【全国中小企業団体中央会提供】山口県の菓子店・つねまつ菓子舗で店番や経理を務める恒松さん。嫁入りをきっかけに、地元に根付く菓子店を盛り立て、市議会議員として店だけでなく地域そのものをより良くしようと活動しています。周囲の人の困りごとを解決しようと奮闘する、そのパワーの源とは?お話を伺いました。
つねまつ けいこ|有限会社つねまつ菓子舗取締役
山口県の有限会社つねまつ菓子舗取締役、山口県菓子工業組合専務理事、山口県山陽小野田市市議会議員。中小企業組合士。岡山県倉敷市生まれ、9歳で山口県宇部市に引っ越す。有限会社つねまつ菓子舗の息子に嫁入りし、以来家業を盛り上げる。店だけでなく組合の専務理事や市議会議員の活動を通し、地域に貢献し関わる人の悩みを軽くすることを目指している。
貧困の中にも明るさを
そんな父でしたが、よく遊んでくれる人で、一緒にテレビゲームをするなど友達みたいな感じで、私は父が大好きでした。父は私に「お前はブサイクやけん、愛想良くしとけ」と言い、私がニコニコしているとよく可愛がってくれました。だから自然と「愛想よくしないと」と思うように。また、不機嫌な人を見ると気を遣ってしまうので、自分は相手に気を遣わせないように、ニコニコしていようと思っていました。
周囲の子たちがバレエやピアノを習っている話を聞いて、「あんなのやりたいな」と思うことはありました。でも、うちには車すらない状態。できないことはわかっていました。漠然と、将来は教師や歌手になりたいと思っていましたが、それもお金がないと難しいだろうな、と。やりたいことはあっても、できないことはある。それを知って、できないことは早々に諦めていましたね。できないことを嘆くよりも、与えられた環境で精一杯やることの方が大事だと考えていました。
9歳のころ、生活はかなり厳しくなり、両親は別れることに。私たちは母と一緒に、山口県宇部市に引っ越しました。父と別れて電車に乗り込むときは、涙が出そうになりました。でも、別れたとはいえ数カ月に一度は父に会えたので、寂しいけれどこんなものか、と状況に慣れていきました。
転校先の小学校にもすんなり溶け込み、すぐに馴染みました。学校では空気を読み、相手の嫌なことをしないようにしていたので、怒られることは全くなく。先生にも可愛がってもらいましたね。懇談会に行った母が、先生から「どうやったらあんなお嬢さんができるんですか?」と褒められたと話してくれました。学校で覚えたことを話して母が喜んでくれるのが嬉しかったです。
人は鏡
家計が厳しい状況は変わらなかったので、将来は就職しか考えていませんでした。推薦で商業高校に進学し、簿記やワープロを学びました。特に成績が良い訳でもありませんでしたが、知らないことを学ぶのは楽しかったですね。ワープロだったら単純に打つのが楽しいし、印刷するとこんな字が大きくなるんだ、といろいろな発見があって。なんでも楽しみに変えていました。
高校在学中に、両親は復縁。一家で山口で暮らせるようになりました。卒業後は、高校から紹介された東京本社の企業の工場に、事務職として就職しました。成績の良い順に求人票をみて選ぶのが普通だったので、勧められた所に入った形です。
就職してみたら、すごく良い環境でしたね。ノルマがあるわけでもないし、周りのみんなが良くしてくれて。よく声をかけてくれたし、困ったら相談に乗ってくれるし、お菓子があったらこっそり分けてくれました(笑)。
自分が「嫌やな」と感じるときは、相手もきっと「嫌や」と感じている。自分が苦手だと思う人は、相手も私を苦手と思っているかもしれない。相手は鏡なんです。だから、苦手意識を持たずに自分から歩み寄るようにしていましたね。
仕事の方は、コツコツ型ではないものの、成長実感もあって。経理では税務調査が入る際、労務では工場長の退職手続きをする際など、大きな仕事があるたびに自分の仕事がクリアになり、身に付く感覚がありました。
両親の死と嫁入り
いつものように仕事をしていたある日、母から職場に電話がありました。「危ないからすぐ病院においで」。そう言われて、急なことで混乱しました。父の具合が良くないのはわかっていましたが、すぐに命に関わるとは思っていなかったんです。上司が病院まで送ってくれました。病室につくと、父はすでに呼吸の弱い状態で。そのまま亡くなってしまいました。
悲しむからと、母は私に病状を伏せていたようです。いつも悲しくて、他のことをしていてもじわっと涙が出る。そんな日々が続きました。3年ほど経ったころ、ようやく少しずつ気持ちが癒えてくるのを感じました。人間、3年も経つと元気になるようにできているんだなと感じましたね。
23になった夏のある朝、目が覚めると隣室から変ないびきが聞こえてきました。母の部屋です。「え?何これ?」と思って妹を起こして。見に行ってみると、母の様子が変なんです。妹が慌てて救急車を呼ぶ中、私は動くことができませんでした。
母は病院に運ばれ、数日後に息を引き取りました。49歳、くも膜下出血でした。前の晩まで普通に寝ていたのに、信じられませんでした。父の時と同じで、きっと3年も経てば元気になる。そう自分に言い聞かせて、なんとか悲しさを堪えていました。
