教育、ホームレス、ヒッチハイカー、起業…。経験を糧に、前向きな影響を与えられる人へ。

連載 | 「自分らしく生きる」を選ぶーローカルプレイヤーの働き方とは | 18 教育、ホームレス、ヒッチハイカー、起業…。経験を糧に、前向きな影響を与えられる人へ。

教員退職後、ヒッチハイクで全国を旅しながら人と繋がり、さまざまなプロジェクトを生み出す合同会社ワンカラーを設立した一色さん。波乱万丈な経験の裏側には、どんな想いや決断があったのでしょうか。お話を伺いました。

相手に合わせることが普通


東京都国立市に生まれました。長男で、父方・母方ともに初孫だったので、親族の間でとても可愛がられて育ちました。「いつも雄生は笑顔だな」と言われるので、自然と笑顔でいることが多かったです。


両家の祖父は大手の役員で、二言目には「雄生は俺の孫だからな」と言われていました。その度に、「僕はじいちゃんの孫だからね」と返していましたね。期待されて、求められるものを返すのが通常運転でした。勉強も運動もそこそこ得意でしたし、人が望んでいる何かを叶えられる、周りの望んでいる一色雄生になろうとしていました。自分でやりたいことを優先するよりも、他人がどう思っているのかを気にしていたんだと思います。


一方で、思ったことや感じたことをすぐに言葉や行動に出してしまう面もありました。周りから「常識的に考えて」と言われることが多く、言われることに対して反抗するようにもなったんです。負けるのが極端に嫌で、やられっぱなしが我慢できず、絶対に敵いそうもない人にも絡んでいました。幼稚園、小学校とよく問題を起こして怒られていましたね。勉強で良い成績をとっても、スポーツで良いタイムが出ても、満足することができなくて。常に、自分よりも好成績を残している人と比較して、「こんなもんじゃダメだ」という感情が渦巻いていました。


笑っていた方がいいし、楽しい方がいいから、友達とは普通に接していました。でも、心のどこかで本当に理解してもらえることはないんだろうなと常に感じていました。


人に影響力を与えられる人に


小学校が終わる頃、転校して、違う学区の中学校に進みました。地域では比較的荒れている学校で、授業中もすごくうるさかったです。僕は授業が聞きたかったし、「周りにも授業が聞きたい人はいるだろう」という正義感もあって、ある日「うるさいんだよ!」と怒鳴ってしまったんです。それ以外にも原因はあったのかもしれませんが、翌日から「なんだあいつは」と目をつけられて、いじめられるようになりました。


体育から帰ってきたら机をひっくり返されていたり、教科書が破られていたり。通りすがりに「うざい」と言葉を投げつけられることもありました。でも絶対負けたくないので、屈することはなかったですね。机がひっくり返された状態で授業を受けたり、破られた教科書を職員室の廊下にばらまいて先生に訴えたりと、ずっと抵抗していました。


中学校から入部したバスケットボール部の活動時間がとても楽しかったです。練習に没頭できて、嫌なことを忘れられるんです。顧問は厳しい先生で、夏休みには合宿もあり、練習だけでなく勉強もみっちりさせられました。特に、休み明けにある英語の単語テストの勉強は、部員全員100点を目指してひたすら書き取りをさせられました。すごく辛くて、もう二度とこんなことはやりたくないと思いました。


夏休みの合宿はとても苦しい行事でしたが、1年生の夏休み明けから勉強がどんどんわかるようになり、2学期から成績が爆上がりしたんです。すごい!と思いました。自分の成果というより、先生がすごいなと。保健体育を教えている体育会系の先生で、その人が担任したクラスは毎年、体育祭で優勝するんですよ。部活に対してもクラスに対しても熱血で、多くの生徒に影響を与えていました。僕もそんな人になりたいと感じて、教師を目指すようになったんです。


教育の現場へ


高校は、教育熱心な母に勧められて選びました。自分のことをよく知っている親が「雄生だったらここがいいと思うんだよね」というなら、そうなんだろうと思って。実際、高校は楽しくて、体操部に入って活動に打ち込みました。2年生の時、クラスに保健体育の教育実習生が来たんです。自分もこんな風になろうと、教師になれることを条件に大学を選びました。


