リジェネラティブなサスティナビリティ
今回の特集のテーマは、「サスティナビリティ&リジェネラティブ」です。サスティナビリティは皆さんご存知のように、日本語では「持続可能な」と訳され、SDGs(サスティナブル・ディベロップメント・ゴールズ)、持続可能な開発目標の1文字目の「S」がそれに当たります。じゃあ、「リジェネラティブ」って何なのか? 最近、僕はこの言葉をよく口にしているのですが、ひとことで言うと「再生させる」という意味です。「リジェネラティブ・アグリカルチャー」なら、「再生させる農業」、再生型農業と訳されますが、元々、「リジェネラティブ」という言葉のコンセプトは農業から始まったものだと考えてもらっていいと思います。1960年代頃から広まった環境再生型の農業もそう。1970年代にオーストラリアのビル・モリソンとデイヴィッド・ホルムグレンによって提唱されたパーマカルチャーも「リジェネラティブ」のマインドに当てはまっています。
最近になって、「リジェネラティブ」という言葉が注目され始めている大きな理由は、「サスティナビリティ」の盛り上がりから来ていると思います。よりよい未来をつくるためにどういう手法を考えたらいいのかと、農業や第一次産業にとどまらず、福祉や教育でもみんながそれぞれの専門分野で考えを凝らして、工夫しています。一直線型ではなく、スパイラルでもいいし、右肩上がりのイメージがあってもいいと思うのですが、今よりももっと楽しく、もっと豊かに、もっと幸せに、と考える人たちが現れ出しているのが2020年代だと感じています。そこに「リジェネラティブ」という言葉が、農業や土の分野を飛び越えて現れたというのが注目されている理由だと考えるといいかなと思います。
「サスティナビリティ」のメタファーというのか、シンボリックな存在として挙げられるのは海です。海洋プラスチックの問題は深刻で、ウミガメがクラゲと間違えてビニール袋を食べたり、ペットボトルの小さな破片を飲み込んだり。川から海へ流れ出たプラスチックごみが年月を経てマイクロプラスチックとなり、ウミガメに限らず魚たちの体内から検出されています。そんな映像を見て、子どもたちが胸を痛めています。これ以上、海の環境が悪化しないようにするために、マイクロプラスチックを含む海洋プラスチックごみの問題を防ぎ止めなければいけません。「サスティナビリティ」は、ビジュアル的にも海と結びつきやすいのです。
「サスティナブル・シーフード」という考え方もあります。海の食料資源が減っていく中で持続させなければいけないという議論が1990年代から2000年代にかけて起きました。経済として養殖産業をしっかりと組み込んでいかないと、海の食料資源が足りなくなることはわかっているので、サスティナブルな視点で海の食料資源を確保できるよう考えなければいけないことからも、「サスティナブル=海」というメタファーは成り立ちそうです。
一方、「リジェネラティブ」の言葉のコンセプトは土、すなわち陸です。それぞれのルーツが海から、陸から来ているのです。「リジェネラティブ」は、僕たちが踏みしめて歩いている大地から来ているというのも、ちょっと特徴的な気がします。たとえばここ10年間くらい、「アーバン・パーマカルチャー」が注目されたり、都市型農業が人気になったりしているのも、「リジェネラティブ」に紐づいているんじゃないでしょうか。「リジェネラティブ」のルーツは、土壌を修復し、自然環境を回復するという環境再生型農業にありますが、今では社会やまちづくりの分野でも広く使われる言葉になっています。僕の言う「リジェネラティブ」は、どちらかというと広義の意味の「リジェネラティブ」だと考えてください。「サスティナビリティ」は、防ぎ、持続させること、「リジェネラティブ」は防ぎ、再生させることだと僕は意味づけていますが、「リジェネラティブ」は従来の場所や仕組みを改善し、人がより幸せになるように取り組んでいく行為なのではないかと思っています。
なぜ、こんなことを2024年になって言い出したかというと、僕が大好きな地域づくりやまちづくり、未来のビジョンをつくっている若い人たちは、「リジェネラティブ」という言葉を数年前から自由に使っておられるから。トークセッションやワークショップでも、「リジェネラティブ」な話を熱心にしてくださる方々が大勢いらっしゃるのです。社会の空気として、「リジェネラティブ」が広がっていることを感じて、僕も使うようになったのです。
