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連載 | 「自分らしく生きる」を選ぶローカルプレイヤーの働き方とは

もう後悔はしたくないから。ビジネスで被災地や農業の課題解決を。

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正社員として働きながら、農業や被災地の課題を解決するべく新規事業に取り組む原田さん。仲間に裏切られ、海外留学の夢も叶わず「人生どん底」だった学生時代、東日本大震災の被災地訪問をきっかけに、原田さんの人生は変わっていきます。被災地で何があったのか?お話をうかがいました。

目次

おばあちゃんの野菜が捨てられていく

京都の井手町で生まれました。同じ敷地にある隣の家には大好きな祖父母が住んでいて、小さい頃はほぼ毎日、家に遊びに行っていました。

祖父母は農家で、家のすぐ近くにある大きな田んぼでお米を育てていました。田植えの時期になると親戚が集まってきて、全員で農作業をしていました。他にもナスやトマト、キュウリなど野菜全般を育てていたので、よく収穫や出荷のお手伝いをしていました。トラクターに乗せてもらうのが好きでしたね。

野菜は出荷する際、規格に合わせて形を揃える必要があります。毎回、切り揃えるのが大変そうでした。規格外のものは出荷できないので、育てた野菜の半分ほどは捨ててしまうのです。味は同じでどれも愛情込めて育てているのに、捨てられてしまう野菜がある。祖父母の野菜はどれも本当に美味しいので、それがすごく悲しかったです。

海外への強い憧れ

家や学校では好奇心が旺盛で、家族に「やってみたい?」と聞かれると、なんでもかんでもすぐに「やりたい!」と答える子どもでした。母から「英語やってみたい?」と聞かれた時も、何も考えずに「やりたい!」と即答し、英語の塾に通い始めました。

小学4年の時には、同じ英語塾に通っていた友達が中学受験をすると聞いて、「私も受験したい!」と進学塾に通い、私立中学受験をして合格することができました。テニス部に入り、仲の良い友達と一緒に練習するのが楽しかったですね。

ただ、学校生活では人間関係を見ていて悲しい気持ちになることもありました。いじめている子、陰でコソコソ悪口を言う子、そういうのを見ているのがすごく辛かったんです。そう思っても、自分には何もできないことにもどかしさを感じていました。
中学3年の時、交換留学でアメリカの子が学校に来ました。その子と接する中で、明るくてフレンドリーなアメリカの文化を感じ、すごく惹かれました。海外だったら、自分の周りにいるようなコソコソする人もいないんじゃないかなと思って、海外に憧れるようになりました。

修学旅行で初めて、シンガポールに行ったんです。現地の子たちと交流すると明るい人たちばかりで、より海外に惹かれるようになりました。こういう環境に居たい、海外に行きたいという気持ちが強くなりましたね。

内部進学した高校には、1年間の留学制度がありました。試験と面談があり、全校生徒の中から毎年1人しか選ばれない狭き門ですが、2年生で制度を利用して海外に留学する計画を立てました。

留学の勉強に専念するため部活には入らないつもりでしたが、たまたま見学してみたダンス部が楽しそうで、「うちの部活は留学と両立OK」と言われたので入部しました。

ところが入部した途端、先輩たちから「留学は絶対に許さない」「留学に行くんだったら大会には出させない」と言われたんです。裏切られた気持ちが強くて、人間関係が嫌になりました。「留学行くんでやめます」と告げてダンス部を去りました。

その後、留学制度を利用するための試験を受けましたが、落ちてしまいました。部活では裏切られて、留学にも行けない。本当に最悪でしたね。日本で高校2年生を迎えなければいけないという全く望んでいなかった現実に、もう何もかもがどうでもよくなりました。校則を破って先生に怒られて、先生も嫌いになる。学校に行く意味がわからなくなるほどのどん底でした。

東日本大震災が転機に

憂鬱だった2年生を迎える直前の春休み、東日本大震災が起きました。その日は学校が休みで家にいて、テレビのニュースを見て大変なことが起きていると思いました。でも、東北には行ったこともなくて知り合いもいないので、どこか自分事には感じられないでいました。