部活ばかりしていたので、1番入りたい大学には受からず、2番目の候補だった東京の私立大学に進むことになりました。この受験で、自分はコツコツやらないと周りに勝てないことを学び、大学では1年生から教員採用試験のための勉強を始めました。加えて、保健体育の先生は体育は熱心に教えても、保健はおろそかになりがちだと感じていたので、保健のスペシャリストになろうと救急救命士の資格も勉強。努力の甲斐あって、無事に教員採用試験と救急救命士の国家試験に合格しました。


しかし、卒業を間近に控えた2011年3月、東日本大震災が起こりました。試験には合格しても、採用は全く決まらなくて。ようやく来たのは、東京の中学校の、特別支援学級の話でした。特に希望していた訳ではありませんでしたが、ここで採用を蹴ったら次は決まらないかもしれないと感じて。そのまま採用を受けることにしました。


僕のミッションは、特別支援学級の開級準備。1年目はやるべきことがあまりなく、通常学級の手伝いをしたりバスケ部の顧問を頑張ったりと、本来求められているミッションとは違うことに精を出していました。しかし、いよいよ開級した2年目からは激務に。新しく開級した特別支援学級の主任をサポートしつつ、通常の体育の授業をフォローしたり、人数の少ない学級の主任をしたりと、目が回るくらい忙しかったです。


生徒対応や保護者への対応、教育委員会や地域との連携にだんだんと心が病んできて、精神科の病院も受診しました。


そこで、もっと考えていかないとダメだなと思ったんです。それまでは世の中に対してそんなに疑問を持つことはありませんでした。でも、こんなに大変なのは環境や制度自体がうまくいっていないんじゃないか?と感じて。どうやったら人って幸せになれるのか、なんでこの仕事をやっているのか。どうして人間関係がうまくいかないのかを改めて考えるようになりました。


自分が動かないと変わらない


激動の2年目、3年目を乗り越え、担任の生徒を卒業させた4年目に別の学校に異動しました。1校目と同じように学級の立ち上げを担当し、それと同時に大手通信会社と大学との共同研究で、教育のバリアフリー化を担当しました。日本全国の最先端の特別支援教育の知見を得ました。様々なテクノロジーやノウハウにふれ、こんなことができるんだと驚きましたね。上司も仕事ができる人で、学んだことをすぐに現場で実践することができました。


教員になって5年目、新しい地域で活動がしたいと願い、忙しいながらも充実していた2校目から、3校目に移って再び特別支援学級の立ち上げを担当させてもらいました。しかし、小中学校で連携するなど教育に力を入れている、経済的に豊かな地域の学校だったにも関わらず、特別支援教育に理解がないと感じたんです。前の学校との差分に愕然として、「なんなんだこれは」と思いました。特別支援教育について自分の考えを述べても、誰も理解してくれないんですよね。


素敵な先生も、能力の高い先生もいらっしゃいましたが、そもそも考え方が全く違って。自分の意見に「それは君が若いからだよ」と言われたとき、ああもう、無理なんだと思いました。


もともと特別支援学級で教育をやりたかったわけでもないし、理解しあえない中でやっても何も変わらない。もう公務員はやめよう。そう思って、民間にいくことを決意しました。周囲には勿体無いと言われましたが、この組織の中にいても何も変わらない。自分で何かを起こさないと世の中は変わらないんだと感じたんです。


努力よりも正しい選択を


退職した時はすぐに民間に就職できると思っていました。しかし正社員では全く受からず、単位制の高校で非常勤講師をしながらバイトをする日々。このままで良いのか考えました。僕はずっと教員で、民間では何にもやったことがない。まずいろいろなことをやって勉強しようと考え、全国を周りながら仕事をすることにしたんです。


公務員には戻らないと決めて、ヒッチハイクで全国を転々としました。そこで出会った人に紹介されたり、見つけたりしたことを手当たり次第やってみたんです。100カ所近くを回る中で、さまざまな仕事を経験しました。コンビニのアルバイト、警備員、営業、事務、貿易関係、大工、イベント運営や会場設営、ゴミ収集、モデル、アフィリエイト、ライター、バーテンダー、セミナー講師、AV男優、投資運用、整体師…。その数は40近くにのぼりました。


おかげでいろいろなことを学べましたが、いろいろなことに手を出しすぎて、多額の借金ができてしまいました。家賃は払えないので家を追い出され、両親や祖父母、友人や先輩に頼ってお金を借りたり、家に泊まらせてもらったりしていました。自分は努力しているつもりだったし、行動しているから、周りの人は応援してくれると思っていました。


