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連載 | 「自分らしく生きる」を選ぶローカルプレイヤーの働き方とは

消し去りたい過去も今の自分には宝物。 キャンドルを通し、人の心にアカリを灯す

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キャンドル工房「710candle」の運営や腸内環境改善の講演など、多岐にわたり活動されている和泉さん。幼少期には消し去りたいほどつらい時期がありましたが、キャンドルに救われ今に至るといいます。人の心にアカリを灯したいという信念にたどり着くまでには、どんな経験があったのでしょうか。お話をうかがいました。

目次

窮屈で生きづらい日々

北海道森町で、三姉妹の長女として生まれました。生まれつき身体が弱く、学校には通っていましたが、中学生まではたびたび入院をし、薬が欠かせなかったです。両親ともに漁師だったこともあり、祖父母に育ててもらいました。身体が弱かったし、初孫ということもあって、祖父母はよく面倒をみてくれましたね。特に祖父からは「溺愛」という言葉がピッタリ当てはまるような感じで育てられました。

教育熱心な母親の影響で、週7日、ピアノ、スキー、水泳、和太鼓、塾などいろいろな習い事をしていました。私を活発にして身体を強くしてあげたい、という親心も感じていました。学校が終わると門の前で車が待っていて、習い事へ行く。そんな日々を送っていたので、友達と遊びながら下校する、といったことはありませんでした。

家に帰ると、家庭内暴力や怒鳴り声がすることも度々ありました。人の骨の折れる音など、なかなかハードでしたね。ドアから投げられた椅子が飛び出ていることもありました。普段は優しく頼りがいのある祖父が、お酒を飲むと暴れてしまい、よく祖母に暴力をふるっており、ただただ耐える日々でした。

母親は勉強をしているか見回りにくることもあり、していないと脱いだパジャマを切られたり、ドアにガムテープで目貼りされたり、学校のバックを二階の窓から投げ捨てられたりしたことも。なかなか刺激的でした。居心地のいい環境ではありませんでしたね。自分の精神安定のために自傷行為をし、過呼吸やパニック障害が出ることもありました。

性格は内気で引っ込み思案でした。絵や詩で入賞して全校生徒の前で発表するようにいわれた時も、喜びではなく不安や恐怖で胸がいっぱいで、学校をズル休みしていましたね。大勢の人の前で話すなんてとんでもない、と。音楽の授業でさえ、人前で歌うことができない子だったんです。みんなと一緒でも声すら出せない。前の子に私の歌声が聞かれるのが恐怖でしかない。全力で口パクでした。いじめにも遭い、不平不満ばかりを口にするようになっていきました。相手にも自分にもバツをつけて、生きづらさを感じていました。

小学校高学年頃からだったでしょうか。関わる友人達が変わり、少しずつ前向きな性格に変わってきました。まだ身体は弱く薬は欠かせなかったですが、中学生頃から丈夫になりました。

高校は母親の勧めで函館市内の進学校へ。親友と呼べる友人もできました。下宿生活となり、はじめて親元を離れ解放された気分でした。成績上位で入学した私でしたが、友人と遊びまわったおかげで、卒業する頃には下から2番目くらいにまで学力が落ちていきました。もちろん、こっぴどく叱られました。

卒業後は、念願の保育士になるために進学したかったのですが、金銭的な理由で就職を余儀なくされ、ここでも母親が勧める地元の信用金庫を選びました。他人のレールに乗ったまま、言われるがまま、ただなんとなく人生を歩んでいましたね。

小さなあかりがくれた安らぎと気づき

就職が決まった後、祖父が亡くなったんです。酒乱で手を焼いた祖父でしたが、家族にとって大切な柱だったんだなと、亡くなって初めて気づきました。そこから少しずつ家族のバランスが崩れ、しばらくすると母親が突然、失踪。祖父が貯めてくれていた三姉妹の貯金もゼロになっていて、借金まで残していました。仕事一筋な父親が「申し訳ない」と私の前で初めて涙を流したのが印象的でした。なんとも言えない気持ちでしたね。もちろん私自身もショックを受けていましたが、一番下の妹は中学生でとても多感な時期。寂しさや悲しさはありましたが、「私が妹たちを支えなければ!」と思いました。良い友人に囲まれていたので、ずいぶんと話を聞いてもらい、助けてもらいました。

