宮崎県はお茶(荒茶)の生産量全国第4位。中部の児湯郡新富町にある『茶心』は、町の特産品であるお茶を味わいながら、ゆっくり自分に向き合ってもらう時間を提供する、一棟貸しの宿。千利休の“和敬静寂”の精神が感じられる場所です。
地元の名士の邸宅を、1組限定の贅沢な宿に。
「利休茶」と呼ばれる、緑がかった茶色の柔らかな色合いの暖簾を潜って建物の中に入ると、お茶の香りがふわりと漂ってきた。さわやかさと優しさを併せ持つ香りに、ここまでの旅の疲れが癒やされるように感じる。
「宿の中には6つ、茶香炉を置いています。どこにいてもお茶の香りに包まれてもらえるように」
そう語るのは、この『茶心』のプロデューサーであり、宮崎県児湯郡新富町にある地域商社『こゆ財団』と連携する高橋慶彦さん。『茶心』は、新富町の中心部からは離れた、広々とした茶畑に囲まれたロケーションの中にある。オープンは2019年5月。一棟貸し切り型の民泊施設であり、宿泊客は23畳の「瞑想ルーム」などを、ほかの宿泊客の視線を気にすることなく利用できる。
高橋さんは秋田県出身。しばらく宮城県仙台市で働いていたが、「地域を盛り上げる仕事をしたい」とずっと考えていた。そんなとき『こゆ財団』からオファーを受け、さっそく関わることに。
しばらくして、高橋さんは『茶心』のプロデュースを任されることになった。宿泊業は初めての体験。だが、『こゆ財団』に根づく「チャレンジ精神を大事にし、つまずいても助け合う」というカルチャーを知っていたからこそ、たじろぐことはなかった。
「もともと新富町には『空き家再生』という課題があり、『新富町のよさ』と掛け合わせた解決策を考えたときに、民泊事業を思いつきました。あまり知られていませんが、宮崎県は日照時間が長く、お茶(荒茶)の生産量が日本第4位(総務省統計による)なんです。新富町でもお茶の栽培は盛んで、全国茶品評会で農林水産大臣賞を3年連続で受賞し、『ANA』の国際線のファーストクラスでもお茶が提供された『新緑園』など、有名な茶園が点在しています。これらの強みから、自然に『お茶』がコンセプトになりました」
民泊の建物を貸し出してくれたのは、地元の名士として長年地域の人々に親しまれてきた方のご子息。名士らしい立派な家で、面積は何と380平方メートル。貸し出しているのはその半分の190平方メートルだが、それでも十分な広さだ。しばらく空き家だったが、その年数が短かったこともあり、リノベーションの際は活かせる部分はそのまま活かした。町の住民たちも、名士の家が新しく生まれ変わるのを喜び、宿開きのイベントの際は大勢の人が訪れてくれた。
『茶心』という名前は、「お茶の心を体験できる宿にしよう」という思いから生まれた。また、それを端的に表すものとして、千利休が提唱した”和敬静寂“という言葉を掲げた。
「利休の言葉を使っていますが、茶道そのものが体験できるわけではないんです。茶道の心の部分に触れられるような場所にしたい。僕が考える”和敬静寂“とは……」と、高橋さんは自身の考える”和敬静寂“について詳しく語ってくれた。
心を整えて、自分を
見つめ直す時間を。
「瞑想や考え事に適した23畳の部屋や、広い庭園が見渡せる暖かな縁側で、本当においしいお茶をゆっくり味わうことを通し、自分を見つめたり、心を整えたりしてもらうこと。自分のことがわかり、気持ちが整えば『和敬』、つまり周りの人をどうしたら大切にできるのか、ということも想像できるのではないでしょうか。そういう思考を深められる空間づくりを目指しました」
そのために、建物の中は徹底してシンプルにすることにこだわった。「余計なものがあると、どうしても雑念が湧いてしまうでしょう。テレビはもちろんありません。本当はエアコンも取り外したいぐらいです」と笑う。
また、集中力を高めたり、マインドフルネス(評価をせず、何事にもとらわれない状態で、今という瞬間に意識を向けること)を実感できるよう、「何もない空間」にいかに濃密で良質な静寂を生み出せるかも試行錯誤した。
「23畳の瞑想ルームは、調度品こそ何も置いていませんが、信頼できる設計士さんにお願いして、畳の目や縁、障子の格子の間隔など、細かく調整してもらいました」
その結果、時間と空間が圧縮されたようでありながら、狭さやつらさは感じず、「心が回復していく感覚」を得られる場所が出来上がった。
今年4月、『茶心』は新たなフェイズに入った。これまでプロデュースや管理を行ってきた高橋さんが運営から離れ、運営母体が『こゆ財団』になった。今後『茶心』の舵を取るのは、『こゆ財団』に所属する鈴木伸吾さんと岡田真由美さんだ。
二人は、これまでにも準備してきた宿泊者向けの体験コースをさらに充実させていきたいという。「今、一番力を入れたいのは乗馬体験ですね。車で20分ほど走ったところにある富田浜には、5キロもの一直線の海岸があります。そこを馬で進む気持ちよさを味わってほしい。すぐ近くの入江では、レガッタと呼ばれるボートなどのマリンスポーツも体験できます。海岸では、夏にはアカウミガメの産卵観察も可能です」と、鈴木さんは言う。
ほかにもお茶摘み、ゴルフ、そば打ち、近くの古墳群を歩く「古墳ウォーク」など、地域の資源をフル活用した体験コースを20以上用意。地元の人の協力がないとできないことも多く、体験してもらうことで、”人のよさ“も伝えていければと思っている。
さらに、『茶心』のオープンは新富町全域にも影響を与えた。民泊に興味を持ち、自分でも始めてみたいという人が現れたのだ。現時点でオープンしているのは一人だが、ほかにも何人かが検討中だそうだ。
「僕たちがノウハウを伝えれば、この町全体が空き家を活用して、それぞれの経験や知識を活かしながら町を盛り上げることができる。関係人口の創出や、移住促進につながる未来もあるでしょう」と高橋さんは期待する。
『茶心』でマインドフルネス体験をして心を整えるのもよし、好奇心に響く民泊で新富町のよさを味わうもよし。新富町に宿が増え、「宿選び」に悩む日が来るのが待ち遠しい。