大分県日田市に惚れ込み、地域おこし協力隊となって移住した上戸木綿子さん。たくさんの経験を積みながら、自分が大切にしたいことを探した3年間、地域おこし協力隊ならではの悩みもあった。生き方を見つけ、自分らしく日田で暮らすようになるまでの道のりは、次の誰かの背中を押すきっかけになるかもしれない。
協力隊を終えてなお、日田で自分らしく生きる
福岡県と熊本県の県境に位置する大分県日田市。天領の町として栄え、今もなお古き良き町並みや風景、文化が息づく地域だ。長崎で作業療法士として働いていた上戸木綿子さんは、大分県の日田に惚れ込み、2017年に地域おこし協力隊(以下、協力隊)となって移住した。今では協力隊としての3年間の任期を終了し、卒業して1年目になる。
今の仕事や活動の概要は、主にヨガ・インストラクターとして活躍。毎日数件の依頼やヨガ教室があり、仕事帰りのママさんやシニアの皆さんなどを対象としている。ほとんどの参加者が、上戸さんの繋がりや地域おこしをする中で生まれたご縁がきっかけ。協力隊として日田市への移住が決まってから、赴任する前にインストラクターの資格を取得した上戸さん。終わった後の充実感は何にも替え難く、上戸さんのライフスタイルの柱となっている。
もう一つの軸は、一般社団法人NINAUの元で活動する「おとな先生コーディネーター」。日田の全小中学校を対象にキャリア教育を実施する予定であったが、新型コロナウイルスの影響で方向性を見直し中だ。オンライン上で展開するなどの今できる形を模索中とのこと。
その他、大分県の地域おこし協力隊サポートチーム、日田市の観光PRキャンペーンレディなど、多数の顔を持つ。協力隊となってから自身のキャリアを確立させることは容易なことではないが、上戸さんの生き方には地域おこしだけに留まらない、“上戸さんらしさ”が感じ取れる。どうして日田へ来たのか?どのように今のライフスタイルを形にしてきたのか?上戸さんの協力隊としての3年間の軌跡を辿る。
美しい三隈川の虜に…
きっかけは、友人の出産祝いに日田まで会いに行ったことだった。最初は観光する時間を持たなかったが、ゲストハウスへの宿泊などを普段から好んでいた旅行好きな上戸さんは、もう一度日田へ足を運ぶ。この時に選んだのは、やすらぎGuest house&Bar。元料亭をリノベーションして作られたゲストハウスは、水郷・日田のシンボルである三隈川の側に建っていた。
三隈川沿いを散歩している時に感じたのは、心落ち着く安らぎと、細胞の一つ一つが喜んでいるような高揚感。日田に行く前から、友人から「あなたは日田のこと気に入るよ」と言われていた。今でも鮮明に思い出すことができるくらい、この時に体感した感覚は上戸さんを魅了してしまったのだ。長崎に帰ってきてからも、毎日何度も日田を想い、日田で暮らす自分の姿を想像してはあの時の感覚を思い出した。まさに、上戸さんは日田に惚れ込み、恋に落ちていた。
それから月に1回は日田へ通うような生活を半年間ほど続け、何度もその魅力と自分の気持ちを確かめた。いつもゲストハウスのやすらぎに泊まり、三隈川や古い町並みに触れる。やっぱり日田に住みたい。一番最初の直感は、徐々に確信へと変わっていった。上戸さんは市役所にアポを取って相談してみたり、親を説得するために入念な準備をしたりと、具体的に動き始める。
長崎で作業療法士として働いていた上戸さん。日田に行っても、病院で勤務することはできた。しかし、あの時感じたワクワクする気持ちのせいか、何か自分も新しいことを試してみたい、新しい世界に飛び込んでみたいと思った。そうして選んだ道は、ただの移住ではなく、地域おこし協力隊として日田へ移り住むことだった。
学びと迷いの協力隊1年目
協力隊として日田にやってきて3ヶ月後、九州北部豪雨が起きた。日田は甚大な被害を受け、上戸さんは自分の住む地域よりも被災地での災害ボランティアに参加する日が続くことに。
全国各地からNPO団体や災害支援ボランティアが集まってきては、ともに復旧作業に取り組み、仲間と対話する組織のリーダーたちの姿に触れる。「ファシリテーション」というものに初めて出会い、その重要性を知った。上戸さんは、これから続けていく地域おこし活動の中でも必要なスキルだと感じると同時に、ファシリテーションは今までやってきたリハビリと似ていたと言う。
作業療法士の仕事は、患者さんに社会的な役割をもう一度獲得してもらうこと。その人の仕事は?子どもがいて子育て中?今までどんなことを大事にして生きてきた?病院に来る以前に、帰る場所があり、その人の人生がある。それをもとに患者さんのリハビリを設計し、共に生活力や社会的役割を取り戻していくのだ。兎にも角にも、対話を通して患者さんのことを知らなくては始まらない。同じ対話でも、リハビリは1対1だが、まちづくりは多数の人を相手とする。色々な声を掬い上げるため、そして内なるその人らしさを引き出すためには、ファシリテーションというきちんとした技術・声の聴き方があるのだ。上戸さんはその後、ファシリテーションを全国各地で学んで回るほどに熱が入っていた。
そうして、協力隊を始めてから1年目が過ぎようとしていた。上戸さんは「ずっと誰かの手伝いではだめ、自分でも何かやらなきゃ」というアドバイスを受ける。これも“協力隊あるある”らしい。地域のために、住民のサポートをするために、そう思って行動しているうちに、ずっとお手伝いさんのような立ち回りになってしまうのだ。よし、私も何か企画してみよう。上戸さんは自主イベントをやってみることにした。