また、この頃からDJを始めていて、音楽にも救われましたね。幼少期から和太鼓を続けていて、音楽が身近だったこともあり、DJが趣味になりました。

社会人になりしばらくすると、隣町へ転勤。家族のこともあり荒れた社会人生活、食生活も乱れていきました。そんなある日、夜中にカップラーメンを買いにコンビニへ。普段なら素通りする雑誌コーナーに、表紙がとてもきれいな一冊の本がありました。生活習慣について書かれた本です。いつもなら見向きもしないのに、なぜか私は手に取りページをめくっていました。

著者は、佐藤伝さんという方。習慣にすると良いことが、簡単な言葉で書かれていました。「朝起きたら窓を開けましょう」など、とてもシンプルです。その中に「キャンドルを灯す」という習慣がありました。私はお風呂場で試しにキャンドルを灯してみることにしました。

そもそもお風呂というのは、私にとって逃げ場でした。子どもの頃、お風呂場へ駆け込む時がありました。妹たちが心配するから、目の前で泣いている顔は極力見せたくないと思っていたんです。シャワーを出して、その音でかき消すようにわぁーと泣いて、冷水を顔にかけて自分を引き締めて出る。そういう空間でした。

そんなお風呂が、癒しの空間に一転したのです。湯舟につかりながら一本のキャンドルを灯し、そのあかりを見た瞬間、心の底からほっとすることができたんです。心にあかりが灯るのを感じました。本当に一瞬の、とてもとても小さなキャンドルのあかり。でもその小さなあかりから、包まれているような、何ともいえない心地よさを感じました。周りの環境は何ひとつ変わっていないけど、自分の行動ひとつ、選択ひとつで、心がこんなにも変えられるんだと気づいたのです。だったら私の人生は、自分で変えていこう。人のせいにするのはやめよう。こんな幸せで穏やかな気持ちでいっぱいにしたい、と強く思いました。

それをきっかけに、本に書かれた習慣をひとつずつ実践。次第に心にゆとりが生まれ、日々の何気ないことにも、豊かさを感じられるようになっていきました。そんな日々を重ねているうちに、ある変化が…。人生は苦しくて辛いことばかりだと思っていたのが、「今の状況は実は幸せなのかもしれないな。幸せっていっぱい目の前にあったのに気付けなかったな」と思えるようになっていたんです。

そんな中で、ふと私が生まれた日のアルバムを見たんです。そこにはお母さんの手書きの字で、沢山のコメントがあふれていました。生まれたばかりの私の周りには、手作りの人形が置いてありました。幼少期の辛い記憶も、余裕が生まれたことで、どんどん違う一面を思い出すようになったんです。母親は、誕生日にケーキを焼いてくれたこともあったし、マラソン大会があれば一緒に走ってくれた。習い事だって、当たり前だと感じていた食事だって、着る物や寝る場所だって、お金も時間もかけてくれていたんだなと。辛い記憶以外の、幸せと思える記憶が、一つまた一つと浮かんできたのです。心にあかりが灯ってから、些細なことにも幸せを感じられるようになった気がしました。

自分の未来に夢も希望も持てないと思っていたけれど、考え方ひとつで未来は変わる。未来への道は、あみだくじのようにいっぱいあって、いつでも自由に変えることができる。今の自分が変われば、過去の嫌な思い出が書き換わっていくのを体感しました。その本に出会って、とにかく実践してみたんです。本の表紙がボロボロになるまで何度も読み返し、著者に直接会ってみたいと思うようになりました。

キャンドルの道を歩み始める

23歳のとき、5年間務めた信用金庫を退職し、東京へ向かいました。実は1週間旅行に行くつもりが、楽しくてそのまま住んでしまったんです。残した地元の家には、実家を出た妹たちが住んでくれました。私は親友が住む木造二階建てアパートの一階に転がり込み、ワンルーム6畳に女3人で生活していましたね。都会に憧れた気持ちがあったのと、私の人生観を変えてくれた本の著書に会いに行ってみたかったんです。いつも言われるがままの私だったのに、初めて自分で決めて行動を起こしたような気がしました。

その頃お金もなく、親友の実家からジャガイモが一箱送られてきて、それを皆でチンして毎日食べていましたね。そして、アルバイトを重ねながら、どうしてもその本を書いたご本人に会いたいと思い、著者が講師をされている講座に申込みました。しかしその講座は、当時の私にとってはとても高額。払えるはずもなく、でもどうしても行きたい、と申し込んではキャンセルすることを何回か繰り返してしまって。

