食を通じた交流を生み出すため、戦時下のウクライナへ
2024年4月、僕はウクライナにいた。
皆さんもご存じだと思うが、ウクライナは2022年から既に2年半ほどの間、ロシアと戦争状態にある。
国内の滑走路はあちこち爆撃を受け、ウクライナに入国するルートは寸断されており、ポーランドか、ハンガリーから陸路で入国するほかはない。入国審査も厳重だ。僕はハンガリー大使館につてがあり、今回インビテーション(招待)を受けていたが、それでも審査に数時間がかかった。銃を構えた軍人と、軍用犬に監視されながらだ。そこからこの度の訪問の目的地であるウクライナ西部の街・リヴィウまでさらに十数時間かかり、リヴィウで現地の友人、アルタムと合流するまでには入国してから丸一日以上が経っていた。
宿につき、ここまで幸運にも没収されずに持ち込むことができた日本からの肉や酒、さまざまな食材や調理器具を降ろす。
僕は森田隼人。料理人をやっている。
ロシアとウクライナの戦争が始まって以来、ずっとここに来たい、来なくてはならないと思っていた。その目的は、戦いのための武器を供与する以外のかたちで、現地の人たちの生活を義捐することだ。それも一過性の寄付やイベントではなく、交流というかたちをもって、日本と現地を結ぶ。僕はこれをチャリティーコミュニケーションと呼ぶことにした。
前書きが少し長くなったかもしれない。ここでは1人の料理人である僕、森田隼人が日本を、そして世界をめぐるなかで見たこと、感じたことを書いていこうと思う。目的はもちろん、世界の平和を食という文化で結びつけることだ。
初回となる今回と次回は、2024年に訪れたウクライナのことを取り上げる。戦争に巻き込まれているウクライナの現状を間近に見て、感じたことをつづっていくつもりだ。日本国内からではなかなか得られない情報を発信することもできると思う。痛々しい戦争の話には耳を傾けたくないという方もいるかもしれない。それでも、僕はここに書くことが日本とウクライナの両国にとって、少しでもいい未来につながる一助になればいいと祈っている。
食から得る「生」と真逆の「死」がにじり寄るウクライナの今
実際にウクライナを訪れてみて抱いた最初の感想は、間違いなく今、戦争に巻き込まれている国だということだ。空港から道路から街、そして人にいたるまですべてがピリッとした緊張感に包まれている。先ほども少し触れたが、ほとんどの空港は爆撃によって破壊されており、残った陸路もあちこちが爆破され、橋が崩落するなどで寸断されていた。
もちろん、日々の暮らしにも大きな影響が出ている。23時以降は「アーミータイム」となり、外出は原則禁止。日本でも数年前の新型コロナウィルス感染症の流行時は早い時間に街の灯が落ちていたが、あれをより一層厳しくしたものと考えてもらえばいい。ひとたび攻撃が予測されれば時刻を問わずたたましい警報が鳴り響く。どこに爆弾が落ちるかわからない。「友達の友達が爆撃で死んだ」くらいの話は日常茶飯事だ。従軍から帰還した人の中には腕を失ったり、目を失ったりした人も珍しくない。それくらい死が身近に迫ってきている。
それだけではない、国のあちこちが分断されているので流通も止まっている。かつてはヨーロッパ産のチーズや韓国産の海苔などが人気だったらしいが、今は外国の商品は入ってきていない。すべて国内でつくったものを自給自足してやりくりしている。産業も同様だ。たとえば鉄鋼業に使われる鉄は軍備に優先的にあてがわれており、商品を製造することもおぼつかない。
僕が滞在したリヴィウはヨーロッパ文化の影響を色濃く残す古都であり、歴史的建造物が立ち並ぶエリアはユネスコの世界遺産にも登録されている。日本で言えば京都ほど規模が大きいわけではないが、熱海のような街を想像してもらえるといいかもしれない。戦前は恐らく観光客でにぎわっていたかと思うが、今はその面影はない。貴重な歴史的遺産は爆撃による爆風などから保護するため、灰色のカバーがかけられていた。そんな歴史のある街だからか、リヴィウの市街はそれほど激しい攻撃にさらされてはいない。それでも近郊にある変電所などのインフラはロシアの攻撃を受けているのだそうだが。