両親ともに亡くなってしまい、どうすればいいかわからない中、会社の人が助けてくれて、葬儀を無事終えることができました。自分では「大変だ」という認識はありませんでしたが、みんなが私や妹の状況に「大変大変」と言って、いろいろよくしてくれましたね。
数週間後、工場の総務部長から会社の応接室に呼び出されました。「付き合っている人はおるんか?」と聞かれ、いませんと答えると、「一人じゃ生きられんから、結婚相手を探してこよう」と。そのうち本当に「ええのがおったぞ」と菓子屋の後継を紹介されました。その上司がお菓子を買いに行った時、菓子屋のご両親から「うちの息子をどうか」と言われたというのです。
工場にはたまに、綺麗な格好をした自営業の奥さんがいらしていて、私は「優雅やなあ、ええなあ」と思っていました。そんな自営業の奥さんに対する憧れや、会ってダメなら断ればいい、という思いもあって、お見合いを受けてみることにしたんです。
会ってみたら、結構気が合うなと思いました。そして、何より顔が好み。彼は後継ぎでしたが、「両親に気を遣わんでええ」とも言ってくれて。彼との結婚を決めました。
肩書きが自信に
徐々に、義父に付いて行って県の菓子屋などが所属する、山口県菓子工業組合にも顔を出すようになりました。しばらく通っているうちに、組合の中で女性を増やしたいという意向もあって、理事を任せられるようになったんです。肩書きができたことで、認められた感じがしました。
それを筆頭に、店のある山陽小野田市の駅前の商店街の組合や、工場のある工業団地の組合の事務も受け持つようになってきて。組合という制度や必要なノウハウについて、本格的に勉強する必要性を感じました。そんな時、中小企業組合士という資格制度があることを知り、取得を目指して勉強することにしました。市内では取得している人のいない資格です。落ちたら恥ずかしいなという気持ちもあったのですが、何年かかってもいいから受けるだけ受けてごらん、と周囲の励ましを受けて、資格試験を受けました。
勉強の甲斐あって、結果は合格。形のない知識が、組合士資格によって目に見えるものになったおかげで、自分に自信がつきました。
その後、工場の隣に新しい店を構えることになり、店舗責任者に就任。夫と二人でやる店で、店舗周りは全部1人で見なければなりません。大変でしたが、知恵を絞ればなんでもできると思って、とにかくやってみましたね。話題になることをしようと、県内で初めてオーブンが見えるつくりの店舗にするなど工夫もしました。若い夫婦が始める店ということで地域でも応援していただき、忙しいながらも経営は軌道に乗って行きました。
小さくても変化は起きる
根底には子どもの頃の貧困の体験があるので、貧困の連鎖を断ち切りたいという気持ちは心の中にありました。また、幼稚園や小学校でPTAを務めた経験から、子育て中のお母さんを元気にしたいという思いもあって。さらに、商店街の組合で活動したり、地元での店舗の経営をしたりしていると、地域をより良くしたいという気持ちも湧いてくるんですね。自分の経験を生かして、できることがあるんじゃないかと感じました。別の市で市議会議員をしている県菓子工業組合の理事長に、「あんたならできるよ」と言っていただけたことも大きかったです。
市議会の議員なんて、子どもの頃見たいと思っても見ることのできなかった世界。チャンスをいただけるならと、出馬を決めました。
応援していただき、無事当選。仕事柄、おばあちゃん達や若い奥様との雑談は得意です。特に女性の方々の意見を聞いて、市政に活かせるよう届けるようになりました。
活動する中で、「駅周辺の自転車置き場が乱雑だ」と言い続けていたら予算が通ったり、道路の危険箇所を指摘したら、道路に注意喚起の記号が入ったり。小さくても変化を起こせると実感しましたね。
大きくはないかもしれないけれど、議員としての立場から自分の言ったことが形になる。そのことに、これまで以上の責任を感じるようになりました。
少しでも、悩み事を減らせる存在に
それぞれの活動を通して実現したいのは、目の前の人の悩みごとを少しでも軽くすることです。貧困、子育て、介護、過疎化や経済の衰退など、悩みはさまざま。自分の経験を生かしながら、それぞれにあった解決法を見つけていきたいです。特に、女性は年齢によって気づきや悩みが変わるので、寄り添っていきたいですね。
例えば、菓子舗や組合で聞いたお悩みを市議会で伝える。菓子舗で作るお菓子を、市の認知拡大や活性化に繋げる。活動を繋げることで、できることが広がると感じています。
加えて、自分自身の生き方を通しても、人の悩みを軽くできればと考えています。20代で突然訪れた両親の死のように、人生、辛いことは次から次へとやってきます。普段は蓋をしていても、その悲しみは癒えることはありません。泣かずに話せるようになるまでは時間がかかるかもしれない。でも、それでも前向きに生きている人もいるんだよと伝えたいんです。これからも、辛い経験を力に変えて、前向きに進んでいきたいです。
※この記事は、全国中小企業団体中央会の提供でお送りしました。