しかし、現実は違いました。父に「お前は家族じゃない。敷居を跨ぐな、戸籍から外す」と言われ、家族の縁を切られてしまいました。拒絶され、「こんなに努力しているのになんで応援してくれないんだ」と悔しい気持ちでいっぱいでした。


努力していることや行動を起こすことがみんなから応援されると思っていたんですよね。ビジネスも頑張っているし、勉強もしているし、いろいろな人に声もかけ続けているし。全く成果が出ないだけで。


しかし結局、僕の努力は理解されず、辛い時に頼る人はいなくなりました。自分がどうなったとしても、責任を取るのは自分。この状況になって、「努力よりも正しい選択の方が大事」ということを知りました。


手探りの起業と思い出した想い


それでも、祖父母の助けを受けて、なんとかお金を工面してビジネススクールへ通えることになりました。今のままではどこにも行けないから、学びたいと思ったんです。


ビジネススクールで出会う人は、これまで出会った人とは全く違っていました。億を稼いでいるような人もいて、こんな世界があるのかと思うと同時に、「才能ないと無理じゃん、今の俺の状況でどうにかしようなんて無理じゃん」と打ちのめされましたね。


そんな中、人の紹介で、ある出版社の編集長に出会いました。その人は、著名人のオンラインサロンを運営していました。知ってはいるけれど遠い世界にいると感じていた著名人が、意外と身近にいることを感じて、自分の経験値が足りないだけで、影響力をつければそちら側にいけるんじゃないかと思ったんです。スクールを通して出会った社長から「まず自分の力をつけな」と言われたこともあり、とにかく影響力を持つことが大事なんだと思うようになりました。


多様な出会いを経て1年近くが過ぎて、これからどうするか選択しなければならない時が来ました。ただ、ずっと個人で苦労してやってきたのに、今サラリーマンになったら、これまでやってきたこと、辛かった自分が全部無駄になると感じたんです。今の状態でそこに戻ってしまったら、「自分にとっては負け。ここで負けたら二度と立ち直れない」と思ったんですよ。そこで、会社員以外の道を模索しました。


個人事業主をこのまま続けてもうまくはいかない。最終的に、知人が出資すると言ってくれたこともあり、会社を作ることにしました。一般的に、「社長」ってなんだかすごい感じがしましたし、個人事業主より会社であることに意味があると思ったんです。


最初は、ウェブ制作やライティングやアフィリエイトなど、できそうなことはなんでもやりました。でも、どの仕事も単発で終わってしまって続かないんですよね。これではダメだと思いました。そんな中、ひょんなことから電子書籍のプロデュースをさせてもらえることに。さらに営業資料の作成を代行すると高評価をいただけて。それらをきっかけに企業と直接取引をする案件が増え、仕事量が安定していきました。


ずっとお金のことばかりを考えていましたが、徐々に心配する必要がなくなっていって。その中で、改めて自分がやりたかったことを考えるようになったんです。思い出したのは、中学校の時に持っていた「人に影響力を与えられる人になりたい」という気持ちでした。


正直、全国をヒッチハイクしながらいろいろな仕事をやってみても、自分が本当にやりたいことは見つけられませんでした。何かのプロフェッショナルにもなれなかった。でも、身につけたいろいろな知識やノウハウを生かして、自分じゃなくて、誰かのお手伝いをすることならできるんじゃないかと思ったんです。何にでも対応できるようになって、人が前を向けるような、良い影響を与えられる人になろうと決めました。


影響力を持って、前進するサポートを


今は、合同会社ワンカラーの代表として、さまざまなプロジェクトに携わっています。各地を転々とするのは変わらずで、コミュニティをまたいでいろいろな人とつながって仕事をしています。


たとえば、着物のリメイクショップのファッションブランドの立ち上げに伴走したり、お祝い事に使う「水引」のクリエイターをプロデュースしたり。自分のことを、プロジェクト単位で仕事する「プロジェクトディレクター」と位置付けています。


携わるプロジェクトの基準は、面白いかどうか。僕が面白いと思うのは、想いや魅力があるのにブレイクしきれていないヒト・モノ・コトです。それらを持っている人や企業に伴走して、特にビジョンの解像度をあげるお手伝いをしています。


そうやってプロジェクトをたくさん作ることで、前向きに進める人を増やしたいと考えています。一色雄生と言えば「プロジェクトディレクター」と想起されるようになって、プロジェクトを後押しすることで人に前向きな影響を与えられる人間になりたいです。

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