自分に絡んできた同級生・シュアイを振り払った弾みに、誤って階段から落としてしまった高校生のブー。地元を仕切る半グレで、親友を自殺に追いやったシュアイの兄のチェン。同居する娘夫婦に厄介者扱いされ、支えだった愛犬も他人の犬に噛み殺された老人ジン。母親と折り合いが悪く、拠りどころだった教師との関係をSNSで拡散されたブーの同級生・リン。辟易するばかりの日常の中で、突然とも、起こるべくして起こったともいえるそれぞれの悲劇。そこから交錯する、4人にとっての永遠のような一日を通じて、中国が、そして世界が直面する状況を描いたフー・ボー監督の『象は静かに座っている』。
師と仰いでいたタル・ベーラ監督を彷彿させる、確信的な長回しと、自然光撮影による陰影の深い映像。タイトルやセリフにちりばめられた、メタファーに富んだ詩的なことば。そして観客を4時間近い作品に巻き込む演出・構成力。海外の名匠がこぞって賞賛するように、本作はデビュー作とは思えないほど、そしてこれが遺作とは思いたくないほど素晴らしい。
映画には、自分の要求を一方的にぶつけ、他者に対しても平然と、価値の有無を判断基準にするような人たちばかり出てくる。親も教師も、半グレも、大人はみな、自己保身に走るだけ。誰もが自分の不幸を誰かのせいにして、互いを傷つけ合い、けれどそうすることで、彼らはかろうじて他者とつながっている。
フー・ボー監督の世界との向き合い方は、ペシミスティック過ぎるだろうか。けれど、彼の分身である主人公たちがいうように、世界は一面の荒野で、時代が変わろうと、日常はそう簡単に変わりはしない。世の中は暇人ばかりで、それなのに(あるいはそれゆえに)掌に載せたコンピューターを通じて誰かとつながっていないと不安な人たちばかりになっていて、世界は他者への不寛容さ、それと背中合わせの、他者からの承認欲求で膨れ上がっている。
おそらく29歳のフー・ボー監督は、早くに気づいてしまっていたのだろう。便利さと快適さを追い求めて、自分たちがつくったはずだったシステムに呑み込まれ、制御不能な状況になっている今、どこに行っても、世界は変わらないということを。
同じ境遇にいるわけではないのに、4人が抱える鬱屈や孤独が皮膚感覚で伝わってくる、そんな作品でもある。そこが自分の行くべき場であるように、一日中静かに座っている象を観に、2300キロ離れた満州里の動物園を目指すブー。今は亡き監督は、そんな彼の行動に希望を込めたのだろう。
『象は静かに座っている』
シアター・イメージフォーラムにて上映中、ほか全国順次公開