広島平和記念公園から命の喜び・感謝・つながる思いを発信。「ひろしま音~楽まつり」とは

広島平和記念公園から命の喜び・感謝・つながる思いを発信。「ひろしま音~楽まつり」とは

2022.10.22

今年で7回目を迎えた「ひろしま音~楽(おんらく)まつり」が、8月6日無事に広島平和記念公園で開催されました。いったいどんな人が、なんのために行っているお祭りなのか、実際に現地を訪れたときの様子を交えて紹介します。

「広島」と聞いて思い浮かべるものは? 音楽祭をしようと思ったきっかけ

みなさんは、「広島」と聞いて何を思い浮かべますか。「ひろしま音~楽まつり」の主催者である岩田雄大(たけひろ)さんは、広島で生まれ育ちました。世界一周の旅に出た岩田さんに、世界中の人々が問いかけます。

「どこから来たの?」

ひろしま音~楽まつり
「ひろしま音~楽まつり」実行委員会代表:岩田雄大(いわたたけひろ)さん。広島生まれ広島育ち。16歳で歌をうたいはじめる。 2013年「one love jamaica festival」で審査員特別賞を受賞。写真提供:ひろしま音~楽まつり

岩田さん「HIROSHIMA(ひろしま)」

と答えると人々の顔から笑顔が消え、同情、あわれみ、心配、怒りへと変わっていきました。

岩田さん「一度も、広島のことを知らない人には出会いませんでした。インドの農村に行ったときも、昔盗賊の隠れ家になっていたメキシコの街に行ったときも、モロッコの列車のなかでも、キューバの港でも、ベトナムの山奥でも、出会った人はみんな当然のように、私の故郷である広島を知っていました」

モロッコの人たち
岩田さんが世界一周の旅で出会った、モロッコの人たち。写真提供:岩田雄大

旅のなかでこの質問に答え、人々の顔から笑顔が消えていく様子を何度も目にするうちに、「広島と答えることが辛くなった」と岩田さんは言います。帰国したあとも、世界の人たちが広島と聞いたときに笑顔になれる発信はないだろうかと模索し続けていた岩田さん。そしてたどり着いたのが、平和を願い、祈る音楽祭の開催でした。

岩田さん「原爆を落とされたあとも諦めずに、復興してきた広島の人たち。その心意気・生きる術や知恵を共有し、怒りではなく感謝を、悲しみではなく生きる喜びを、不安ではなく希望を、世界の人々に発信することで勇気を与え、笑顔に近づけられるのではないかと感じました」

これまで起こったことを受け入れ、後悔ではなく経験を生かして未来に向けての前向きな動き、想い、方法を発信していける場所として国を越えて、性別を越えて、人種を越えて、世代を超えて、結びつながる場としたいという想いで、音楽祭を続けているそうです。

福岡県星野村から「広島原爆の残り火」を持ち歩くウォーク

「広島原爆の残り火」を入れた羽釜を手に、広島平和記念公園を目指して歩く。
「広島原爆の残り火」を入れた羽釜を手に、広島平和記念公園を目指して歩く。写真提供:ひろしま音~楽まつり

77年前、原爆が投下された焼け跡から遺品代わりに持ち帰られた「広島原爆の残り火」が、今も福岡県星野村で灯し続けられています。

今年の2月、岩田さんは火を焚く暮らしをしている友人の家で一週間過ごしました。朝起きてすぐに火を焚いて暖をとり、火で料理をする暮らし。その後、自宅で火を焚く暮らしを始めた岩田さんは、家のなかで火を焚き、煮炊きし、火を見つめながら自分を見つめるなか、今年のお祭りのテーマが「火」であることに気がついたそうです。

岩田さん「火を中心に開催するなら、灯す火は『広島原爆の残り火』以外には考えられませんでした。簡易的な方法での運搬ではなく、持ち歩き、祈りながらその時間の感覚のなかで8月6日の広島平和記念公園を目指すことに意味を感じました」

7月24日、岩田さんは「火を持ち運び祈るウォーク」として、6人の仲間たちと福岡県星野村から広島を目指して歩き始めました。2週間で287キロを歩き、火とともに広島平和記念公園に戻ってくるという行程です。

広島原爆の残り火
広島原爆の残り火 写真提供:ひろしま音~楽まつり

夜明け前に起き、毎朝仲間と火とともに祈りをささげ、この火で炊いたご飯を食し、20キロのリュックを背負い、ひたすら歩を進めました。足には豆ができ、荷物が食い込む肩の痛みを抱えながら。そして8月6日の午前0時、広島平和記念公園にたどり着いたのです。

実は、13日間をともにしてきた火が、爆心地から4.5キロ地点で消えてしまいました。「その瞬間は、誰もその事実を受け入れることができませんでした」と、岩田さんは言います。再び火を焚いて火を囲み、これまでの行程を振り返り、起こったこととその意味を問いかける時間が生まれました。

岩田さん「その日の朝に出会った、『順風のなかで自身を見失い、逆風のなかで自身に出会う』という言葉を思い出しました。火が消えるまでの私たちは、火の巡礼をほぼやり遂げた充実感と、広島まで歩いてこれた達成感に満たされていました。まさに順風のなかにいました。しかし、火が消えた瞬間から突然逆風へと変わったのです。 そして逆風のなかで自分自身の心に灯っていた火の存在に気づき、残り4.5キロを私たちは無言で歩きました。音楽祭は、それぞれの心に灯った火を中心にして開きました」

次のページでは「爆心地HIROSHIMAから、喜びと感謝を発信」を紹介します

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