日田の魅力を体験してもらうべく、隠れた名所でお茶会を開催。自ら山の中にある会場の整備をしたり、お世話になっている飲食店にも食事を提供してもらうなどして、イベントは成功に終わった。
盛会に終えたイベントはとても良かったのだが、同時に疲労感が大きく残った。初めて一から企画をしてみて、その大変さを身に染みて感じたという上戸さん。とてもではないが、これを継続的に開催していく体力も体制も無い。何かを自分の手でやってみるのは、こんなに大変なことなんだ。これも、一歩踏み出してみなければわからなかったことだった。
協力隊としての在り方に迷い始める。
協力隊2年目:転機となるフィンランド派遣
2年目に差し掛かるあたりから、上戸さんは協力隊として自分はどうすればいいのか分からなくなった。辞めたいとも思っていたそうだ。私は向いてないのかな?そもそも地域おこし協力隊ってなに?迷いが生まれ、落ち込みがちな時期に陥っていた。地域のためとはいえ、それが結果となってすぐに出てくるわけでは無い。
上戸さんはよく面倒を見てくれる人に相談を持ちかけ、今の心境を吐露した。返ってきた返答は、上戸さんの心を軽くしてくれるものだった。
「地域おこしなんて言うけど、そんなにすぐに地域貢献なんて出来ないよね。でもせっかく今は時間があるんだから、それが誰かのために生かせることだったら、自分が興味のあることを勉強する時間に充ててもいいんじゃない?あんまり“みんなのため”って考えすぎることないよ」
気負わなくていい。この人の言葉をもらって、上戸さんの視界が晴れてきた。その通りかもしれない。若者に開かれている、広い世界を見に行きたい!そう思い、どこか良い行先はないかと調べていくうちに行き当たったのは、フィンランドだった。国の事業で、フィンランド派遣のメンバーを募集している。ダメ元で応募してみたら、なんと合格。上戸さんの転機となる出来事が始まった。
福祉大国フィンランドで、障害者福祉の研修。メンバーは多方面の分野のスペシャリストや、多様なバックグラウンドを持つ人たちが8人集まった。この派遣の事前研修で、またしても上戸さんは追い込まれる。メンバーのスキルが高すぎて、自分との大きなギャップに圧倒されてしまったのだ。「えらいところに来てしまった…!地方から知識もない私がのこのこと出てきて良かったのだろうか…」と落ち込んだ。
それでも、上戸さんは派遣中に自身の役割を見出し、チームに貢献しようと努めた。各自に役割を与えられる中で、上戸さんは厚生係を担うことに。つまりはみんなの健康管理だ。それならば上戸さんの得意分野、これだけはやり遂げようと役目を全うした。期間中、視察がみっちりと詰め込まれ、身体的にも精神的にも疲労が溜まってくる皆をサポートし続けた。
また、多様な価値観を持つ大人が8人もいて、数日間も生活を共にすれば、自然と徐々にずれが生じてくるというものだ。皆が違う畑からやってきた専門家、意見に違いが出るのも無理はない。段々、チームが固定されたグループに分かれていくようになってきた。上戸さんは、あらぬ誤解で確執が生まれるのはよくない、できれば円滑に過ごしたいと思い、特定の人とではなく各グループを回りながらみんなと平等に接した。時には誤解を解いたり、他のメンバーの気持ちを代弁してあげたり。
「その人がその人らしく」それを社会システムの中で国民に保障するフィンランドで、福祉や教育の在り方を自分の目で確かめた。そして、濃密な研修の最後、メンバーから言われた言葉が印象的だった。
「みんなが仲良く円滑に研修を終えることができたのは、あなたのおかげだよ」
素晴らしいメンバーが揃う中で、そう言ってもらえた。またこの研修・この個性豊かなメンバーの中で、得意・不得意を理解し、他人を頼って任せることも覚えた上戸さん。他人の健康を心身ともにケアし、元気になってもらうことこそが、自分の幸せなのだと自覚した。迷いから脱するために選択した道が、上戸さんの軸となる学びや気付きをもたらしてくれた。
自分の軸を探す3年間
フィンランド派遣から帰ってきて、気持ちがとても楽になった上戸さん。今振り返ると、真面目に考えすぎていた、全部頑張らなくてよかったんだ、と気付く。過去には、中学・高校と同じことで苛まれてきた自分がいた。自分らしく、自信や誇りを持って自然体でいられる選択をしてほしい。そんなお手伝いがしたい、気付きを得られた自分の経験を若い世代に伝えていきたいと思った。3年目にして、上戸さんが大切にしたい軸が固まった。
日田へ来る前から念願だったヨガ・インストラクターも、地域の旅館に企画を持ち込んで提案したり、自らご縁を引き寄せて講師として仕事をもらえたりなど、軌道に乗り始める。
協力隊3年目の夏頃、日田での活動を終えたら長崎に帰るのかなと、ぼんやりと考えていた。しかし、やりたかったヨガもまだ始まったばかり。キャリア教育の先生も、日田でしかできない。せっかく繋いできたご縁を大切にすべく、あと2〜3年は日田に残りたいと思った。また、少しずつ今の活動や収入で生活ができそうな兆しが見えてきていたタイミング。答えは自然と、日田を選んでいた。
長崎から大好きな日田へやってきて、紆余曲折あり、起伏のある3年間だった。しかし、この期間は自分がフリーランスとして羽ばたくまでのリハビリに必要な時間。無理なく、自分らしくあることを追求していたら、着実に付加価値のある人間へと近づいていた。災害ボランティアで知ったファシリテーションのように、初めから一貫して上戸さんの大切にしたいことは、どうすれば自分が自分らしく、その人がその人らしくいられるかだったのだ。自分の生き方を見つけた上戸さんは、まだしばらくは日田の地で楽しく暮らしを続けていくらしい。