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連載 | 「自分らしく生きる」を選ぶローカルプレイヤーの働き方とは

“食のリレー”のアンカーとしてすべきこと。 心震える食体験で、生産者と消費者をつなぐ。

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心震える食体験で生産者と消費者をつなぐFOOD GROOVE JAPANの代表を務める鈴木さん。活動を始めた背景には、地方創生に携わりながら料理人をする中で感じた、ある想いがありました。鈴木さんが考える、食と料理人のあるべき姿とは?お話を伺いました。

鈴木 基次
すずき もとつぐ|合同会社FOOD GROOVE JAPAN代表社員
1976年生まれ。エコールキュリネール辻日本料理専門カレッジ卒業後、1995年よりホテルオークラ東京の関西割烹山里で5年間修行をする。2002年から株式会社インテリジェントプランナーにて飲食店の料理長などをつとめ、2010年から株式会社ジェイ・ダヴリュウ・エーへ。現在は取締役社長を務める。2020年、合同会社FOOD GROOVE JAPANを立ち上げ、代表社員。
目次

サッカーから料理へ

茨城県で育ちました。小学生でサッカーを始め、サッカー三昧の毎日でしたね。その甲斐あってか、選抜にも選ばれる選手になりました。しかし、中学生になると、激しい運動をした翌日にひどい嘔吐に悩まされるようになったのです。

試合の翌日は一日中嘔吐することもあるほどで、かなり辛かったです。でも何が原因かわかりません。検査をすると、肝臓の数値がとんでもないことになっているとわかりました。このままでは死ぬとまで言われ、入院することに。何度も入院して原因を探しましたが、高校生になってもはっきりとわかりません。

サッカーは楽しくて、背番号10をもらってプレーしていました。でも、炎天下のなかで試合をすると翌日に苦しむのがわかっているので、プレー中に「また入院するのか」「吐き続けるのは嫌だな」という考えが頭をよぎるんです。続けるのは難しいと感じるようになりました。結局、高校の途中で「サッカーをやめなさい」とドクターストップがかかってしまいました。スポーツさえしなければ普通に生活できたのです。サッカーをやめることになりました。

これまでサッカーばかりやってきたので、やることがなくて。働いている女の子たちが可愛かったという理由で、トンカツ屋さんでバイトを始めました。洗い物がメインで、ブラックタイガーの皮むきや卵とじくらいしか料理らしいことはできませんでしたが、食材に触るのは楽しかったですね。ここでの体験から「料理人になる」と決めて、専門学校に進むことにしました。

入ってみると、思っていた以上に真面目に勉強する人ばかりでびっくりしましたね(笑)。でも、これまで会ったことのないようなタイプの人たちに出会えて仲間ができました。

卒業後は多くの人が飲食店に就職します。ただ私は、労働時間が長く休みがないのはいやだなと思いました。そんな中で、週休2日のホテルの求人が目に入ったのです。不純な動機でしたが、50人ほどの中から合格することができ、和食の世界に足を踏み入れることになりました。

職場は、かなり厳しかったです。入って2日でやめたいと思いましたね。仕事といえば洗い物ばかりだし、よくてぬか漬けをつけるくらい。少しでも手を抜くと過激に怒られました。それでも料理には興味があって、辛いながらも続けました。

割烹では、2週間ごとにコース料理が変わります。私は自分で勉強して、料理長が料理をどの器に盛るか、予想していました。4年ほどたったある日、その予想が全て当たったんです。「俺だったらこれかな」と選んだ器が、料理長と全く同じだったんですよね。小さくガッツポーズしました。学んできたことは無駄じゃなかったんだ、と思えました。

だんだんと料理を任せてもらえることも増え、自分で魚を注文したり、市場に買い付けに行ったりと、自分で料理を考えるように。料理を作る楽しさがわかってきました。

一人じゃなくみんなとやる

5年目を迎え、26になったころ、知人に「店をやらないか」と誘われ転職しました。営業出身者が作った会社で、居酒屋の料理長を任せてもらえることになったのです。

入ってみて、何も通用しないことに愕然としました。メールを書くと「国語の辞書を買ってもう一度書き直して送ってください」と言われ、「料理長だからって偉そうにするんじゃない」と人に対する言葉遣いを指摘されました。

料理はうまいと言われましたが、それ以外のことが何もできなかったんです。「調理することが料理長じゃない、調理をするだけなら誰でもできる」と言われ、コース料理を作るだけでもいっぱいいっぱいなのに、苦しかったですね。店にお客さんがいない時には、「今から5組キャッチしてこい」と言われることもありました。

