「トラベルナース」は3か月から6か月程度を任期として、看護師が不足している医療機関に自ら赴き勤務する看護師のことをいいます。同じく看護師不足のアメリカで生まれたこの制度、日本では他にも「地域応援ナース」「応援看護師」と呼ばれることもあり、最近では連続ドラマ『ザ・トラベルナース』(テレビ朝日)が放送されるなど、その名前や存在が知られるようになってきました。看護師の人材不足を補う、新たな働き方として注目される「トラベルナース」ですが、北海道の東端に位置する根室市にも2024年、広島県からひとりのトラベルナース・石田克也(いしだ かつや)さんが5月から半年間の予定で着任されました。今回は、その働き方の魅力を伺います。
全国に広がる、看護師不足問題
2024年の夏、看護師不足を解消する手立てのひとつとして、「市立旭川大学ルーラル・ナーシング同好会」の活動を紹介しました。 記事では、おもに人口減少地域のコミュニティの維持に不可欠な「いちばん身近な医療者のはずの看護師が、地域に足りていない」部分に視点を当てた改善の取り組みを紹介しています。
しかし現在では慢性的な看護師不足に加え、他業種の賃上げの加速により比較的高給とされていた看護師との賃金格差が小さくなったことで、過重労働に疲弊した、特に若い看護師たちのなかでは異業種への転職者が増え、退職者が全国的に増えているのです。そして看護師不足による過重労働が繰り返されるという悪循環に陥っています。
特に全職種の平均賃金が高い都市部ではこの傾向が大きく、診療報酬制度の中から支払われる医療者の賃金は上がりづらいため、都市部で多くの看護職離職者が発生し、看護師不足が地方だけに限らない問題となってきているのです。
新たな働き方を「生きる価値観」としてえらんだ『トラベルナース』
背景についてはこれくらいにして、半年間の任期を終え根室市を離れる現役のトラベルナース、石田さんにお会いして話を伺いました。
-石田さんの出身地や経歴をお伺いしてよろしいですか?
石田さん(以下、石田) 高校卒業までは地元の広島県で過ごしました。その後、四国にある短期大学で2年間過ごしたのですが、やりたいことが定まらなかったんですよね(笑)また広島に戻り、友人に促されるまま専門学校に進み、介護福祉士として働き出しました。その職場は医療者と介護職の協働する職場でしたので、身近に看護師もたくさんいました。そこにひとりの男性看護師が居て、まるで職人のように働いている姿が「かっこいいなあ」と感じたんです。『介護の知見を持った看護師は、自分の強みになるのかもしれない』と考え、看護師の道を歩みだしたのです。昼は学校で学び、夜は介護福祉士として働く5年間の生活を経て、30歳のときに看護師になりました。
「専門看護師のキャリアアップよりも、人としてのキャリアアップを選んだ」
-看護師としても「認知症認定看護師」※として、看護のプロフェッショナルとなるキャリアを積まれています。それでも大きく環境を変えて「トラベルナース」として歩みはじめたきっかけは何だったのでしょうか?
