浮世絵に用いられる木版画という表現で、20年以上にわたり創作活動を続けている風間サチコさん。彼女が扱うモチーフの多くは、『戦争』や『列島改造』に『原発』といった、権力で社会を支配する体制側の決断によってもたらされる、大事だ。
その風間さんが、2018年に東京都とトーキョーアーツアンドスペースによって創設された、現代美術の賞『Tokyo Contemporary Art Award』の第1回を受賞した。この賞は、受賞者に対して一次的にスポットライトを当てるのではなく、海外における活動支援や東京都現代美術館での展覧会開催という機会を含めて、2年間にわたる支援を約束するものだ。風間さんは、版画という伝統手法へのこだわりと、綿密なリサーチに基づいた個人の継続的な批評性が評価された。
風間さんの作品は一見、体制側を風刺しているように見えるのだが、今回、いわゆる体制側から評価を受けたことになる。その違和感については、「権力を持った体制、つまり『公』に対して、私自身の『私』は対立軸を持っていないんですよ。ちなみに無政府主義者という発想も持っていません」と話す。実際に、『公』から風間さんへの評価は今に始まったことではなく、以前より、東京都現代美術館はもちろん文化庁にも作品が収蔵されており、体制側から認められているアーティストであることがわかる。
政治的な意図はないのだとすると、体制を風刺しているわけでもないのだろうか。すると、「作品づくりの発端は、世の中の理不尽に対する個人的な憤りなんですけど」としたうえで、完成した作品に明確なメッセージはないのだと言った。「今の時代だからこれを伝えなきゃいけないっていう、具体的な目的意識もありません。むしろ具体的な目的意識を持つことで、芸術が目的に乗っ取られてしまうほうが怖いから。個人的な興味や関心が一番大事なんです」。
戦争というのは本当にグロテスクなものだと受け取ってもらってもいいし、別にそうでなくてもいいということなのだろう。すると、そうですと言うかのように頷きながら、こうも続けた。「単純にかっこいい絵だと思ってもらってもいいし、綺麗だと言ってもらってもうれしい。私の作品を1秒でも長く見てもらえたら、それがうれしい」。
メッセージはなく、受け手が自由に解釈してくれたらいい。そもそも芸術とはそういうものだと言えばそれまでだが、鑑賞者の立場からすると、作品を観るうえでの拠りどころがないということでもある。でも、風間さんの作品を目にすると必ず心に残ることがある。それは、「!(そういうことか!)」や「?(このざわつく気持ちは何だろう?)」といった感覚だ。
18年に制作された『ディスリンピック2680』。これは、優生思想で統制された近未来都市ディスリンピアにおける、20年に開催される架空のオリンピック開会式を描いたものだ。白黒で表現された、242・4センチメートル×640・5センチメートルの巨大な木版画には、多数の物語が彫り込まれている。例えば、戦前から使われる序列を表す記号「甲乙丙丁戊」の内、最上級を表す「甲」という文字を掲げ、スコップを携えた青年たちの入場行進。彼らは、健康の象徴であり、国家の大切な労働者として描かれている。また、優生学的に普通以下だと劣性の烙印を押され、排除された人や魂を表す「丙丁戊」は、健全な社会への立ち入りが禁じられたうえ、コンクリートが流し込まれ、会場を支える人柱にされている。
オリンピックといえば、走力や跳躍力における人類の進化を目撃しようと、世界中が熱狂する祭典であり、ほとんどの人がそれに疑問を持つこともない。しかし、国を挙げた、肉体的に優れた人間をつくるための仕組みの縮図を、風間さん流に提示されると、見えてくることがある。それは、「健康な人間以外は要らない」という思想の下で、「障害があったり病気を抱えたりする人たちが、人間として扱われなかった現実」の存在だ。
体制が示した方針だからといって、大勢が熱狂しているからといって、それが本当に正しいことなのかどうかはわからないし、真実はほかにもあるのかもしれない。それは戦時中のような特殊な環境ではもちろんそうだし、令和元年の現在であったとしてもそう。いつだってそうなのだ。
風間サチコさんの作品が鑑賞者の心に静かに残していく、大きな問いかけ、「で、あなたはどう思う?」。これこそが、作品が持つ特別な力の正体なのかも知れない。