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ウェルビーイング

特集 | 続・ウェルビーイング入門

私らしさと深呼吸、『HAA』。

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余裕のない日常を送り、自分自身を追い詰めてしまう人が多い社会。ちょっと立ち止まってひと息入れることの大切さを、池田佳乃子さんは大分県別府市の湯治文化と『HAA』を通じて伝えている。

目次

いっぱいいっぱいの 自分には気づかない。

「はあ〜」。これを読み始める前に、長くゆっくりと息を吐き出し、大きく吸い込んでみてほしい。もしかして、深い呼吸をしたのは久しぶりだったと気づいた人がいるかもしれない。頭も心もいっぱいになってしまうと、呼吸が浅くなっていることは意識の外側に置かれてしまうから。

池田佳乃子さんも、かつてはそんな一人だった。広告会社の営業職に就き、鳴ってもいないのに携帯電話が気になったり、食べることを忘れて痩せてしまったり。一緒に仕事をする人の気持ちを考えすぎて、迷惑をかけたくない思いが強すぎて、知らぬ間に限界を迎えていたという。

同時に、30歳を目前にして自身のキャリアに悩んだ。仕事柄、周囲にはクリエイターが多く、営業職の自分と対比させてしまう。「自分の代わりは大勢いる中で、私に何ができるのかを悩んでいました。会社員がダメなのではなくて、単に自分に自信がない状況でした」と池田さん。そんなとき、夫で建築士の石井航さんが、仕事で開発途上国や日本の地域活性化に関する本を多く読んできた池田さんの姿を見ていたことから、「せっかく故郷があるのだから、そこで何か始めてみては」と提案。神奈川県横浜市出身の夫からすると、首都圏近郊ではなく大分県別府市に生まれ育った妻がうらやましかったそう。「自分が心地よいと感じる生き方をゼロからつくっていいと気づかされて。結婚して半年でしたが、新しいチャレンジをすることに決めました」。

池田さんは地元・別府市の祭りにも湯治文化にもなじみがなく、高校を卒業して以来、実に10年以上ぶりに地元に戻ってきた。まずは地域を知ろうとあちこちに出かけるなかで、同市内の鉄輪温泉で自治会の活動をしている人たちと出会い、この縁をきっかけに地域と関わる社団法人のスタッフに加わることに。こうして2018年より大分と東京を行き来する生活がスタートした。

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まちの至るところからまるで生き物のように立ち上る湯けむり。自然のダイナミズムを感じる。
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気軽に入れる足湯や足蒸しが鉄輪温泉にある。思わず「はあ〜」と深呼吸。

心からホッとした原体験から 知った、深呼吸の大切さ。

池田さんがまず参加したのは、旅館の女将さんたちの会議、「鉄輪妄想会議」。高齢化が進み、空き家が目立つようになってきたこの地域をどう活性化するかが課題だった。傾斜地に宿が立ち並び、まちのあちらこちらから湯けむりが上がる風情のあるこの温泉地には、長期間滞在して体調を整える湯治文化が根付いている。

昔は温泉療養や、農家の人々が農閑期に体を休めるためなどで人が訪れていたものの、今はずいぶんと減ってしまった。その一方で、ライフスタイルの変化により、温泉地に仕事ができる環境があれば、湯治をしながら長期滞在する人が増えるのではないかというアイディアが会議の中で浮上。そこで、空き家をコワーキングスペースにすることに決まり、池田さんは実現に向けて奔走した。「税金を活用して取り組むので、なぜコワーキングスペースがこの場所に必要なのかを市役所の担当者に説明する際、私自身がカタカナ用語を多用してしまうなど、東京での仕事の感覚で行動してしまい、周囲と衝突することもありました」。また、物件を借りるにしても前例がないために家主を説得できず、数十軒を回って交渉することにも。

何事もうまくいかず、泣きながら夫の航さんに電話すると、「続けることで見えてくる景色があるからもう少し続けてみては」と長いスパンで物事をとらえる建築士らしいアドバイスをされた。