それを見かねた事務所の方が「何か事情があっての行動かもしれない」と電話を下さったのです。本に救われたこと、今は事情がありお金がないことなど説明すると、特別に分割払いで講座への参加が許されました。

いざ講座に参加してみると、周りの受講生は経営者の方が多く、それまで会ったことのない人たちばかりでした。生きてきた世界や考え方が違う人に出会い、大きな影響を受けました。自分の未来が開いていくのを実感しましたね。できない理由ではなく、「どうしたらできるのか?」という考え方になっていきました。

講座に通わせてもらっているうちに、著書の先生が声を掛けてくださり、講座のサポートをするようになっていきました。司会や運営、秘書として、様々な講演会へ同行することで、より身近でその方の考え方や行動量について学ぶ機会が増えました。少しずつ充実した日々を過ごせるようになっていったのです。

そうして、すっかり人生を変えてくれた本のことなど忘れていたある日、とある講演会で先生がキャンドルの話をされていたんです。「みなさん、生の火をみていますか? 今はIHも増えていますからね。キャンドルを灯すとこんなにいいですよ」と。

その時、衝撃が走りました。あのお風呂場で、初めてキャンドルを灯した瞬間を思い出し、その時の感情や想いが一瞬にして駆け巡ったのです。自分がやりたかったこと、自分の人生は自分で切り開くという強い気持ちを思い出しました。同時に自分の心にあかりを灯してくれた経験を伝えていきたいと思ったのです。すぐに「東京 キャンドル 体験」と検索し、その日の帰りにキャンドルを作りに行きました。

キャンドル教室に通い始めてすぐに、著書の先生から「キャンドルの専門家です、と言ってご覧なさい」と言われました。「私には無理です!」と即答しました。でも「いいからまずは名刺を作りなさい。宿題です」と言われたんです。

それまで、「どうせ私なんかには無理だ」と思い込んで、辞める選択をし続けてきました。だからこそ、キャンドルの専門家になると決めることが、どれほど私にとって大切だったか。実際に名刺を作り、出会う方に渡すようにしたところ、野外フェスの空間演出や、都内小学校でのキャンドル教室の依頼が入ってきたんです。そこからどんどん人の繋がりで仕事が来るようになりました。人前に出るのが苦手、話すのが苦手、あがり症、そう思い込んでいた自分が、どんどん変わっていきました。キャンドルを作る時間も、相手に渡すことも、教室も、何もかもが楽しくて夢中になりました。

ただ、都会で活動しているうちに、北海道での生活を思い出すことが多くなってきました。不思議と恋しくなってくるんですよね。小さい頃、祖父母が育てた野菜を取り、土を拭って食べたこと。土や野菜、魚の匂いも、自然のことも、五感が覚えていました。何にもないと思って出てきた北海道でしたが、振り返ってみると自然にあふれ、「魅力的なコト・モノばかりじゃないか!」と、考えるようになったんです。また北海道の自然の近くで暮らしたい、あの自然を生かしたキャンドル作りをしたいと思い、Uターンを決意しました。

26歳で北海道の実家に帰ってきました。でも、いざ帰郷してキャンドルの仕事に取り掛かろうとしても、全く仕事が入りません。ゼロからのスタートで、参加できそうなイベントのチラシを見ては申し込んでいましたね。少しずつ少しずつ、イベントやマルシェで実績を積んでいきました。祖母とドライフラワーを作り始めたのもこの頃です。広い畑をふたりでせっせと耕して、種を繋いでいきました。

あらためて感じたキャンドルの可能性

29歳のとき、函館市にある歴史的建造物の複合施設にお店を構えました。製作体験・キャンドルの販売・技術育成を行い、講師養成・空間演出なども行うための拠点です。

お店の名前は「710candle」にしようと決めました。自分の人生が大きく変わったキャンドルとの出会い。キャンドルは、私の心に喜びと幸せ、安らぎをもたらしてくれました。そんな気持ちをたくさんの方に届けていきたい。色々あったけど、結果オーライ。私をこの世に送り出してくれた母に感謝の気持ちを込めて、自分の誕生日「ナナイチマル」にしました。

