フードユニット『つむぎや』の金子健一さんが、都心を離れて次の舞台に選んだのは長野県松本市。これまで以上に地域と土に近づいた料理研究家の作る料理とは?そして、金子さんが今料理を通じて伝えたいこと、感じてほしいこととは?
優しくて、親しみがあって、楽しいごはん時間。
そのプレート「本日のアルプスごはん」は、まるで機嫌のいい旧友と再会したときのような心地よさを思わせるものだった。「まずは」と箸をつけたのは梅味噌が載せられたひと口大の水ナス。見た目の想像以上にフレッシュな酸味が豊かにふくら み、ナスを生で食べるという体験の新鮮さもあって、舌が目覚めていくような感覚を覚える。きんぴらにした肉厚のピーマンからはジューシーな甘みがじわりと染み出した。一緒に合わせたナッツの食感も楽しく、うまいうまいと思わず何度もうなずいていると、ゴマ油とショウガの香ばしさが鼻から抜けて、ますますうまい。その味わいは力強く迫ってくる感動というよりも、どこまでもやわらかで静かな喜びを感じさせるもの。一口一口味わいながら、金子健一さんにお話を聞いた。「梅味噌は、熟した梅と味噌を交互に重ねて1か月半寝かせたものです。水ナスのみずみずしさをうまく活かせるかなと思って。きんぴらは、ナッツを加えることでちょっとだけ特別な料理になるんですよね。つくり方は……」。
次々に種明かしされる自由で独創的なアイデアを聞いていて、金子さんは料理に対する真面目さとユーモアの両方を持った人なんだろうな、と感じた。
料理に使う調味料も、できるだけ信州のものを。
長野県松本市の駅前大通り沿いに 『Alps gohan(アルプスごはん)』がオープンしたのは今年の月 。料理研究家として、またマツーラユタカさんと共にフードユニット「つむぎや」として都心を中心に腕を振るってきた金子さんの初めての店舗だ。「何年も前からお店はやりたいと思っていました。松本に実家がある妻との結婚を機に、このあたりで物件を探していた時、菊地くんが『ここで飲食店をやらないか』と声をかけてくれて。彼と出会った場所というだけでなく、初心に帰ることができる場所。決めることに迷いはありませんでした」。”菊地くん“というのは、通りの数軒隣に並ぶ書店『栞日』のオーナー・菊地徹さんのこと。現在の『Alps gohan』は『栞日』の旧・店舗だった場であり、菊地さんに誘われて松本ではじめて料理教室を行った思い入れもある空間だ。「そんなところで、へたな料理は出せませんからね」と、金子さんが包丁の手を止めて顔を上げた。
『Alps gohan』が提供するのは、”地域に根差した食の体験“。これまでの仕事を通じて全国各地の食のつくり手たちとのつき合いもあったが、「松本で店を開くなら食材はできるだけ信州のものを」と、野菜や米はもちろん、和食ベースの店の味を方向づける味噌や醤油も松本の醸造所のものをメインに使う。酒粕からつくられた梅酢も上諏訪から取り寄せた。「信州には古くからの発酵文化 があるので発酵調味料が豊富 。塩麹や甘酒も重宝しています。この店が、外から来る人だけでなく、地元の人にも地元のよさを再認識するきっかけになれたらいいですね」。
金子さんは、数年前からお義父さんの畑作業を手伝い、お義母さんとは地域の郷土食である野沢菜漬けを蔵で一緒に漬 けるようになった。たとえば畑で育てている松本の伝統野菜の「松本一本ネギ」は、太く、長く、甘く育つようにと年に2回、一旦掘り返してから改めて斜め向きに植え直すし、野沢菜漬けは味がよく染みるようにと、材料の塩と砂糖と味醂と酢と唐辛子と柿の皮をていねいに重ねて漬け込んでいく。「そうした手間のかけ方に、はじめはびっくりしました。まだまだ知らないことも多いですが、最近 は少しずつ任せてもらえる範囲が増えてきてうれしいです」。
冬が長い信州松本の食の知恵と、ご縁ができた人たちの気持ちに触れ、”地元のよさ“を急速に実感しているのは、誰よりも金子さん自身なのかもしれない。だからこそ「本日のアルプスごはん」は、こんなにもあたたかみがあるのだ。
農家さんと一緒に、食の原体験をつくっていく。
食事は中盤に差し掛かっていた。自家製なめ茸と絡めた白オクラの強い粘りに驚いていると、「すごいでしょ?それは佐々木さんという同世代の農家さんが育てたものなんです」と言う。そんな風にして、金子さんの口からは「これは鹿内さんのニンジンで、ごはんは鈴木さんの合鴨米で」と、ご縁のある農家の名前が次々に出てくる。
