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東海道本線が「名古屋 ‐ 草津間」で“中山道沿い”を通っているのはなぜ?

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日本の大動脈として多くの列車が毎日行き交う東海道本線。「東海道」という名前が付いているのですが、滋賀の草津から岐阜、名古屋の熱田に至る区間は旧五街道の東海道と離れて中山道や美濃路を通っています。東海道建設の歴史を紐解くと、明治政府は元々中山道ルートに東京と京都を結ぶ鉄道の建設を計画していたそうですが、それが逆転し、東海道のルートが誕生したようです。では、なぜ岐阜を中心としたエリアだけが中山道沿いのままのルートが採用されたでしょうか。その謎を探ってみたいと思います。

目次

当初は「中山道ルート」で検討されていた鉄道布設

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東海道・中山道ルートの主な測量ルート(参照:『地形で謎解き!「東海道本線」の秘密』、一部推測)
明治政府は、国力を強化するため、東京と京都・大阪・神戸を結ぶ官営鉄道の建設を決めるのですが、太平洋沿いの東海道ルートか、山周りの中山道ルートにするかで最初は迷っていたと言われています。

東海道ルートには船便があり、街道整備も進んでいたことから、鉄道が開通しても需要が不明で、中山道ルートは山間部の開発が伴い、経済効果はもちろん、国防などでも効果があることから明治16年(1883)10月23日、一旦、海岸線から離れた山周りの中山道ルートで建設することで採択されました。(※1)

しかし、測量を開始してみると、中山道ルートは長野・岐阜の地形が思いのほか険しく、工事の難所が多いことが判明。標高差が552mほどある碓氷峠や和田峠、塩尻峠、馬籠峠などがその典型です。それと比較すると東海道ルートは最大の難所は山北~御殿場間で、勾配も緩め。路線建設費も中山道ルートの1500万円に比べて東海道ルート1000万円で済むことが判明したそうです。(※2)

日本の鉄道の父と言われており、官営鉄道の整備に尽力した井上勝が当時の総理大臣伊藤博文に東海道ルートで建設すきことを上申し、明治19年(1886)7月13日に閣議決定。それ以降、東海道ルートの工事が順次着工されていったのだと言います。(※2)

(※1)『名古屋駅物語 明治・大正・昭和・平成~激動の130年』徳田耕一著/交通新聞社親書 16-17項
(※2)『地形で謎解き!「東海道本線」の秘密』竹内正浩著/中央公論新社 16-18項

東海道本線は「東海道」という呼称に忠実でない区間も存在

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旧東海道と東海道本線(在来線)を地図上で比較。東京~浜松間は両ルートに大きな違いはない。(参照:『近代日本と鉄道史の展開』)
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東海道本線(在来線)の名古屋~草津間は明らかに旧東海道とは違ったルートをとっている。(参照:『近代日本と鉄道史の展開』)
地図上で東海道本線(在来線)とかつての歴史的な概念としての東海道を比較してみると、必ずしも一致していない区間があります。特に、名古屋~草津間においては、かつての東海道とは違ったルートをとっていることがわかります。そのルートをよく見ると大半が中山道や美濃路の一部にあたっていることがわかります。

では、なぜ東海道本線は、東海道という名前にも関わらず、その約4分の1に渡る名古屋~草津の区間で中山道ルートに拠っているのでしょうか。その謎を探りたいと思います。

「難所を避けるため」に決定された名古屋-草津間ルート

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東海道本線・JR岐阜駅を上空から眺める。JR岐阜駅のすぐ南には中山道の加納宿がある。(©写真AC)
明治22年(1889)7月に全線が開通した東海道本線ですが、前述の通り、「東海道」という名が付いているものの、名古屋~草津間においては明らかに、いわゆる「東海道」とは違ったルートを採っています。名古屋駅から北上して中山道の加納宿に近い岐阜駅に向かうルートとなり、そこから大垣へ西に向かい、中山道沿いに垂井などを通り琵琶湖湖畔を南進するルートとなっています。

東海道ルートの調査にあたったのは佐藤与之助と小野友五郎という人物で、『東海道筋鉄道巡覧書』によると、「トンネルの掘削をできるだけ避け、山があれば迂回して切割や掘割で対処するという方針のもとに、東京から熱田(名古屋の南)までは東海道を行き、熱田からは美濃路の西方を進んで中山道につないで京都に達する」と書かれています。(※3)