石田 看護師になるのが遅かったので、とにかくがむしゃらに働き、学びました。ですが認定看護師となった時期に、人生のつらい時期が重なることがあり、しばらく看護を離れる決断をしたのです。しばらく自分自身を俯瞰して見たくなり、放浪の旅に出たのです。そこで多くの人々との出会いがあり、人に左右されたわけではないですが、出会った人々が僕の人生を導いてくれたように感じました。この経験を経て人生をやり直す決心がつき、看護の世界に戻ってくることができました。
これまでは、常に『他人』が考えの基軸にあったように思います。「自分の行いがうまくいかない原因は、他人にある」という考えでした。ネガティブですよね。その考えが旅を経験し、多くの人と接する経験を経て「原因自分論」に気付かされたのです。「これからは、自分軸で生きていきたい。各地でお世話になった多くの方々に、社会貢献できる自分でありたい。各地で生きることで、知見を広げていきたい」と考えるようになりました。
そんなとき、これも旅の途中で知り合った方から「トラベルナース」という生き方を教えてもらったのです。もうピッタリすぎました。私の理想にピッタリかもしれない生き方が見つかった気がして、迷うことはありませんでした。そして、全国各地で働く「トラベルナース」の道を歩むことにしたのです。人間関係で悩んだ時期もありましたが、解決したのも人間関係でした。やっぱり人は人に助けてもらいながら生きているんだなあ、と感じましたね。
認定看護師の資格は更新制です。更新に必要なカリキュラムがあるのですが、トラベルナースとしての勤務実績では必要な単位が足りず更新ができません。ですが、まったく悔いはありません。トラベルナースとしての実績は知識や技術として生きていますし、何より「更新のための学び」ではなく「人としての学び」を優先する生き方を選んだのですから。
函館・横浜での就業後、「朝日にいちばん近い街」根室市へ
-これまでの就業場所と、そこで得られたものを教えてください。
石田 最初は北海道の函館市でした。理由は「日本最北の都道府県・北海道に行きたい」それだけでした(笑)。これも旅の途中で知り合った方から「トラベルナース」という生き方を教えてもらったからこその選択でした。人に左右される、ということでもないですが、人に助けてもらっているんだなあ、と感じますね。
函館のまちは『都会すぎず、田舎すぎず』といえばいいでしょうか。トラベルナースとしてスタートを切った最初のまちで半年間暮らしましたが、過ごしやすく本当に温かく迎えてくれました。今回の就業終了後も函館に寄って、友人たちと数日過ごす予定なんですよ。
次の町は神奈川県横浜市でした。私もトラベルナースとして都会で働くことは考えていなかったのですが、今は都会でも看護師不足が顕著になってきています。『地方で働くのがトラベルナース』と思っていたので、声がかかったときは驚きましたが、都会での経験も活きるだろうと考え赴任しました。
横浜でも半年間過ごして気づいたのは「地方や首都圏に近い場所などで、両方の看護を実体験できたことって、すごくキャリアとしても大きなことじゃないかな」ということでした。将来何かの場面で経験を「伝える側」に回ったとき、幅広い視点で話すことができるのはトラベルナースの経験があってこそだと思います。
-今回の「根室」はいかがでしたか?
石田 根室を選んだ理由は「日本の端っこ」で生活してみたいという気持ちでした。いちばん端といっても、暮らしにくさや不自由さは感じませんでしたよ。
海の清掃ボランティアに参加させてもらったり、職場のミャンマー人留学生たちとマラソン大会や祭りなどのイベントなどに参加したりしました。まちの方々と接する機会も多くて、思い出深い半年間を過ごすことができました。
何よりも、夏の涼しさは体にやさしかったですね。本州は40度近い気温の連続だったようですが、こちらに住んでいると朝晩は長袖シャツがないと過ごせないくらいでした。生活するうえで、これほど体調を崩さずに夏を過ごせた1年は、近年では無かったように思います。
-各地を「助っ人」としてまわるトラベルナースは、いつまで続ける予定でしょうか?
石田 それはさすがに私もわかりません(笑)気に入った場所が見つかれば、そこに住む選択をするのも自由な身です。トラベルナースの仲間たちも、赴任地が好きになってそのまま定着することや現地でパートナーを見つけ、定住することは決して珍しいことではありません。
ですが、私自身はまだまだトラベルナースを続けていきます。自分らしく過ごせるという魅力。ワクワク感。地域の活気ある姿とともに過ごせること。これらを自分軸で見つめながら、トラベルナースを通じた自分みがきの旅を続けたいですね。冬の北海道にも、いつか帰ってきたいです。厳しい気候の季節を人生の学びとして経験しておきたいと、今回の根室での勤務を通じて強く感じました。
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石田さんは根室市での勤務を終えると、次の赴任地・鹿児島県の種子島へ旅立っていきました。
「トラベルナース」「応援ナース」という自由と生きがいの両立を求める生き方は、看護師の世界にとどまらず、全職種で増えてくる予感がします。世の中の『働き方』そのものが、時代に合わせた変化に対応していく必要が出てきているのかもしれません。