お店をオープンした翌年、北海道胆振東部地震が発生。北海道で震度7が初めて観測されました。函館をはじめ道南地方で、大規模停電が起こりました。

キャンドルの正しい使い方、火災の原因にならない灯し方を伝えながら、300個以上を無償で配布しました。お店にある原材料をかき集めて片っ端から製作しましたが、すぐに底をつき、売り物のキャンドルも無償でお渡しすることに。そのうち渡せるキャンドルが少なくなってきて、他の売り物を大きな鍋に入れて溶かしました。このときは蔵にお店を構えていて、電気がなかったため、口に懐中電灯をくわえたり携帯のライトで照らしたりして、なんとか作ったんです。受け取りに来れない山奥に住んでいる方、高齢者の方もいて、お孫さんとやりとりしながら、私たちで手分けして汗だくになって走り回りました。受け取った皆さんが、笑顔になってくれました。

地震で最も震度が高かったのは、厚真町。その役場職員が友人で、状況を聞き、車いっぱいに支援物資と原材料を積み込み駆けつけました。その後数ヶ月通いましたね。外で無料キャンドル教室も行いました。大人も子どもも、目をキラキラさせて楽しんでくれました。あるお母さんが涙ぐんで、「久しぶりに子どもが心の底から笑った顔を見られた気がする!」と言っていて。体育館での避難生活は、電気が消えるのも遅いし、興奮気味になりがち。日中は横になって休んでいる人もいるので「静かにしなさい!」と注意するのが当たり前になっていたようです。それで、子どもの表情がどんどん曇っていったと。キャンドルは生活必需品ではないけれど、たくさんの人に笑顔になってもらうことができるんだと、あらためて実感しました。

710candleのキャンドルには、冠婚葬祭の装花や、プロポーズに使用した花束など、思い出の花をお預かりして作るものがあります。真ん中だけ溶けていって継ぎ足し可能な、サスティナブルなキャンドルなんです。それでもやっぱり皆さんもったいなくて、普段はしまってるんですよね。

それが、この震災をきっかけに灯して下さり、「不安な夜が心温まる夜に変わったよ!」とうれしい声がたくさん届きました。他にも、亡くなられたお母さんとの思い出のひまわりを入れたキャンドルを灯した方は、「いつもは別々の部屋で過ごしているみんながリビングに集まり、楽しい思い出話に花が咲いた!」と仰いました。また、「プロポーズの花を使ったキャンドルを灯して、思い出してうれしい気持ちになれた!」という声も。一人ひとりのストーリーがうれしかったですね。

お店でも、どうやったらお客様を感動させることができるのかを、日々考えました。例えば、ご主人が亡くなられる前に、クロスのネックレスを手渡された方がいました。「星になったと思って。いつも空から見ているよ」という言葉を遺してくれたとのことでした。それで、「この十字のクロス部分をキャンドルに入れられないか」という相談を受けたことから、天の川のキャンドルが生まれました。星がちりばめられたようなキャンドルで、灯すと様々な星の部分が透けるのです。丁寧にチェーンから取り外し、クロスを埋め込みました。奥様は、震えながら涙を流して喜んで下さいました。

その後も、毎日手を合わせるときに灯して下さっているようです。もちろん、定期的にお店に持ってきて下さり、継ぎ足しを行って繰り返し使っていただいています。最近は自宅で簡単にできる継ぎ足しキットも発明したので、より気軽にキャンドルを灯せるようになったと喜んでいただいているんです。

人の心にアカリを灯すために

現在は、函館の谷地頭町に移転させた710candleを運営しながら、生徒さんに向けて技術も教えています。北海道から鹿児島、全国から学びに来て下さいます。お店は10代から50代まで、賑やかな雰囲気でスタッフ6名が交代で出勤しています。

お花がぎっしりと敷き詰められたキャンドルが人気で、約9割は地域のお花です。私と祖母が育てた草花も、ドライフラワーにしています。

また、火を灯すと写真や直筆のメッセージが浮かび上がってくるキャンドルも発明しました。誕生日やサプライズ、プロポーズ、お祝いの場、終活など、皆さんに好評をいただいています。相手の心にアカリが灯った瞬間は、こちらも本当にうれしくなりますね。

キャンドルは、オシャレなだけじゃない。インテリアとしても可愛いですが、やはり灯すことに意味があると私は考えています。灯して終わりがもったいないという思いから、どうにか灯すハードルを下げたくて、継ぎ足し可能なキャンドルも多数作っています。

