思いをしてこそ、前向きに行こうと思うようになりました」。『旭醤油』の歴史や役割を再認識できて、本当にやるべきことを見つめ直すことができたと二人は言う。未来を向いて前進しようとしている。それを見守ることが、私たちにできる支援なのではないだろうか。
災害に対して、普段から備えていること、心がけていることは?
中川 美保さん 『旭醤油造醸造場』四代目
人とのつながりが一番大切。それ以外なら、まだ復旧半ばで実行には至っていませんが、仕事の書類が水に浸かって捨てることになってしまったので、情報をデータ化すること。パソコンも浸水した時のことを考えて、データをクラウドにアップできたら、さらに安心ですね。