レシピは料理からではなく、食材ありきで組み立てることが多い。「あの料理をつくりたいからあの野菜を仕入れよう」ではなく「仕入れた野菜をどうやっておいしく料理しようか」と考えていく。そうしたスタイルを貫けるのは、日ごろからつき合いのある農家たちがつくる食材を信頼しているからでもある。
金子さんが「農業と食と地域に向き合う姿勢に打たれた」と話す『バジルクラブ』の鈴木達也さんの田んぼでは、稲穂が秋の乾いた風に揺れていた。鈴木さんは、雑草の種などを食べる合鴨を水田に放つことで、農薬を使わない米づくりを行う有機農家。近くの小学校で子どもたちに稲作体験を行い、希望する子には、田植えから約半年間をともにした合鴨を締めて、その肉を食べさせる授業にも関わっている。「肉になった合鴨を目の前にすると、やっぱり子どもたちはドキドキしますよね。そして考えます。食のありがたみをね」と鈴木さん。
ふと気になり、金子さんに食の原体験を聞くと、やはり子どもの頃のエピソードを話してくれた。「小学生のとき、たまに母の料理の手伝いをしていたんですけど、褒められるのがうれしくて『もっとやりたい』とせがんだのを憶えています。その頃母がつくってくれた料理は、ぼくの深いところに残っていますね」。
店内は、カウンター席のみとけっして広くはないが、その一部が親子でゆっくり過ごせるようにと、座面が大きくてクッションも使える親子席になっている。この席には、「子どもたちにもたくさん食べに来てほしい」という金子さんの思いが表現されている。
週替わりの「本日のアルプスごはん」は、旬の食材を季節ごとにリレーしてつくられるプレート。この冬には手製の野沢菜漬けもきっとお目見えする。金子さんの料理は、いつしかここで暮らす人と子どもたちの大切な記憶になっていくのだろう。
「アルプスごはん」を一緒につくっています!
2年前、吉祥寺にあった『食堂ヒトト』で開催された「松本と吉祥寺」展。そこで金子さんが料理ディレクションをした縁で出会い、現在も信頼を寄せる農家さんを紹介。
SASAKI SEEDS
佐々木俊成さん・貴美子さん夫妻
固定種、在来種の野菜に出合い、その魅力を余すところなく伝えるために無肥料無農薬で農業を営む。今ではあまり一般的でなくなってしまった、種の自家採取を毎年行っている。「この土地で育った同じ品種の種を採り続けることで、環境に馴染んで病気もしなくなり、味もよくなっていく。大変なこともありますが、やっぱり楽しいです」。
バジルクラブ
鈴木達也さん
合鴨農法での米づくりをはじめ環境に配慮した有機栽培で米や野菜をつくり、冬には酒蔵で杜氏となる鈴木さん。地域のボランティアの方々と行っている、小学校での田んぼの授業は今年で8年目を迎え、給食を残す子も減ったそう。「金子さんとの初対面は『畑を見に行かせてほしい』と声を掛けられたマルシェ。現場を大事にする料理人ですね」。
ふぁーむしかない
鹿内治樹さん・真美さん夫妻
カナダに行った際に農業の魅力を知った治樹さんが、帰国後に研修を経て就農。まだ30代半ばながらもすでに農家歴10年を数える。無農薬無科学肥料で多品目の野菜を、主に個人宅配で届けるなかで、地域の料理人らの要望を受け、新しい野菜の栽培に挑戦することも。『Alps gohan』でもこの夏、鹿内さんのトウモロコシを使った味噌汁が大好評だったそう。
『Alps gohan』オーナー・金子健一さんのおいしいごはん三か条
一、地元の食材や道具を使う。
野菜も米も木べらもご縁のある地元の人たちのつくったもの。店は、彼らとお客さんをつなげる場でもある。
二、型にはめない。
食感や出来上がりの色から考えたり、できるだけ自由な発想をすることで今までにない料理ができる。
三、小さい子どもに食べてもらう。
「子どもが夢中で食べている姿を見るのがすごく好き」。その喜びが、次へのモチベーションになる。
山ごはん、海ごはんをおいしくするキーワード
“発酵調味料”
和食をベースとしているので、味噌や醤油はとても大事。地元でつくられた調味料を使ううえでも、醸造所や酒蔵の多い信州は、適した場所です。