熱田から北上して美濃路に入り、中山道を採ったことについて、名古屋以西は「佐屋、桑名ノ難所及鈴鹿峠ヲ避クル為中山道二迂回シ清州、大垣、米原ヲ経テ草津、大津二由り京都、大阪二達スルモノ」と書かれており(※4)、従来の東海道で通るはずの七里の渡しを通る桑名周りのルートは技術的に困難であるとして棄却されていることがわかります。

(※3)『日本鉄道史  幕末・明治編 』老川慶喜著/ 中央公論新社86頁/びわ湖鉄道歴史研究会「東海道鉄道敷設の歴史Ⅰ」資料(2018年9月8日)
(※4)びわ湖鉄道歴史研究会「東海道鉄道敷設の歴史Ⅰ」資料(2018年9月8日)
https://biwakorail.web.fc2.com/doc/20180908tokaido_line1.pdf#zoom=100

【長浜~大垣間】予算の関係上、少しずつ開発が進んでいた鉄道建設

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東海道本線全通開通までの年表(参照『地形で謎解き!(参照:「東海道本線」の秘密』竹内正浩著/中央公論新社 19項)
明治政府が鉄道布設を中山道ルートか東海道ルートかを決めかねている間に、中部地区や関西、北陸地区では、資材輸送等を目的として鉄道の整備が部分的に進められていました。

それまでに進んでいたのが、日本海と太平洋を結ぶための、琵琶湖~敦賀間の鉄道建設と、大津~神戸に至るまでの鉄道建設で、その中の長浜~大津間は琵琶湖水運で結ぶことで、当時優勢だった中山道ルートの一部も構成してしまおうという戦略的な開発が行われていました。

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建築師長を務め、中山道ルートを測量していたお雇い外国人のリチャード・ボイルの提案した中山道線(参照:『地形で謎解き!「東海道本線」の秘密』竹内正浩著/中央公論新社17項など)
中山道ルートを調査していたイギリス人建築士のボイルは、米原~敦賀の支線や名古屋~加納(現在の岐阜駅)の南北の支線を交えることで、日本海からの流通や熱田港からの流通も可能になるため、中山道ルートを採ることが南北の両海岸を結ぶことができ、おすすめだとする報告書を出しています。(※5)

当時、西南戦争などもあり、国は財政に余裕がなく鉄道整備事業は滞っていました。その中でなんとか東西をつなぐ鉄道を整備したいと考えていた井上勝は、少しでも建設を進めるため、西南戦争が終わった明治11年(1878)8月に大津(馬場、後の膳所)~京都間と米原~敦賀間の区間を先んじて着工させることにしました。この時点ではまだ東西連絡線(現在の東海道本線)の全区間に着工することはできず、とりあえず日本海からの資材輸送を便利にする区間の建設することになったのです。(※6)
 

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敦賀~長浜、京都~馬場(膳所)の鉄道建設(参照:Wikipedia「中山道幹線」)
井上勝はボイルの調査を踏まえ、できるだけ予算を掛けず、短工期で計画を実現するため、琵琶湖は船舶連絡で代用することとし、勾配のきつい路線は変更するなども行い整備を進めました。また井上勝は、将来東西の鉄道をボイルの調査した中山道ルートで結ぶのが適当ではないかと考えていたため、米原からではなく直接長浜から関ケ原に出る経路の方が有利だとして、長浜~米原間の建設は後回しにしました。(※6)

さらに井上勝は、長浜~関ケ原~大垣と結べば、大垣は名古屋にも結べ、太平洋側の港場である四日市にも結べるため必要だと説き、明治17年 (1884)5月25日、長浜~関ケ原~大垣までが全通しました。ただし、四日市まで結ぶという輸送ルート計画は、その後に、あまり実用性がないとされ、四日市には繋がれませんでした(理由は後述)。(※6)

(※5)『日本鉄道史 上篇』鉄道省編  408-409項
(※6)『近代日本と鉄道史の展開』宇田勝著/日本経済評論社 23-28項、 地形で謎解き!「東海道本線」の秘密』竹内正浩著/中央公論新社 138項