灯すと、自然界にのみ存在する不規則な「1/fゆらぎ」によって、人やペットにも癒し効果があります。生体に心地よさなど快適な感覚を与えてくれるんです。また、脳内のβ派がα派に変化していき、リラックスはもちろん、ひらめきも出やすくなるとのこと。人の脳は、ひらめいたとき脳内の電気信号により光りますが、ぼ~っとリラックスしている時もぼやっと光ることがわかっているそうです。キャンドルを、アイデア出しのツールとしても、取り入れてみていただきたいですね。

私がキャンドルの道に進むキッカケになった、お風呂でキャンドルを灯すという行為。これも、月に一度から二度、ぜひ試してみてほしいです。お母さんのお腹の中に居た胎児の状態に近くなるといわれています。普通に灯すよりもリラックス効果が高まりますよ。あえて香りを付けていないものも多いので、ロウが溶けたら一旦火を消して、ロウだまりにオイルを1、2滴垂らして爪楊枝で軽く混ぜてから火を灯すと、アロマキャンドルに変身します。気分によって毎日香りを変化させることもできるのです。

キャンドル以外にも、息子のアトピー改善がきっかけで、腸内環境についての講演会を年間2000人以上に行っています。オンラインで月に数回の他に、特に鹿児島、東京、大阪、札幌に呼んでいただいていますね。

また、地元で食育活動も行なっています。「ななえの食を考える会」という主婦で立ち上げた会です。食材や食文化を、食のふるさとを次世代に繋げていく取り組みで、様々な公的機関から表彰もされています。

あとは、絶滅してしまった和綿の栽培も始めました。横5メートル長さ30メートルのハウスで育てています。和綿は150年前には日本で広く普及していたんです。自給率100%だったのが、今では政府の統計上ゼロ。「食の自給率は気にするのに、衣の自給率はどうなんだ?」と考えています。和綿は繊維がとても短く、湿気が続く梅雨の時期にも皮膚にまとわりつかずに、心地よく過ごせます。その和綿をイチから栽培し、キャンドルの芯やアトピーの子ども向けの下着にするプロジェクトを進行中です。

種って分け合えることができるんですよね。和綿の種をお店で無料配布しているんです。一つの種からたくさんの数の種がとれて、分け合うことができる。凄いことだなと、植物を通して学んでいます。そういえば、祖父母が育てていた作物も、少し多めに作ってご近所にお裾分けしていました。心もそうだな、分け与えることができるんだなと思っています。
様々な活動を行っていますが、全ては「目の前の人の心にアカリを灯す」ことに通じています。誰かの力になれるなら、喜ばれるなら、目の前の人が笑顔になってくれるなら、それが私の原動力となります。

これらの活動を通して、私の心のアカリをお渡ししていけたらうれしいです。キャンドルでも、和綿栽培でも、花畑でも、腸内環境についてでも、食育活動でも、老若男女問わずいろんな人たちが集まって、楽しみながら活動したい。自分たちができることから、楽しんでやれればいいんじゃないかなと思っています。

私は、スマートフォン一台で起業しました。そして、それがキッカケで省庁主催のイベントで、北海道代表として登壇させていただくまでになりました。昔は芋しか食べるものがなかった自分がです(笑)。

今では、毎月3分の1は、日本のどこかに居て旅をしながら仕事ができているし、お店もスタッフが楽しく回してくれています。家のことも、友人のお母さんがアルバイトとして週に2回来てくれ、家事を代行してくれています。仕事を探していた相手も喜び、駆け抜けてヘトヘトで帰宅しても、栄養満点の手作りご飯が食べられる私や息子も大喜びです。そうやって小さな小さな経済を、幸せに回しています。道南地方に拠点となる家を3軒持ち、醤油作り・味噌作り教室なども行いながら、どんどん仲間が全国に広がっていって「毎日が最高に楽しい!」を更新しています。

今後もやりたいこと、夢、いっぱいあります。養蜂場も経営して蝋も自分で生み出したいですし、発酵食品の販売事業も行いたい。この先の未来がどうなっていくのかはわかりませんが、自分の心にアカリが灯った瞬間のように、様々な活動にチャレンジし続け、人の心にアカリを灯していきたいです。

心に、アカリを。

インタビュー・ライティング | 佐野 千絵
この連載記事は、自分らしく生きたい人へ向けた人生経験のシェアリングサービス「another life.」からのコンテンツ提供でお届けしています。※このインタビューはanother life.にて、2021年7月8日に公開されたものです。

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