久しぶりにサンフランシスコに行ったことも「リジェネラティブ」をより意識するようになった理由です。何か新しい風を感じようとか、何かの仕組みを見てこようというより、自分のマックブック・エアをアップルセンターに里帰りさせてみようというくらいの小さな幸せを感じられればと、パロアルトやスタンフォード大学を見てきて、西海岸の気持ちいい風を浴びてきました。イノベーションという言葉が生まれた本丸のようなまちを清々しい気分で歩いてきたのですが、その時、はたと気づいたのです。東京みたいに、SDGsの17のパネルをあまり見かけないなと。教育機関や、イノベーションを起こす場所に、日本だと必ずあるSDGsの色とりどりのユニバーサルデザインのパネルが見当たらなかったのです。もしかすると、17のパネルが目に入らないほどほかのグラフィックが格好よかっただけかもしれませんが、少なくともアメリカがSDGsを一生懸命やっているという印象は、2週間ほどの滞在中、感じることはありませんでした。
その代わり、言葉としての「リジェネラティブ」が、たとえば「ハワイをリジェネレーションしよう」というように、それがアメリカでキーワードになっているのか、英語を追いかけると「リジェネラティブ」という言葉がずいぶん使われていると感じました。西海岸、とくにサンフランシスコだったからでしょうか。「サスティナビリティ」よりも「リジェネラティブ」の空気感の方が広がっている印象を受けました。バイアスがかかった目で見ていたからかもしれませんが。
調べてみると、SDGsはどちらかというとヨーロッパ型、EU型の環境への取り組みで、SDGsを実践している国のランキングも、だいたい北欧やEU関連の国が上の方にあって、アメリカは40位くらいです。でも、頑張っていないのかというとそうではありません。社会や環境をよくするためのテクニックは違うけれども、環境問題に取り組んでいるのは事実です。SAFなどのサスティナブルな燃料にも力を入れています。おそらく、アメリカが選択肢として取ったのが「サスティナビリティ」よりも「リジェネラティブ」だったのでしょう。そんな空気感を感じて、僕も「リジェネラティブ」を言い始めているのです。ちなみに、SDGsは「リジェネラティブ」と言えそうです。SDGsは前に発展させる目標がほとんどで、食い止めるためのものではありません。SDGsは「リジェネラティブ・サスティナビリティ」みたいな言い方ができそうです。「再生させる持続可能性」とか、「再生型持続可能性」とか。直訳ですが、「リジェネラティブ・サスティナビリティ」みたいな考え方が今、日本が目指しているところじゃないかなと感じています。
日本でも、「サスティナビリティ」と「リジェネラティブ」を考える上で参考になるいい本が発行されています。ベーシックなものでは、ポール・ホーケンが書いた『リジェネレーション[再生]気候危機を今の世代で終わらせる』。環境再生という大きなテーマで書かれている本です。もう1冊は、東京大学連携研究機構不動産イノベーション研究センター(CREI)が出している『Regenerative Commons – 場所と地球がつづくための関係づくり』という冊子です。コモンズという言葉がついているように、場所に関しての「リジェネラティブ」を研究する方々の論考が掲載されていて、僕も大変参考にさせてもらいました。「リジェネラティブ」で検索していただくと他にも出てくると思いますが、特に建築や都市デザインの世界で「リジェネラティブ」がよく語られているのが2024年っぽいです。
勉強みたいな話はこのくらいにして、僕の中で「リジェネラティブ」ってどういうことなのか、みたいなことを僕の日常の暮らしから話していこうと思います。今、僕が夢中になって読んでいる漫画の話をしましょう。久々に読み始めました。これで3回目。『夏子の酒』です。1988年に初版が出版されました。
どんな内容か端的に話すと、もともと新潟の小さな酒造メーカーのお嬢さんだった夏子が、東京に出てコピーライターを目指す中で、最初の仕事が大きな酒造メーカーのコピーをつくることでした。そこから、実家の酒造メーカーが造っている日本酒と、消費者が求めている日本酒の厳然たる違いを見せつけられ、自分のお兄さんが本当は継ぐはずだったけれど病で倒れて継げなくなった、そのお兄さんの思いである龍錦という幻の酒米を使った酒造りを夏子が受け継ぐという物語です。佐伯酒造の佐伯夏子が主人公となり、「月の露」というお酒を造るのですが、モデルとなっているのは「久須美酒造」という造り酒屋。新潟県長岡市にあります。「亀の尾」という酒米を自分たちの米としてリバイバルさせた話を参考にしているようです。漫画では龍錦という名前で、お米を有機農業で復活させ、それが日本酒の文化とともに地域の農業をリジェネレーションするというストーリーです。これって、今は普通になっていますが、Uターンした若い人たちが自分たちのまちにある魅力を見出して、地域の人たちと一緒にまちの未来を考えて何かを始めるというストーリーと同じで、それが農業や日本酒をモチーフにして描かれていた漫画だったんだなと改めて思わせられながら読み返しています。