そんななか、池田さんは人生を大きく変える体験をする。「涙目で下を向いて歩いていたとき、パッと顔を上げたら建物の間から海が見えて自然と深呼吸していました。そうしたら心からホッとしたんです。こういう瞬間が次への活力になると気づきました」。再び前向きな気持ちで周囲と接すると、次第に協力者が増えていった。そして、なんとか貸してもらえる物件にたどり着き、数か月で改修を終えて、2019年4月に『a sid
e滿寿屋』をオープンさせた。

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共同浴場の『すじ湯温泉』の向かいにコワーキングスペース『a side滿寿屋』がある。
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スタッフは大学生も含めて5人。多様な人々が集う拠点に。

たくさんの深呼吸とともに、 「湯治文化」を世界へ。

池田さんが移住して3年目からは自分自身を今一度見つめ直し、独立して湯治文化を広めていく役割へとシフトすると決意。構想に1年をかけて昨年7月に湯治をコンセプトにしたブランド『HAA』を立ち上げて、第1弾商品として別府の湯の花からつくられた入浴剤を開発し、試行錯誤を重ね「HAA for bath」をリリースした。

池田さんは『HAA』を通じて伝えたいことが2つある。1つは湯治文化そのもの。ひと昔前には、療養者や農閑期の農家の人々のほかにも執筆活動を行う作家が湯治に訪れていた。「何かを生み出したり発想したりするには、ある程度余裕がないとできない。湯治を通じて、心と身体に余白をつくるというウェルビーイングな過ごし方を広め、湯治のよさを発信していきたいです」。

そしてもう一つは、池田さん自身が東京と大分での二拠点生活をしながら気づいた、深呼吸をする機会を細かくつくることの大切さだ。大分で暮らしている時はふと見上げると山や海が見えたり、目の前にある共同浴場に10分休憩で浸かったりと、自然に深呼吸ができていた。しかし、東京に戻ると、コーヒーを淹れたり、散歩に出かけたり、遠方の温泉に出向くなどと自身が能動的でなければ深呼吸はできない。「以前の私のように自分が今どんな状態かすらも分からない人や、リフレッシュしたい人に、この入浴剤をお風呂に入れて深呼吸できる機会を届けたいんです」と池田さんは話す。

『HAA』の立ち上げや運営に必要なことの一つ一つを身近な人たちに相談しているうちに、賛同者が増え、志を共にするチームが次第にできていき、今ではSNS発信を担当する大学生らを含めると約30人が関わっているという。続けていくには自身が抱え込みすぎないこと、自分を疲れたままにしないことが大切だと知る今の池田さんは、今日もコーヒーを飲むような感覚で温泉にポチャンと浸かり、週末に趣味のサーフィンに出かけている。

『HAA』を通して誰かの心と身体をケアする一方で、当然ながらこの地をリスペクトし、地域の協力なしでは湯治文化を広められないと実感しているからこそ、周囲の人たちが幸せであることも心から願っている。今年、池田さんや鉄輪温泉の女将さんたちをはじめ地域の人たちと一緒に飲料メーカーのポスターを制作した際、ポスターのモデルになった女将が喜んでいたり、道行く人がポスターを褒めてくれたりと幸せの連鎖が起きている。「私も癒された湯治文化をどう形にして伝えていけるか。難しいけれど、そこにチャレンジするのは人生としておもしろいですね」。

自身と周囲の人々がウェルビーイングでありながら、その大切さを伝えていく使命感に燃える池田さん。『HAA』がこれからどんな広がりをみせていくのかを考えると、ワクワクしてくる。

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鉄輪温泉の人々を集めて撮影したポスター。一つの行動が幸せの循環を生み出す。
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『HAA』の第1弾商品である入浴剤「HAA for bath」。日常的に使う人に向けた定期的に届くプランも。
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大切な人に癒しの時間を贈るプレゼントになるようにつくられた、「HAA for bath 日々」。
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池田さんが共同浴場に浸かっていた際、隣から「はあ〜」と息を吐く音が聞こえたことから、『HAA』というブランド名に。
いけだ・かのこ●大分県別府市出身。30歳のときに東京と大分の二拠点生活をスタート。鉄輪温泉の活性化を担う仕事を経て、2021年7月に湯治文化を伝えるブランド『HAA』を立ち上げる。

photographs by Kiyoshi Nakamura text by Mari Kubota

記事は雑誌ソトコト2022年7月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。

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