悔しくてかなり力を入れて営業しました。おかげで営業力がついて、1年で1000組くらい捕まえましたね。ホールサイドと調理場とも連携できて、メンバーが「鈴木がお客様をお連れしたから、ここは絶対に守るぞ」とお客様を大事にもてなしてくれる体制ができました。

辛くても、言われてることは間違ってなかったんですよね。お客様が帰る時の見送りを徹底するよう怒られた時は、「時間と労力を使ってお連れして、人の力を借りて喜んでもらったお客様がお帰りになるのに、お前が顔を出さないのはだめだ」と言われ、お客様に対する礼儀を学びました。トイレに少しの埃があると「この埃でお客様を1組失うかもしれない」と怒られ、隅々まで気を配ることの大切さを知りました。一度究極を知ることでそれがあたり前になり、ちょっとしたことに気がつけるようになるんです。

それから、すぐに反論したくなる人間性を指摘され、まず「10分ください」と言うよう教えられましたね。ロジックがないのに言い返すと潰されるけれど、10分あればお前なら誰も考えられないことを考えられるはずだ、と。その言葉通り、時間を10分もらうようにすると、自分発信で提案できるようになり、様々なことがうまくいくようになりました。

やり抜いた結果、1年で池袋でナンバーワンの店舗に。予約が取れない店になり、30席しかないのに950万円を売り上げました。それが自信になりましたね。

毎日休まず働き、そのストレスを解消するため毎晩遊んでいました。しかしそれがたたったのか、ある日鬱になり会社を休むことになりました。

一人家に引きこもっていました。すると、スタッフが入れ替わり立ち代わり、毎晩遊びに来るんです。ただゲームをやったり、くだらない話をしたり。本当に何をするわけでもないのですが、なんでうちに来るかといったら、助けようとしてくれているんだと感じました。「俺はみんなに、こんなに助けてもらっているんだ」と実感したんです。

立場が立場なので、「なんとか自分でやらないといけない」と思っていました。でも、そんなのは無理で、仕事はみんなでするものだったんです。それに気づいて、構えなくていいんだと気持ちがスッとしました。

1カ月後、仕事に復帰。それからは全部自分でやるのではなく、人に「助けて」とお願いできるようになりました。そのスタイルの方が自分に合っていると気がつけたんです。

食のリレーのアンカーが料理人

その後、家族が突然事故に遭って体調が悪くなり、看病するために会社をやめる決断をしました。家にいる時間を増やしてできる仕事を探し、荻窪の飲食店の立ち上げを手伝うことに。うまくいってグルメサイトで1位を獲得するような店にすることができ、面白かったですね。

その頃、知人の紹介で良い出会いがあり結婚。ちゃんと休みを取れる仕事をしようと探して、新橋を中心に十数店の飲食店を経営する株式会社ジェイ・ダヴリュウ・エーに転職しました。店舗の運営が軌道にのると、会社として生産者に貢献していこうという理念を掲げ、2016年から地方創生プロジェクトに取り組み始めました。

自治体と連携を始めると、県内のさまざまな生産者を紹介してもらえるようになったのです。いろいろな生産者の方に会いに行き、時には一泊して食事をしながら今の悩みや今後やりたいことなど、さまざまな話を伺いました。その一つ一つが強烈だったんです。

例えば、香川県の小豆島の、老舗の醤油の蔵元。木桶を使った昔ながらの醤油づくりを今も続けていました。4年熟成させ時間も手間もかけながら作っているという話を聞いて、「4年もかかるんですね、すごいですね」と言いました。すると「でも鈴木さん、お刺身を食べて残った醤油はどうしています?」と聞かれたんです。

「ごめんなさい」と思わず謝ってしまいました。「そう、僕たちの作っているお醤油の何割かは、実は流されてしまっているんです」と聞いて、大きな衝撃を受けました。

他にも、農薬をなるべく使いたくないと、誰もいない山奥にポツンと家族③人で住んで、山椒を作っている農家さん。塩の粒の大きさを指だけで判断でき、塩の精と会話しながら塩づくりしている塩の職人。栄養剤やホルモン剤で乳牛に乳を出させる従来の酪農のやり方を変えるため、乳酸菌を入れて発酵させた甘い牧草を無農薬で作って牛に食べさせ、牛乳を作っている酪農家の方。

