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連載 | フィロソフィーとしての「いのち」 | 19

いのちは、はしりだす

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わたしは近所を散歩するのが好きだ。散歩はただ歩くこと。目的も行き先もないから自由で楽しい。未来を規定せずに今を楽しむには、遊びのように目的がないことが一番だ。子どもと歩いていると、突然走り出すことがある。頭で考えているわけではない。先の場所に何かがあるから走っているわけでもない。何かから逃げようとして走っているわけでもない。ただ、走りたいから走る。体が勝手に走ろうとしているのだ。頭で合理化する必要もない。子どもの体は、そうした目的のない行為に満ちている。

子どもが突然走り出す光景を見ていて、目的もなく走ることができるのは「いのちの勢い」に忠実だからなのだろう。大人は突然に走り出すことはない。ただ、子どもの真似をして突然意味もなく走ってみると、この上なく自由で爽快な気持ちにもなる。大人は、こうした体の「勢い」のようなものを抑制し続けているのかもしれない。体は走りたい、叫びたい、泣きたい、踊りたい、跳びたい。だけれど、頭からの強い禁止がかかる。禁止された体はやむなく「勢い」にブレーキをかけるが、ブレーキペダルもいずれすり減っていく。「勢い」を抑えつけることで、その力は別の形で噴出しようとする。時には暴力や怒りなどの感情の暴走や、浪費や過食など過剰な行動化となり、形を変えた問題行動へつながっている場合もあるのではないかと思う。おそらく、子どもが突然走る、のは健全な行為だ。

整体の創始者である野口晴哉先生も「勢い」のことを語録の中で語っていたことを思い出す。「勢いが沈んだ者は例外なく死んだが、勢いが潜んでいる者は生きた。勢いが生の状況を示す。しかし、勢いは、目で見えず、勘を磨いて感じるだけだ。同じ水を浴びても勢いの弱い者は風邪をひくが、勢いのある者は風邪をひかなくなる。勢いは悪いはずのものを良くすることもあれば、良いはずのことも悪くなってしまうこともある。勢いとはおもしろいものだ」。こうしたことを語っていた。

子どもはいのちが剥き出しで、「勢い」を水の流れのようにして生きている。水の流れをせき止めるのは、いつも親切な他者である。

長野県・軽井沢町のお隣、御代田町にある複合施設『MMoP』内の『lagom』(スウェーデン語で「ほどほど」の意味)にて、「生活に未知を ~障がいのある方々との創作 ~」の展示を行った。私も所属している『konst』というチームでは、軽井沢町の障害者の方との対話のプロセスから共作を行い、何かしらの製品として世に出すことで、社会との新しいつながりをつくりたいと思っている。そこは医療と福祉と芸術が対等に出合う場だ。社会的に弱さを抱えた人も、魅力や才能を噴き出せる場さえあれば、誰もが喜びに満ちた楽園をその場その場で創造できるのではないかと思っている。自分自身も持っている見えざる偏見や思い込みから脱皮しながら、喜びと共に美しい創造物を介して出合える場を模索している。対話を重ねて創作をしている時、いつも「いのちの勢い」を全身から感じる。「勢い」を抑えつけられない場でこそ、人は自身の魅力を開放できるのだ。あなたの心の中でも、きっと子どもが走り出そうとしている。後ろ姿を見失わないように、あなたも全力で追いかけなければいけない。

文・写真 稲葉俊郎

いなば・としろう●1979年熊本県生まれ。医師、医学博士、東京大学医学部付属病院循環器内科助教(2014-20年)を経て、2020年4月より軽井沢病院総合診療科医長、信州大学社会基盤研究所特任准教授、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員、東北芸術工科大学客員教授を兼任(「山形ビエンナーレ2020」芸術監督就任)、2022年4月より軽井沢病院院長。在宅医療、山岳医療にも従事。単著『いのちを呼びさますもの』(2017年、アノニマ・スタジオ)、『いのちは のちの いのちへ』(2020年、同社)、『ころころするからだ』(2018年、春秋社)、『いのちの居場所』(2022年、扶桑社)、『ことばのくすり』(2023年、大和書房)など。www.toshiroinaba.com

記事は雑誌ソトコト2023年11月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。

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