・「実践人口」を増やすための合言葉が「やってこ!」である。・「やってこ!」が世代を超えたつながりを生み、ローカルを面白くする。・矢沢永吉は実践主義のカリスマ
矢沢永吉を知っているだろうか? そう、あの矢沢永吉さんだ。70歳目前にして現役バリバリ。20代からほぼ変わらない体形を維持し、強い言葉を歌に変えて、指先にまで全神経を届けたようなド派手なステージングを繰り広げる。いつまでも熱狂的なファンを骨太に魅了し続けるあのアーティストだ。
といっても、私自身が「矢沢永吉」に興味をもったのは今年の話。平成が終わりかけたある夜に、YouTubeで「ap bank fes 09」の出演映像を見たのがきっかけだ。それまでの印象はロックンロールなおじさんであり、プレミアムモルツをおいしそうに飲み干すおじさんであり、「やっちゃえ日産!」のおじさんだった。
だが、どうだろう。ひとつのライブ映像を見てから大きく認識が変わった。いや、変わったどころか一晩で心を鷲づかみにされて、翌日から矢沢永吉のようになりたいとさえ思うようになった。ヤザワのように演じ狂いたい。熱狂の先にしか真の価値は生まれない。狂って、狂わせて、やりたいように生きていくんだ!
日産のCMを通して僕に、では「2種類の人間がいる。やりたいことやっちゃう人と、やらない人。やりたいことをやってきたこの人生。おかげで痛い目にも遭ってきた。散々恥も掻いてきた。誰かの言うことを素直に聞いてりゃ、今よりずっと楽だったかもしれない。でもね、これだけは言える。やりたいことをやっちゃう人生のほうが、間違いなくおもしろい。俺はこれからもやっちゃうよ。あんたはどうする?」と、ヤザワが問いかけてくる。
おおおおお、めちゃめちゃ「やってこ!」じゃないか。骨の髄から痺れ、脳の髄液が漏れそうになるような名台詞だ。これだよ、これ。この感覚を人生で身につけて、いかに実践的な仕事を積み上げてやりたいことを成すのか。ここに尽きると思う。
成り上がりに学ぶ生い立ち。
コピーライターの糸井重里さんがインタビューし、まとめた『矢沢永吉激論集 成りあがり』を読んだ。そこには彼が実践主義のトップオブトップになりえる背景が描かれていた。母親は3歳のときに蒸発し、父親とは広島原爆の被爆の影響で小学2年生のときに死別。親戚中に厄介者としてたらい回しにされた後、おばあちゃんに育てられている。極貧生活とやんちゃの毎日。反骨精神の芽吹きは、東京でビッグになって全員見返してやる! という衝動に変わっていく……。
昭和のカリスマ経営者の多くは、戦争というパラダイムシフトによって、這い上がるための強制力にさらされていた。生きるために、明日のメシを食うために。誰かを守るために。貧富の差は広がろうとも、飢え死にすることのない飽食の日本では強制力は生まれにくい。目の前の困難な出来事を自分事にとらえて、社会変革に身を捧げられる人はマイノリティだろう。ヤザワは戦後の広島で、実践主義の申し子となり、血のにじむような努力と目的達成のために仲間を容赦なく切り捨て、ときには仲間にひどく裏切られ、それでもやってきた。
やってると落ち着く。
ヤザワに比べれば自分はちっぽけな実践主義かもしれないが、ヤザワの残した言葉はたった数か月の出会いでも深くDNAに刻み込まれたように思う。間違っていなかったんだ、と。やるか、やらないかなんだ、と。先日、「ほぼ日」で糸井重里×矢沢永吉の対談コンテンツが公開されていて、そこにはやりきった男の至言が書かれていた。「もう、70の手前まできてるわけですけど、いまはわかるんだな。やっぱり、俺は、金じゃなくて、やりたくてやってる。やりたい。やってたら、落ち着くの」。
やってたら、落ち着くの!そう!ほんと、そうなんだよ……。何かを変えたい、お金を稼ぎたい、誰かに認められたいとか、まだまだ道半ばの実践主義者としてはあらゆる理由がある。自分の弱さと心の穴に向き合うほどに、そこには「やってると落ち着く」という実感がよこたわっている。やり続けないと不安だから、やる。この連載で紹介した人物は全員きっと同じ共感を得て、膝がガクガク震えるほどに「わかる……」となる言葉だと思う。
ある日、深夜のカラオケでヤザワの「アリよさらば」を練習ナシで歌ってみたことがある。酒は充分。ヘタでもいいから狂うだけ。ステージングの動きは脳内補完でいけるはずだ。アーユーオッケー? マイクを握り締めて「人の群れが運んでる……Why? なぜに…」と足先をピーンと伸ばそうとした矢先、ヤザワへの敬意と畏怖が爆発して膝から崩れ落ちてしまい、イメージとの違いに動けなくなった。Why? なぜに。