ウクライナの人々のグラマラスな気高さと団結力に心を打たれた
リヴィウの街にいる観光客はゼロで、アジア人も僕一人だった。そのためか、街の人は僕を見ると不思議そうな顔をした。それはよそ者を見る目線ではなく、「どうしてここに?」という純粋な疑問の視線だった。僕は敢えて、レストランや売店では積極的にコミュニケーションを取るようにした。戦争の当事者となっている人たちが今どういう思いでいるのか、それを知ることも今回の訪問の目的であるからだ。
たくさん話を聞いて、もっとも強く感じたのはウクライナの人たちの団結力だった。彼ら、彼女らは誰一人として戦争を望んではいない。しかし、だからと言ってこの戦いから逃げ出そうとは考えていなかった。このことは僕にとって少なからず衝撃的だった。少し考えてみてほしい。もし今、日本が戦争に巻き込まれたとしたら。僕たちは全員が一丸となって戦いに立ち向かうことができるだろうか。決して少なくない数の人が、目の前の戦いから逃れようとするのではないだろうか。
だが少なくとも、僕が話を聞いたリヴィウの人たちは誰一人、戦争から目を背けようとはしていなかった。「必ずこの戦いに勝利する」、口をそろえてそう言っていた。それは決してロシアへの敵意や好戦性ではなく「自分たちが自分たちで居続けられるようにする、そのために戦う」という決意表明だった。「プライド」や「気高さ」と言ってもいいかもしれない。彼らは確かに苦境に立っている。国土も、経済も破壊されているし、人命も失われ続けている。だが、それでも安易な逃げには決して走らない。なぜかと言えば、逃げてしまえば彼らは彼らでなくなってしまうからだ。そうならないために、何があっても戦い、そして勝つつもりでいるのだ。僕はそれを聞いて、とてもグラマラスな国民性だなと心の底から感じ、彼らに惹かれる思いがした。
もちろん、彼らはただ意固地に自分たちを守ろうとしているのではない。「どうしてこんなことになってしまったのか」という嘆きの声も小さくはない。国の指導者であるゼレンスキーへの不信感は根強い。この度の戦争は彼の売名行為に起因するものだと考えている人もいる。ただ、そうした個人個人の政治的、経済的なスタンスを超えて、彼らはみな目の前の戦いに勝利することを望み、耐えている。自分たちが自分たちであり続けるために。
食でつながる「チャリティーコミュニケーション」の行方は…?
今回は、ウクライナを訪れてのファーストインプレッションと、そしてリヴィウに滞在するなかで感じたウクライナの人たちの気高い国民性について触れた。それを踏まえて、次回は僕がリヴィウで開いたチャリティーコミュニケーションの様子について語りたいと思う。予告の意味を込めて少しだけ話しておくと、2日間のチャリティーコミュニケーションで100人以上の人に料理を振る舞い、100万円以上の寄付を集めることができた。これらはすべて、ウクライナの子供たち、特に孤児を支援する取り組みに使われる。意外かもしれないが、彼らは日本のことも知っていた。スシ、テンプラ、しゃぶしゃぶなどの料理も知っていた。そんな彼らに僕がどんな料理を振る舞い、現地の人たちとどう絆を結ぶことができたか、それを伝えたい。
今回の滞在とチャリティーコミュニケーションを経て、現地の人に話をうかがった様子は以下の動画でもお伝えしている。ウクライナには悲しいことだけでなく、楽しいこと、喜ばしいこともある。それをぜひ見てみてほしい。
この手記や動画を見て感想などは、僕のSNSに送ってもらえるとうれしい。
森田隼人Xアカウント(@crome99)