全巻(12巻)持っていますが、 義理の父母に貸したところ、元々僕の義理の母は新潟の津南町にあった造り酒屋に生まれ育った娘さんだったので、興味深く読んだそうです。義理の父はお酒を飲まない方ですがやはり興味を持って読まれ、その後、僕のところにUターンして来ました。作者は尾瀬あきらさんで、コマ割りがとてもうまいんですよ。構成もとても上手で、胸がキュンとくるようなフレーズもあります。個人的にはすごい好きな漫画家です。『モーニング』で連載していた頃も読んでいましたが、3回目に読む今の方が染み渡る気がします。まさに、「リジェネラティブ」ってこういうことなのかなと。余談ですが、月の露の最大の理解者であり、パートナーであり、ライバルであり、目標とされているのが「美泉」というものすごい吟醸造酒を造る福井の小さな造り酒屋「内海酒造」なのですが、ここは現存する「黒龍酒造」がモデルになっています。黒龍も本当においしいです。
もう1冊。今、読み始めているものですごくいい本があります。『広葉樹の国フランス』です。日本も実は有数の森林大国ですが、1人当たりの森林面積では日本を超えるフランス。2019年にパリのノートルダム寺院が火災に見舞われ、フランス国民のみならず世界中が悲しみに包まれましたが、あのノートルダムを建て直すために使われているのが、フランス国内のオークなどの広葉樹をはじめとする木材です。過去の戦争でフランスの森林は大きく荒廃し、森林率は一時10パーセントまで低下したそうですが、多様性豊かな森林に再生させ、今は適地適木の論理で林業を成り立たせているという話もこの本に書かれています。これも「リジェネラティブ」ですね。フランスは農業が盛んですが、林業も国策として手を入れていて、その森林政策や森林観は日本もお手本にしているほどです。まだ僕も一章しか読んでいないのですが、とても興味深い本なので、『夏子の酒』を読み終えたら集中して読もうと思っています。
フランスと聞くと、多くの人が「バカンスの国」と連想すると思いますが、これも国策で始まったものだと教わりました。導入当初は、「15日(のちに約1か月)も休んだら仕事に戻れないかもしれないし、国の経済が落ち込むんじゃないか」とフランスの人たちも心配していたそうですが、バカンスにはパリに集中している人口や経済を地方に分散させる目的もあったようで、今はそれがフランスの文化として根付き、バカンスやバケーションといった言葉も世界中に広まっています。そうした国の文化や伝統は、大昔から連綿と受け継がれているように思いがちですが、案外最近できたもので、しかも人の思惑によって操作されたものもあったりするんだろうなと、バカンスについて調べながら気づかされました。地域の伝統を守るとか、残すとか、地域づくりの途中でそういうことを考える局面に立ったとき、知っておいてもいいことかもしれません。
「ALL SOPHIANS’ FESTIVAL 2024」の実行委員長
僕は1992年からアウトドアや釣り、そしてエコやソーシャルといったテーマで30年間近く、『ソトコト』が隔月刊や季刊になるまではひたすら月刊のサイクルで、合計すると数百冊を超えるかもしれない数の雑誌をつくってきました。ですので、月刊のサイクルが体に染み付いてなかなか取れないのですが、世の中の流れもあって、紙のメディアとしてのサイクルは抑え気味にして、今後はオンラインに移行しようと決めたのが今年からです。紙の『ソトコト』は年に1冊、年刊誌として発行し、この連載「オン・ザ・ロード」を始め、単行本のような形で紙のメディアの役割を果たしていこうと考えています。あるメディアを定期的に発行するというよりは、必要な形で紙のメディアを発刊していけばいいのではないかと。その中に、年刊の『ソトコト』や、「オン・ザ・ロード」の単行本の計画があるというふうに考えてもらえたらと、読者の皆さまにはお伝えしたいです。オンラインの方は、特集や連載、地方自治体や企業の取り組みなど、新しい形でどんどん内容をおもしろく、豊かにしていくので、ご覧いただければうれしいです。
