物や情報が簡単に手に入りやすくなった今、便利になっているはずなのに心が満たされず、どこか物足りなさを感じている人が多いように感じます。モノ消費からコト消費へと変わって行く中で、どんな体験をするかによって人生の豊かさや経験値が大きく変わっていくのではないでしょうか。今回は宮城県で、フリーランスの介護福祉士/グラッフィックレコーダーとして活動している、ついてる合同会社 しわしわカンパニー代表の山﨑史香さんとの対談記事をお届けします。
介護とアートを掛け合わせた取り組みに挑戦
中屋 山﨑さんは、フリーランスの介護福祉士とグラフィックレコーダーをしているとのことですが、どのような活動内容なのかお伺いしたいです。
山﨑 施設介護・在宅介護を12年経験したあと、“地域に会いに行くフリーランスの介護福祉士”として、全国で講演会を行ったり、介護の知識を学びたい方や、介護福祉士の資格を取得したい方に向けた研修の教員をしたりと、幅広く活動しています。2018年には「ASIA GOLDEN STAR AWARD 社会貢献賞」を介護福祉士として世界で初めて受賞いたしました。
また、地域福祉や介護現場の課題や、話し合いの場を可視化するグラフィックレコーディング(以下:グラレコ)も行っていて。みんなの頭の中にあるアイデアや、個々が持っているリソースを掛け算することによって、可能性が膨らむ場をコーディネートしています。
中屋 介護とアートの掛け合わせは意外性があって興味深いですね。2つを掛け合わせようと思ったきっかけは何かありましたか?
山﨑 介護の仕事をしているとき、ホワイトボードにおじいちゃん・おばあちゃんの似顔絵を描いたら、普段はあまり反応がないのにすごく興味を持ってくれて、コミュニケーションは言葉だけではないと思ったんです。そのあと、ご家族の方から嬉しい手紙が届いて、介護とアートを組み合わせて何かできないかなと考えたのが、最初のきっかけだったと思います。
それから、介護施設の窓ガラスに目で見て楽しめるアートを描いたり、寝たきりのおじいちゃん・おばあちゃんにお花見気分を届けたいと思い、天井に桜の絵を描いたり。アートに興味を持ってくれた施設の方や、地域の方にも声を掛けてもらえるようになって、もっと介護とアートを掛け合わせていきたいと強く思うようになりましたね。
また、アートと介護の掛け合わせとして絵本も作りました。難しい内容ではなく、柔らかくてわかりやすい、ポップで可愛いというところから介護のことを知ってもらう。もしくは、私というキャラクターに出会って「介護士さんって、暗くてお洒落にも興味がない印象だったけど、全然違うね」と思ってもらえたらいいなと。介護のイメージが変わるきっかけを作れたらと思いました。
グラフィックレコーディングを通して目に見えない想いを通訳する
中屋 お話を伺っていると、山﨑さんの前向きに挑戦する行動力が今につながっているのかなと感じ取れました。
山﨑 命に関わる仕事をしているので、死と向き合う時間も本当に多いです。「今は、今しかない」と介護の仕事を通して改めて思うようになったのが、行動力として現れているのかもしれませんね。
中屋 命と対峙する介護職と、イラストで可視化するグラレコは、また異なる技術が必要だと思いますが、グラレコを始めようと思った原体験は何かありましたか?
山﨑 子供の頃から絵を描くのが好きで、小学2年生の頃から、授業の内容をノートにイラストでまとめていました。大人になってからも変わらず、報告書や書類を提出する際は絵で描いていたんです。でも、10年前でしたので「仕事は遊びではないから落書きをするな」と、理解してもらえなかったこともあり、そのときは辛い想いをしました。
それから時代も変わってきて、少しずつグラレコも浸透し始めてきて。介護や福祉のことをもっと知ってもらいたいと思ったものの、言葉だけでは伝わらないと思ったことがきっかけです。もともと絵を描いていたので、目に見えない想いを可視化するグラレコを仕事としてやっていきたいと思うようになりました。グラレコはその場にいなかった人にもイラストを通して話ができるし、出てきた問題に対してみんなで話した際に、文章よりも視覚的なイメージの方が入ってくるのが早いという良さがあります。
多様性が認められる時代になってきたので、今まで声を上げられなかった人が発信できるようになって、暮らしやすい地域にしていくことができる。グラレコはこれから一つの言語として広がったらいいなと思っています。
中屋 小学生のときにノートに絵を描いてきたところから、自分のライフステージによって、表現の場が変わっていったということですよね。想いを可視化する上で、大切にしていることはありますか?