しばらくはずっと震災関連のニュースが多くて、「絆」をテーマにした話を目にする度に、「絆って何だろう、本当にあるのかな」と思って見ていました。

震災から1年経った頃、被災地への高校生派遣プログラムの募集がありました。学校を代表して3人が1泊2日で東北に行き、ボランティア活動と視察をするのです。

部活をやっている人が多く、なかなか募集に人が集まらなかったので、立候補しました。特に深い理由があったわけではないですが、「絆」という言葉に引っかかるものがあり、自分の目で被災地を見てみたいと思ったんです。プログラムでは、宮城県の石巻市を中心に回りました。

1日目で「自分なんかが来るべきじゃなかった」と後悔しました。津波で流された靴、道端に転がる茶碗やゲーム機、積みあがった車にガレキ。そんな状態を目の当たりにして、震災から1年間、被災地のために何もしてこなかった罪悪感でいっぱいになりました。今さら来ても、自分にできることは何もない。そう感じるほどに現地は悲惨な状況でした。

1日目の夜は、避難者の家に泊まらせてもらいました。家の方は、美味しいご飯を作ってくれて、「よく来てくれたね」と歓迎してくれました。発生当時は家にいたこと、2階まで波が来たこと、屋根の上で助けを求めたこと、被災当時の話もたくさんしてくれました。そんな歓迎ムードにすごく驚きましたね。

震災から1年、よそ者の私が来て本当は嫌じゃないのかなと思ったので聞いてみました。返ってきた言葉は「そんなことは思わなくていいよ」「今の若者たちには期待している」。何もしてこなかった私に期待してくれる人がいると知り、本当に驚き、感動しました。

大変なことがたくさんあったはずなのに、この人たちは前向きに生きている。自分に何ができるかはわからないけれど、この人たちの期待に応えられるような人間になりたい。今後も東北と関わり続けていきたい。漠然とそう思うようになりました。

被災地から戻ってきて、進路に対する考えが変わりました。それまでは特に勉強したいことがなく、大学に進学するつもりもなかったのですが、大学で勉強しようと思うようになったんです。今の自分には何の力にもなれないと、被災地で思い知りました。

もっと勉強して、被災地で起きている課題、ひいては社会問題を解決できる力を学びたいと思ったんです。内部進学し、大学では被災地の補助金の問題や、仮設住宅でのコミュニティ形成について学びました。

震災を、東北を忘れないための「きっかけ食堂」

大学に入ってからも、被災地でお世話になった方とは手紙のやりとりをしたり、たまに遊びに行ったりしていました。ある時、その人が「震災から3年経つね。最近、東北に来てくれる人が減っている。忘れられているのかな。忘れられるのは悲しいね」と言いました。その言葉がすごく心に響き、何とかしたいと思うようになりました。

その言葉がきっかけで、大きなボランティア団体に入りました。2カ月間で全国の学生2000人を東北に連れていこうというプロジェクトをやっている団体です。私は京都代表を務め、全員の移動費や宿泊費などを賄うための寄付金集めに奔走しました。10年間は続ける計画だったので、「10年間続くプロジェクトの1回目です。なんとかお願いします」と、メンバーと一緒に必死になって寄付金を集めていました。

しかし、派手にプロジェクトを打ち出し、華やかなイベントっぽくなっていたこと、多くの寄付金を集めたことなどから、次第に批判の声が集まるようになりました。次第に、私自身もモヤモヤを感じるようになったんです。多くの学生が東北に行くのは良いことだけど、一気に2000人が行くだけ行って、帰った後はどうなるんだろう。毎回連れていくだけで、帰った後の現地の人とのやりとりやフォローはどうするのかな。そんな疑問がありました。

結局、1回目を派手に大きくやりすぎて続けることができなくなり、企画はその1回で終わってしまいました。本部が継続不可能と判断した事実、「10年続けます」と言って寄付金を集めた罪悪感、現地の人たちの期待の声、周りの人たちの批判の声。いろいろなことがうまく整理できなくなり、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまいました。