『ソトコト』もまさに「サスティナビリティ&リジェネラティブ」で、さまざまな仕事を受けるようになっています。地域づくりの仕事はもちろんですが、プロジェクトとしての相談もたくさんいただくようになってきています。その一つ、運命的に依頼を受けたのが、僕の母校である上智大学の「ALL SOPHIANS’ FESTIVAL 2024」の実行委員長という役割です。年1回、5月に開催され、大学のアルムナイ(OB・OG)と在校生が1万人も集まるフェスティバルで、随分長く続いている大きなイベントです。実行委員長になってから、週に1回は大学のある四谷に行ったり、オンライン会議に参加したりと、各イベントのチームの皆さんと打ち合わせを重ねました。
上智大学は、フランシスコ・ザビエルが日本に学びの場所をつくりたいという思いを抱いたことが始まりで、イエズス会が創設した大学です。四谷キャンパスは千代田区紀尾井町にあり、JRや東京メトロの四ツ谷駅から歩いてすぐです。この「ALL SOPHIANS’ FESTIVAL」に参加するのは2回目で、前回は2016年にゲストとして呼ばれ、「本屋大賞」を創設した『博報堂ケトル』代表の嶋浩一郎さんと同級生編集長対談をやらせてもらいました。嶋さんも上智大学の法学部卒業で、在学時から互いを認識している仲でした。留学をするときに僕はイギリスに、彼はイスラエルに行ったのですが、たまたまそこへ向かう飛行機が同じで、しかも隣の席だったのには驚きました。ロンドンのヒースロー空港で別れましたが、1年後、帰国して大学に戻ったら、ゼミも一緒でした。そんなこともあって、今に至るまで仲良くさせてもらっています。嶋さんは下北沢で内沼晋太郎さんと一緒に本屋『B&B』を運営していますが、その1日限りのお店として上智大学に開店し、そこで対談を行いました。この時は、映画プロデューサーで、やはり上智大学の卒業生の川村元気さんが講演をされていました。川村さんは大人気の方ですからすごい盛り上がっていて、その横で嶋さんと僕が「しんみち通り」のオタクな話をしているという、僕の中ではほのぼのする光景でした。今回はそういった企画を全体として行う側の1人として参加させていただきました。
打ち合わせを含め、久々に上智大学へ足を運んで、変わっているところと変わっていないところがあるように感じました。四谷のど真ん中にあるので拡幅されることはなく、同じ場所で、一定の敷地面積の中、コンパクトにまとまっているのは僕が通っていた頃と変わりありません。Googleアースで見ると、意識的につくったのかどうかはわかりませんが、キャンパスに十字架の形をしたメインストリートがあって、その真ん中のクロスする部分にワシのマークが描かれています。「Lux Veritatis」っていうラテン語で真理の光という意味で、ワシのマークがある交差点を学生たちが行ったり来たりしているのですが、その十字架のようにクロスしている通りが、学生たちが互いのコミュニケーションを図るのにすごい効いているのです。何号館のどこの教室へ行くにも、だいたいこのメインストリートを歩かないとたどり着けないようになっているので、次の教室へ向かって歩いていると、必ず誰かしら同級生や先輩、後輩に会うんです。1往復すれば、友だちや知り合いに10人、15人は会いますね。そこで、「おはよう」とか、「サークルのミーティング、出る?」とか、ほんの少し挨拶を交わして、「じゃあ、授業あるから」とそれぞれ目的の教室へ歩いていくのです。大学のキャンパスがどんどん郊外へ離れていって、同じ学部の学生しか顔を合わせない郊外型のキャンパスに比べると、上智はものすごくコミュニケーションの濃度が高い気がします。これは、まちづくりにとってもすごく参考になるんじゃないかと思いました。
たとえば、ポートランドはまちのコーナーや1階にコーヒーショップやカフェをつくって、人がそこで出会えるような構造を意図的に設けています。上智大学もコーナーに8号館のピロティという広場があって、大体みんなはそこを待ち合わせ場所に使うんです。そこで親密な話をしたり、日陰になっているからくつろいでみたり。そこで通りを眺めていると、必ず仲間が通るので声をかける、みたいな空間になっているのです。卒業してからもう30年くらい経ちますが、その光景が変わらずあるのもうれしかったです。在学生の皆さんが楽しそうに手を振ったり、挨拶したり。対話に近いコミュニケーションを取っているのを見て、このメインストリートは意識的につくられたのであれば、とってもいいコミュニティデザインだなと感じました。
