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サスティナビリティ

連載 | こといづ

うつわ

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 ソロモン諸島から戻ってから、なにやら、あたらしい自分がやって来ていて、どうにも落ち着きなくそわそわが続いている。どうやったら馴染んでくれるのだろう。あたらしい自分を受け入れるために、いまの自分を諦めたらいいのだろうか。人生、なんでも試してみないとわからない。日常的にしていること、してしまっていることを、少し止めてみることにした。まず、インターネットから少し遠ざかってみた。ソロモン諸島では携帯もネットも使えなくて、島にぽつり、身だけひとつ、遠くにいる誰とも繋がれなかったけれど、目の前の雄大な自然と繋がれた。そういうものなのかもしれない。どこかに繋がれる代わりに、どこかに繋がれなくなる。何かを入れた分、何かは入れなくなる。何かを欲しているなら、何かを諦めればいいのかもしれない。

わっと草が伸び出したので、今年はじめての草刈りをした。長い冬を越えて、ようやく出てきた草花がわいわい賑わっている姿に数日前まで感動していたはずなのに、今日は、いま刈っておかないとマムシがおっても気づかへん、危ない、と心を切り替えて草を刈ってしまう。それでも闇雲に刈ってしまうのは心が辛く、できるだけひとつひとつの草花を目と心に焼き付けながら刈り進んでいるうちに、頭の中がいろんな形や色をした草花でいっぱいになってしまった。この短い時間で一気に止めてしまった命の流れがどっと流れ込んだ気がして、目を閉じると、さっきまで見ていたひとつひとつの草花が走馬灯のように流れていく。家に戻ってそのままピアノを弾いてみたら、次々に何かが移ろっていくような演奏になった。

妻が田んぼをやりたいというので、田んぼを借りてはじめてみた。わからないままに教わるままに、いろんな人に手伝ってもらいながら、ようやく、土に水を流し込むところまでたどり着いた。大きなプールを造っているみたいだ。畦塗りをしていると、きょとんとオケラと目が合って、そのうちに水がたぽんと泥と混じり合って、ああ、田んぼだと思える姿に、ある日なった。てらてらと光の文様が向こうから広がってきて、風が吹いたのが見える。足元に雲が流れ、種もみからぽんぽんと芽が出てきた。あっという間に、あめんぼや蛙や、どこからともなく生き物がわさわさと集まって、この前までここにあった草っ原とは全く違うあたらしい世界が生まれてきた。「田んぼは、泥遊び、水のコントロールやで」との先輩方のことばどおり、ほんの少し泥を動かすだけで、面白いように水が動き出す。朝、雨の音がすると田んぼの水量が気になるけれど、それより先に妻が野良着にさっと着替えて飛び立っていくので、僕はゆったりあくびをしながら後を追う。あそこら辺に歌が上手なうぐいすがいる。蛙がぴょとん、田んぼに飛び込んだ。泥が水に滲んでいって渦巻いて、とろけながらゆっくり動いていく。家に戻ってそのままピアノを弾いてみたら、音と音が滲んでいくような演奏になった。

ううむ。おもしろい。何をするにも、以前だったら、パシャリ、写真を撮って、その日のうちにでもインターネットで誰かに見せたくなっていたところだけれど、止めてみると、「いま感じたことをピアノで弾いてみよう」に変わり出した。インターネットがなかったころの感覚に戻ったようでおもしろい。自分の心に起こったことを頭は使わないでそのまま躰に預けてしまう感覚。感じたことを情報にしてしまわずに、自分の血肉に変えてしまう感じ。なにより、久しぶりになんでもかんでもピアノで弾いてみたくなったことが嬉しい。わっと世界が広くなった。

いま、「あわい」世界に興味がある。はざま、どちらでもない、どちらでもある、昔の日本人が「あか」と言えば、あかるい、こちらに向かってくるような色をすべて「あか」と呼んでいたような、「あお」と言えば、しずんでいく、むこうに吸い込まれるような色をすべて「あお」と呼んでいたような、人であるようなないような、昼でも夜でもない黄昏どきや、音楽であるようなないような。ソロモン諸島で味わった「全体性」という言葉。水も魚も果物も暖かさも、人が生きていくのに必要なものがすべて揃っているような楽園で、人間以外の生き物がそうであるように、この楽園では人間も生まれながらにして自然の一部として生きていていいんだと思える、充たされた幸福感の中で感じた「全体性」だったけれど、ふと、「なにもない」というのが大事な気がしてきた。空っぽのうつわ、何でも入るうつわ、うつろ、空洞、うつろい、水が流れる道、水はなにもないほうへと流れてゆく。ふと、自分を止めてしまった瞬間、自分のこだわりをなくしてしまってもいいと思えた瞬間、ぽっかり自分にうつわが生まれた時、やっぱりどどっとあたらしいことが流れ込んでくる。

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