あおっ、えあ、あいいっ、おいっ! えうぅぅぅ。夢うつつに声が聞こえる。まだ陽も昇らぬ早朝にぼんやり眼を開けると、隣でひとり、3か月になった息子が天に高く伸ばした小さな手を見つめながら一所懸命に声を出し続けている。よっぽど集中して、人知れずこっそり喋る練習をしてるのかな。はたまた、大人には想像もできない世界がそこに広がっているのかな。
子どもと暮らす日々がはじまって、そのまんまだけれど、うん、子どもといるなあと毎日感じる。春に向かっていくこの季節のように、暖かくなっては寒くなり、三歩進んで二歩下がり、息子のできることがゆっくり増えてゆく。にこっと微笑むだけだったのが声をあげて笑うようになり、なんでも掴んで舐めてみるようになり、ぐいっと首を起こせるようになったり、やろうとしてできないことがあるとポコスカ自分のお腹を思い切り叩くようになった。泣き叫ぶのが、オシメなのか、おっぱいなのか、飽きたのか、くやしいのか。彼なりに伝えたいことがさまざまにあって、こちらは彼の思いを受け取れるか、読み取れるのか、毎度毎度試される。
この「受け取る」「読み取る」というのがどうも気になっている。先日、『スタジオジブリ』の鈴木敏夫さんのラジオ番組で興味深いことが語られていた。フランスでは、学校の授業で映画がよく使われるらしい。みんなで映画を観た後、日本だと、感想を求められる。感想だから自分がどう感じたか、好きか嫌いか、自分のなかで終わってしまう。でもフランスでは違う。感想はいっさい関係がない。どんな風に物語がはじまって、どのように物事がつながっていったか、皆で思い出しながら話し合う。自分たちがいま観たものを正確に理解する「読み」の訓練をするのだという。「読み書きくらいはできる」と簡単にいうけれど、ほんとうにできてるかなと我が身を振り返る。
相手の伝えたいことを「読み」受け止める。こちらはできる一番の「書き」を相手に伝える。新しく受け取れた分だけ、新しく何かが生まれる。「読み」ができないと、自分の知っていることだけでぐるぐる、何も変化がないかもしれない。なかなか難しいけれど、小さな息子に毎日鍛えてもらおう。
夏からずっと取り掛かっていた朝ドラの音楽が、ようやく形になってきた。最低でも200曲以上必要と言われていたから、今までのやり方では作りきれない。朝起きて、とにかく1曲作ってしまう。どんな曲か覚えないうちに、朝ごはんを食べて、今度は昨日作った曲を整理する。昼ごはんをまたいで、また新しい曲を作る。晩ご飯を食べたら息子とお風呂に入って「今日は4曲作ったけれど、どんな曲やったか思い出せへん」と笑いながら寝る。その繰り返し。そういえば、20歳の頃はこれくらいの早さで曲を作ってたなと、そういえば、あの時はこんな映画が好きだったな、こんな国を旅したなと、次から次へと忘れていた記憶を思い出していく。すると、ぽんぽんと曲が生まれてくる。何かを思い出すと、何かが生まれる。これはおもしろいと、これまでの人生をもっともっと鮮明に思い出してみたくなって、思い出すきっかけになる物や情報を手に入れて、見たり触ったりしてみた。
思った通り、効果てきめんだった。自分のなかに蓄えられた“袋とじの記憶”が、するすると開かれて、団地に響くみんなの声、階段を駆け上がる音、1階のおばちゃんに爪を切ってもらったこと、引っ越ししたての幼稚園で自己紹介したら名前をいじられ落ち込みながら帰り支度をしていたら「明日遊ぼね」と優しい女の子に声をかけられたこと、はじめて食べた卵かけご飯の味、お腹が痛いと言ったらお母さんが急な坂を自転車の後ろに乗せて病院まで運んでくれたのにお腹が空いていただけだったな、怖いと思ってたお父さんが二人きりでラーメン食べに連れて行ってくれてうれしかったけれど鼻血が出て食べられなかったな、別に思い出さなくてよかった何でもない記憶が楽しくて仕方がない。
いままで見てきたもの、聞いてきたもの、体験してきたものすべてがここにあって、助けてくれて、たくさん曲ができた。数年前に亡くなったお隣のエッちゃんも出てきて、「生きてたらいろいろあるけど、この世界はいいところやで」と、とびきりのメロディを教えてくれた。躰ってすごいな、すべて憶えてる巨大な本だな。
朝起きたら、息子がまた大きな声を出している。きらきらの眼で、本当にきらきらしてるので、どきっとする。今日は何をするのかな、何しよう。梅の花を見にいこう、満開やね、甘い香りやねえ、あっ、食べたらダメ。