その十字路は変わらないものですが、一方で変わったものもあります。6号館として「ソフィアタワー」という建物がここ数年の間に立てられました。大きな高層ビルで、6階までは上智大学の学生たちが使い、1階店舗部分と7階から上は銀行など一般企業に貸し出しているようです。群馬県庁が、空きスペースにアクセンチュアなどいろんな企業が入るような試みをしていますが、大学のキャンパスを企業に貸し出すわけですから収益にもつながるのでしょう。まさに産官学で、企業の皆さんと学生たちが一緒に勉強する機会もきっと出てくるはずです。けっして広くはない敷地に建物が隣接しているコンパクトシティのようなつくりになっていますが、それが功を奏して「ソフィアタワー」というハイブリッド型のキャンパスができているのには驚きました。僕が通った頃には理工学部と文学部でキャンパスの住み分けがあったような気がするんですが、今は割とそれが混じるような形であるようです。9号館アクティブ・コモンズの上には、「サスティナビリティ」をテーマにした、学生たちが和める屋上庭園があります。グラフィックのサインも統一されて、とても綺麗なものが置かれると同時に、歴史のあるイエズス会ですから、その時代とまでは言えませんが、上智大学の歴史ある建物としてレンガ造りの外観が存在感を示す1号館がシンボリックな形で、メインストリートからしっかり見えるような場所で美しく保たれています。なんか自分の大学をエコひいきしていますが、これってどこかで見たことのある構造だなと、ふと思い出したのが日本の里山です。
社会が社会性を帯びてきた
日本の里山は元々、狭い集落の中に畑や田んぼがあったり、そこで季節の行事が行われたりしましたが、今は郊外型の大きな農地が整理され、田んぼはトラクターを入れやすいような形でつくられたりしています。昔の里山はそこに住む人間以外の生き物も、命を育むために同じ場所で時間をずらしたり、季節をずらしたりしながら使うという関係性がありました。それが今はもう圃場は圃場みたいな、そこに里山的な視点や、そこでお祭りをすることはないようなまちの形成構造になっているのが、今の日本の郊外の形ではないでしょうか。アメリカもきっと農場は農場、農地は農地としてあって、シティセンターはシティセンター、タウンはタウンとしてあり、構造上はっきり分かれています。それに対して、日本には境界線の曖昧さみたいなものがあって、自然の生き物が暮らして、僕たちが食べるものをつくって、地域の維持のために大事なお祭りもやるみたいな「重なった感」があり、それが日本らしさだったのですが、そんな里山の姿は次第に失われていきました。ただ、里山に元々あった「重なった感」が四谷のキャンパスには感じ取れて、僕はとてもいい学び舎で学ばせてもらったんだなと感慨にふけりながらキャンパスを歩いていました。
なんでもかんでも再生することが「リジェネラティブ」なのかというとそうではなく、きっと再生させなくてもきちんと生きているものもあったりするはずです。それさえも変えることは再生ではありません。人間って、みんなが西暦1年に生まれ、西暦100年になると一斉に亡くなり、西暦101年からまた新しい人が同じ数だけ入れ替わるわけではなくて、みんなが入れ子になって生きているのが社会ですよね。だから地表のように、もしくは関東ローム層じゃないけれど地層のように、同じ空間の中で時代が少しずつ混ぜこぜになっているっていうことが本来の人間らしい生き方のはずです。だとしたら、なんでもかんでもリジェネレーションしなくてもいいし、あるものを未来に残していくっていう精査は必要だけど、一斉にリセットとかリスタートしなくてもいいのではないかというのが僕の「リジェネラティブ」思想です。
たとえば今、神戸で茅場の再生が行われています。『Regenerative Commons – 場所と地球がつづくための関係づくり』にそのプロジェクトも載っていますが、実際に古民家の茅葺きを復活させようという動きが神戸や山形でも起きているのです。神戸に住んでいる茅葺き職人の相良育弥さんは北区で茅場の再生を行っていて、めちゃくちゃかっこいい人でいつか会ってみたいのですが、神戸のこういう茅葺きも、古い世代が「茅葺きの時代は良かった」と言って、ちょっと堅苦しい形で保存するのではなく、若い世代の人たちがリジェネレーション的な感覚で、四季の自然な移ろいの中で葺き替えていく。それも、自分の住まいの近くの茅場から持ってくることに価値を感じて実践している。そういうことが大事なんじゃないかなと。全国で茅場を復活させようっていうとちょっとエクストリーム過ぎますが、ところどころで茅葺きを復活させたい気持ちがある人たちがやっている、そんな動きが、「リジェネラティブ・サスティナビリティ」なんだろうなと思います。