話し出したらキリがないくらい、日本中で素敵な生産者に出会い、こだわりや信念が詰まった話をたくさん聞きました。日本には、そんな風に想いを持ってものづくりをされている方がたくさんいる。こんなに感動する物語がある。これをしっかり伝えなくてはと思うようになりました。

これまで僕は、料理人の仕事はお客様においしい料理をお届けすることだと思っていました。でもそうではなく、地球上で育ったものが消費者の元に届き口に入るまでの、長いリレーのアンカーが料理人なんですよね。生産者や加工業者、さまざまな人たちの思いを全部承ってお客様に届けるという、最後の一番重い任務を任されているんです。それに気づいてから、食の情報をもっと伝えていこうと考えるようになりました。

食の課題は情報の分断

産地のことを伝えようと、各県と一緒に食のイベントを開いたり、その土地の文化や伝統を食育と掛け合わせて伝えたりと、さまざまな取り組みをしました。しかし、関わっても短期で終わってしまい、集客も大変。自分たちだけで販路拡大のお手伝いをするには限界があると感じました。

店舗でも、料理を出す時にお客さんに食材や産地の説明をするのですが、返ってくるのは「鈴木さんってなんでも知ってるよね」という言葉。伝えたいのは食材や産地のことなのに、うまく伝わらないんですよね。「鈴木さんが面白い料理を出してくれる」というのを店に来る目的にしていただけるのは嬉しいのですが、それでは生産者には何も還元できないと感じました。

一方で、周囲からは「地方創生の取り組み、すごいね」と声をかけていただけることが増えてきて。ちやほやされながらも、食のリレーのアンカーとしての務めを果たせていない自分自身に納得できず、心のバランスが崩れてきました。

生産者の情報が消費者まで行き着いていない状況に、大きな課題感がありました。コロナ禍で日本中の生産者が打撃を受けて、地鶏の生産者が廃業の危機に陥っているときに、ツイッターのトレンドではコンビニのチキンが1位に入っているんです。コンビニのチキンを否定はしませんし大切だと思いますが、地鶏の生産者の状況を知っていれば、助けたい、地鶏を買おうと思う人もいるはずなんです。

生産者から消費者に到るまでに分断されている、食の情報を集めて発信する。消費者がしっかり情報を得て、自分で食を選択できるプラットフォームを作ろうと思いました。

ただ、食の情報を集めて一方的に教えても、人は集まりません。知るだけではなく、消費者が体験し、遊びながら学んでいくモデルにしようと考えました。食を愛する仲間たちとともに学び、食の感動を共有する。想いに共感してくれる方々とともに、合同会社FOOD GROOVE JAPANを立ち上げたのです。

心震える食体験を

今は、株式会社ジェイ・ダヴリュウ・エーで社長を務めるほか、合同会社FOOD GROOVE JAPANの代表社員を務めています。

ジェイ・ダヴリュウ・エーでは、現場に入って社員と一緒に物事を作っていっています。料理人であり、サービスマンであり、売り上げを向上させるための戦略を立てるビジネスパーソンでもありますね。

FOOD GROOVE JAPANでは、生産者、飲食関係者、消費者が横一線になって、みんなで食を学び、感動を共有する取り組みを進めています。具体的には、生産者の方と出会える食体験イベントの開催や、生産者と消費者が一緒に商品やサービスを開発する共同プロジェクトの実施。他にも、業務用の食材を希望者で共同購入して頒布会をしたり、熟練農家さんから実際に野菜づくりを教われる農業体験、産地ツアーを企画したり、大人の食育講座を主催したりしています。一緒に食体験を共有する仲間を募集中ですね。

食といっても幅広いので、それぞれ関心のある分野に関われる部会制をとっています。畑部会、釣り部会、ワイン部会、ジビエ部会、県ごとの部会など、続々と部会が立ち上がっています。興味のある方がリーダーとなって、みんな同じ目線で食について楽しみながら学んでいくのが特徴です。

自分だけで食の情報を広めていこうと思ってもなかなか進めません。でも、各地の生産者や料理人たちが同じ苦しみを抱えているのなら、お互い協力し合いながら、みんなで楽しめる場を作って行けば良いと思うんです。

みんなでつながり、本当に伝えたいことを伝えあっていけば、それが心震える体験になります。心震える体験を増やし、消費者と生産者とを繋げて、日本の食文化を改革していきたいです。

この連載記事は、自分らしく生きたい人へ向けた人生経験のシェアリングサービス「another life.」からのコンテンツ提供でお届けしています。※このインタビューはanother life.にて、2021年12月23日に公開されたものです。
インタビュー・ライティング:粟村 千愛

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