山﨑 グラレコは目には見えない想いも描いているので、ときには暴力にもなりうる危うさも持っていると思っていて。言葉だけを聴くのではなく、話している人の表情や想いを客観視しつつ、その人の想いを通訳することを大切にしています。
どの分野でも対話が大切になるので、役職によってその人の声だけが強くピックアップされてしまわないように、平等にたくさんの意見が出るようにすることも心掛けています。
東日本大震災をきっかけに、自分から会いにいくフリーランス介護福祉士になる決意をする
中屋 山﨑さんは宮城県にお住まいとのことで、地域との関わり方も意識して活動されてきたと思いますが、東日本大震災をきっかけに、自分の価値観が変わったことや、実生活で変化したことはありましたか?
山﨑 東日本大震災をきっかけに変化したことはたくさんあったと思います。私は岩手県の宮古市出身で、当時は親の安否が2週間もわからないまま、津波で自分の地域が流される映像を見ていました。働いていた施設は、福祉避難所(※地域で災害が起こった際に、一般の避難所では生活に支障をきたす高齢者や障害者などが過ごす場所)だったのですが、震災の影響で階段が崩れたり、ガラスが割れたりと暮らせる状態ではなかったので、おじいちゃん・おばあちゃんの受け入れが出来ませんでした。それによって、認知症が発症したり、悪化してしまったり……。実際に宮城県の他の地域ではご家族の方が迷惑をかけないように、車の中から出さないようにして凍死した事件があって、とてもショックでした。
助けたいのに亡くなっていく命もたくさんあって。地元にも帰れなかったため、休日に泥かきのボランティアに行くことでしか、切ない想いを解消することができませんでした。1年後にはフリーランスの介護福祉士として、仮設住宅にいるおじいちゃん・おばあちゃんの元を訪れ、少しでも楽しんでいただけるように体操を行ったり、自分ができることをしたりしていました。
それを約6年間ほど行っていたと思います。そこで出会ったおじいちゃん・おばあちゃんは、元気そうに喋ってくれたんですが、仮設住宅の中はとても狭く、家族からの虐待もありましたし、自殺もありました。あんなに笑っていたおばあちゃんが、家族に迷惑になるからと一人部屋でこっそり息を引き取っていたこともありました。そのような事件を目の当たりにして、とても悔しかったです。
中屋 東日本大震災から10年経った今でも、非常に強烈な体験として記憶されているんですね。フリーランスの介護福祉士になろうと思ったのも震災の影響が大きかったんですか?