本当に自分がやりたかったことって何なんだろうと、改めて考えてみました。ボランティア活動を振り返る中で多かったのは「東北に行きたくても遠くて行けない、お金がなくて行けない、仕事が休めないので行けない」という声でした。。現地の人たちの願いは「忘れてほしくない」。大事なのは現地に行くことではなくて、たとえ離れていても東北のことを想うこと、どんな形であれ東北と関わり続けていくことだと思いました。

そこで、東北と関わり続けるために、京都で「きっかけ食堂」プロジェクトを始めました。ボランティア活動で知り合った人が経営している飲食店で、月1回、1日店長を任せてもらい、東北の生産者さんから食材を仕入れて、東北の料理が食べられるお店を開くのです。月1回でも東北のことを考えるきっかけになりたいと思いました。料理だけでなく、3月11日の「11」にちなんで11分間の「きっかけタイム」も設け、東北の農家さんの思いや復興状況を伝え、東北のことを考える機会を作りました。

継続することが大事

きっかけ食堂を始めて東北の生産者さんたちと話していく中で、「今のままの農業じゃだめだよね」という声を多く聞くようになりました。市場に出すためには、野菜の大きさや形を揃える必要があり、多くの野菜が無駄になってしまう。農協というひとつの決められた販売ルートしかないため、収入面でも限界がある。そんな話を聞いて農家の祖父母を思い出し、東北の課題と地元の課題が似ていることに気付きました。

大学在学中、きっかけ食堂以外にも、農業体験や東北での民泊体験など、いくつかの企画をやってみました。しかし、どれもイベント的な終わるものばかりで、継続性がありません。やっぱり継続することが大事で、継続させるためにはきちんとビジネスとして回る仕組みを作った方が良いと思いました。農業で起きている問題を、ビジネスで解決していきたいと考えるようになりました。

大学卒業後、新規事業に挑戦できる環境がある会社入りました。3カ月に1回、新事事業計画をプレゼンできる機会があり、入賞するとテストマーケティング期間を経て、本格的に事業化できます。この機会を使って農業の課題を解決するビジネスを作ろうと思ったのです。

入社してから何度か企画を提案したものの、なかなか入賞できずにいました。入社1年目の10月には、家庭菜園で育てた野菜の定期配送サービスで入賞できたものの、テストマーケティング期間で課題がクリアできず、事業化には至りませんでした。

自分に事業はできない、もう無理かもしれない…。そう思いましたが、今起きている農家さんの問題をどうしても自分の手で解決したいという思いが強く、チャレンジを続けました。

入社2年目で再び入賞することができました。規格外の野菜を使ってスムージーを作り、企業に販売する事業です。今度は課題もクリアすることができ、2018年6月から本格的に事業化しました。

期待してくれた人たちのために

現在は、株式会社LIFULLで不動産に関する仕事をする傍ら、企業に対して毎月定額プランでスムージーを販売する事業の責任者として、農業の生産ロスをビジネスで解決しようとしています。

協力してくれる農家さんの新規開拓、企業に導入してもらうための営業、やるべきことはいっぱいです。全て同時並行でやらなきゃいけないので、ちょっと苦戦していますね。まだまだこれからです。

大学生の頃に始めたきっかけ食堂も続けていて、現在5年目。全国6拠点にまで広がっていますね。今後も続けていく予定です。

高校生の時に初めて東北に行き、出会った方に言われた「あなたたちに期待しているよ」という声に応えられるような生き方をしていきたいです。それは、たとえ離れていても、地元の人たちの思いを叶えたり、問題を解決したりすることだと思っています。

東北だけではなく、地元である井手町でも、ここに住む人の思いや課題を解決していきたいですね。「井手町と言えば私」と言われるようなキーパーソンになりたいと思っています。

私が手掛けている事業やプロジェクトは、もしかしたら似たようなものがこの世に存在するかもしれません。でも、初めて被災地に行った時に感じた「やらなかった後悔」は、もうしたくない。今、自分にできることは何なのか、どうしたら自分に期待してくれている人たちに応えられるのか。常に自分に問いかけながら、これからも自分にできることをやっていきたいです。

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