上智の話をもうちょっとだけしましょう。「ALL SOPHIANS’ FESTIVAL 2024」の準備では、リアル、オンラインを含め、たくさんの来場者が来られるフェスティバルのプログラムをつくったり、テントでの出店を用意したりしましたが、社会人の委員だけでは運営側のオペレーションは人手が足りません。でも、在学生の皆さんが主体で秋に開催される「ソフィア祭」という大きな学園祭があり、ソフィア祭実行委員会が運営を行っておられるのですが、その方々が200名くらい、「ALL SOPHIANS’ FESTIVAL 2024」にも参画し、一緒にその1日をみんなが楽しめるように準備を手伝ってくれたのです。学生の皆さんが積極的に関与している姿を見て、今の学生の皆さんがおもしろいと思っていることや、考え方の広がりを感じることができました。昔の話をしても仕方ないのですが、僕たちの時代、たとえば1980年代、90年代の大学のサークルの花形はテニスでした。僕は山登りのサークルにいたので花形ではなかったのですが、テニスサークルのようなみんなで楽しくできるアクティビティが多いサークルが人気だったと思います。お祭りをつくるというのは、どちらかというと裏方の仕事です。プロジェクト・マネージメントとか、細かい出納とか、そういったことも含めて。でも、ソフィア祭実行委員会は入る倍率が8倍くらいもある人気のコミュニティです。花形のサークルに入ってエンジョイするとか、部活動に入ってレギュラーを目指すとか、舞台に立って何かをやるみたいな達成感とはまた違う形の盛り上がりを楽しんでいるのです。自分が学生だった頃はそこに目が向かなかったからなのかとも思うのですが、ものすごい人数の学生たちが授業が終わった後からミーティングに参加して、当日のイベントを盛り上げ、1日だけの開催が終わったらその日のうちに撤収作業を行い、翌日には授業に出ている。そんな姿を見ていると、ほんとにもういいプロジェクトに参加させてもらったなと、僕の方が感謝しきりなのです。
僕はそんなワクワクするプロジェクトを『ソトコト』で伝えてきたのですが、みんなで一緒に物事をつくり上げたり、プロジェクトを実現したりする喜びが、キャンパスライフの中の選択肢としてあって、それを学生のみんながおもしろがっている様子を見ていると、日本語として変ですが、「社会が社会性を帯びてきた」ように思うのです。「リジェネラティブ」に直接関係ないかもしれないのですが、まったく同じものが伝統で続いているわけじゃなくて、今の時代の気分に合う形で変化しているのはいいことなんじゃないでしょうか。ちなみに、上智は4年くらい前にミスコンを辞めたそうです。ルッキズムじゃなくもっと違う形で、たとえば社会にコミットしている人が表彰されたりすることで、「for Others with Others(他者のために、他者と共に)」という教育理念を実践しているようにも思えて、「自分の大学が上智でよかった」とSNSで発信したりしているのです。
上智の学生さんは夕方、授業が終わると教室からワッと出てくるんですが、多くの学生が胸に「SOPHIA」ってエンブレムがあしらわれたトレーナーやパーカーを着ています。ソフィアジャージ、略して「ソジャー」、おしゃれなユニフォームです。ファッションアイテムとしても人気なのと、着回しがすごくいいのと、「SOPHIA」っていう英語の雰囲気もいいんでしょうね。特に5月くらいだとフレッシュな1年生とかも、大勢一緒にかっこいいトレーナーを着こなしています。上智のキャンバスはそんな雰囲気です。
5月に中学3年の息子の通う神戸の中学・高校の文化祭に行ってきて、実行委員の生徒たちがものすごく楽しそうに仕事をしていたのは校風にもよるのかなと思ったんですが、関西の中学・高校生が楽しんでいる雰囲気と東京・四谷の大学生が楽しんでいる雰囲気、みんなが喜べる時間をつくるという感覚はすごく近くて、やっぱり社会が社会性を帯びてきているんだと思いました。ちなみに息子はテニス部で、小学生たちが遊びに来たりしたらコートでサポートしながら一緒にボールを打つようなことをプログラムでやっていました。「実行委員になるよう誘われた」とうれしそうに言っていましたから、来年はやるかもしれませんね。そういう経験は後でじわじわと喜びに変わると思いますから、ぜひチャレンジしてほしいです。
<続く|岡村靖幸さんのスタンスと、リジェネラティブなジレンマ>
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