【名古屋~武豊間】大垣-四日市を結ぶ構想もあったが取りやめ

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武豊~名古屋、名古屋~加納(現在の岐阜駅)~大垣の鉄道建設(参照:Wikipedia「中山道幹線」)
大垣以東の鉄道建設にあたり、資材運搬線の必要性を感じた井上勝は、明治17年(1884)5月2日に、垂井~四日市間の工事を上申し測量が始まりましたが、結果は思わしくありませんでした。途中、低湿地で大小の河川があり、開通までに時間や予算がかかることがわかったのです。(※7)

その後、井上勝は中山道線の資材運搬線として、垂井~四日市線と、半田~名古屋線を比較。その結果、半田~名古屋の方が工事が容易だとなり、明治18年(1885)6月20日に半田線の敷設が認可されました。6月30日には半田線と尾張線(熱田~加納(現在の岐阜駅))の敷設も許可されました。(※8)

半田周辺港域の荷揚げをより便利にするため、半田より少し南の武豊海岸に線路は延長され、明治19年(1886)3月1日に熱田~武豊間、5月1日には名古屋~武豊間が完成しました。これは、現在武豊線と言われている区間です。(※8)

(※7)『日本国有鉄道百年史』2  221項
(※8)『地形で謎解き!「東海道本線」の秘密』竹内正浩著/中央公論新社 106-108項

【名古屋~加納(現在の岐阜駅)~大垣間】難工事の木曽川三川の橋梁工事を経て全線開通

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木曽川三川の鉄道橋はイギリスで製作されて日本に運ばれた。東海道本線開通当時、大垣市にかけられた揖斐川橋梁は今なお現在地にかかり、自転車・歩行者専用橋として使われている(国指定重要文化財)。
最後に着工された区間は名古屋~加納~大垣の区間です。明治政府はそれまで中山道ルートにするか東海道ルートにするか迷っていたようで、なかなか全線開通が進みませんでしたが、明治19年(1886)7月13日、「東海道ルートでいく」と決定されました。

既に中山道ルートが有利だった時に建設されていた大垣~関ケ原~長浜間が開業していたことから、東京~大阪全線を結ぶルートとして、名古屋~草津間は東海道ではなく、美濃路と中山道に沿うルートの方が工期が半分に抑えられるとして、名古屋~加納~大垣の区間を繋ぐことにしたのです。

明治19(1886)年4月1日に熱田~清州間が開通、5月1日に清州~一宮間が開通、6月1日には一宮~木曽川間が開通し、順調に路線路伸ばしていきました。この地域には庄内川、木曽川、長良川、揖斐川があり、河川多数の水難地で工事は難航していたようですが、明治20年(1887)1月21に加納~大垣間が開通、4月25日に木曽川-加納間が開通し、このエリアの武豊-名古屋-大垣間が全通しました。(※9)

このような経緯を経て、東海道本線は少しずつ部分的に開業を重ねていき、明治22年(1889)に東京~神戸までの全線が開通する運びとなったのです。

(※9)『地形で謎解き!「東海道本線」の秘密』竹内正浩著/中央公論新社 110-111項

まとめ

筆者は岐阜県在住で毎日のように東海道本線に乗っているのですが、「岐阜県には東海道は通っていないのに、なぜ東海道本線と言っているのだろう、岐阜県内の東海道線のルートはほぼ中山道なのに…」ということが疑問でした。今回、東海道本線の歴史を調査してみて、中山道ルートと東海道ルートどちらで鉄道布設をするのかを最後まで迷っていたこと、そして、予算や工事やりやすさなど関係がその一因だということがわかりました。

東海道本線布設の時は幻となった中山道ルートですが、歴史は流れ2027年、リニア中央新幹線の開業の際には、再び中山道ルートの一部であった中津川に駅と車両基地ができ、再び注目を浴びそうです。東海道本線が敷かれたことで、岐阜は、岐阜駅や大垣駅など県内の西北エリアを中心に発展を遂げてきました。リニアの開通で今後、中山道エリアである東濃地域がどう変わるかを見守っていきたいなと思いました。

文・各務ゆか

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