山﨑 震災の影響は大きかったです。国家資格を持っているのに、おじいちゃん・おばあちゃんを助けることができなくて、地域のことをどう広めていくことができるのだろうか、という想いが自分の中にありました。もっとみんなに福祉や介護のことをジブンゴト化してもらいたい。そう思い、会いに来てくれるのを待つ施設介護福祉士ではなく、自分から会いに行くフリーランスの介護福祉士になりました。
震災から10年経って復興支援住宅もできましたが、ゼロから暮らしを作って地域のつながりを築いていくのにはとても時間がかかります。また同じような災害が起きたときや何かあったときに、お互いに助け合うのは難しいものです。なので、私がグラフィックレコーダーとして入ることで、声を上げられない人が声を上げやすい場を作っていきたいし、想いが伝わらなくて困っている人の支援をグラレコを通してできたらいいなと思っています。
お互いの得意で苦手を補い合える優しい世界になってほしい
中屋 生と死が身近にあるなかで生きてきたからこそ伝えられることや、今の時代だからこそ山﨑さんの力を必要とされる人が、きっとたくさんいるのではないかと思います。今後やっていきたいことや、世の中がこう変わったら素敵だなと思う世界観があれば教えていただきたいです。
山﨑 少しずつ時代は変わってきているので、相手と自分の違いをしっかり把握した上で、さまざまな人たちのものさしを知ることが大切になってくると思います。共感ではなくとも、承認する世界が広がったらいいなと。
最近は便利なものが流行っていますが、セルフレジに対して私は違和感を感じています。買い物をするからこそ、会話や人との交流があると思っていて。ゆっくり買い物ができたり、高齢者の方や小さなお子さんを抱えている方をサポートできたりするレジがあったらいいですよね。誰かの視点だけで考えるのではなく、みんなにとって優しい視点が必要になってくるのではないかと思います。
他にも、自分ができないところを開示して得意な人がサポートしたり、失敗したら責めるのではなく次の対策をどのようにしたら変えられるのかを考えたり、認める心を持った方がいいと思います。できないのであれば、得意な人がやる。苦手を頑張るのではなく、得意なことでサポートし合える社会や世界になったら、生きやすいのではないかと思います。
また、人生の質を高めるには、相手とどれだけ深く向き合い対話できるかが大切になると思っていて。話すことから生まれることが、すべてだと思っています。 私たちがまず身近でできることは、 人との関わりを大切にすること。困っている人に声をかけたり、 困っている人を助けるためにも、しっかり自分でアンテナを張ったり、困っていることをシェアし合ったりすることが、大事になるのではないかと思っています。
中屋 山﨑さんの生き方や、人生観をお伺いし、気づきをたくさんいただけました。お話を聞いて共感したところは、毎日同じ明日が来るとは限らないということ。災害の現場に行くと、命と向き合う瞬間も多いので、より強く思います。
山﨑 震災の際は、自分が何も行動できないうちに、一瞬にして大事な人や家族の命が亡くなってしまい……。 「失うときは一瞬なんだな」と思いましたし、正直なところ「何で自分も連れて行ってもらえなかったのだろう」と悩んだこともありました。残される辛さを味わったこともありますが、今この命で何ができるか考えようと思えるようになったのは、痛みを伴ったからだと思います。
それに、震災があったことで国民が介護や福祉、地域のことをたくさん話す10年だったのではないかと思います。だからこそ、SDGsや地域づくりなどが注目されている気がするんです。今、さまざまな企業さんがグラレコを使ってくれるようになって、少しずつ世界が変わってきていると感じます。福祉やアートの領域も、さまざまな掛け算をして可能性を広げたいと思っていて。イラストを描いて通訳をすることで、この世から意地悪や諦めを無くしたり、自分の可能性に気付いてチャレンジする人を増やしたりと、誰かを救うことができると思っています。
体験には何があった?
山﨑さんが介護とアートを掛け合わせようと思ったきっかけは、コミュニケーションは言葉だけではないと思った体験があったから。小さな頃から好きだった絵を描くことと介護を掛け合わせて、山﨑さんにしかできない強みを見つけていきます。
東日本大震災をきっかけに、周りの環境が変わり辛い想いをたくさん抱えてきた中でも、自分のできることを探し、会いに行くフリーランス介護福祉士になると決意した山﨑さん。その原動力にあったのは、たくさんの命と向き合うことによって「今は、今しかない」と思えたからだったのではないでしょうか。
自分視点で考えるのではなく、みんなの視点で物事を捉えていく姿勢。声を上げられなかった人の想いを拾って、そっと背中を押していくサポーターのような存在。辛さを優しさに変えて生きていこうとする山﨑さんの心の強さと、包み込んでくれる柔らかさは周りを巻き込み、温かな未来へと導いてくれるのではないかと感じることができました。
山﨑さんのHPはこちら
描くと視える伝えたい世界
文・木村紗奈江
【体験を開発する会社】
dot button company株式会社