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特集 | 指出一正 オン・ザ・ロード

人口が減ることの浮き沈みと、懐かしいつながりをよみがえらせる関係案内所

指出一正

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目次

目の前の大切な人が1人いなくなる重さをリアルに感じて

ちょっとしんみりするかもしれませんが、僕の父が亡くなったことを話したいと思います。

昨年、東京と神戸の二拠点生活に加えて、足を運ぶ機会が増えた場所があります。それは僕が生まれ、高校時代まで過ごした故郷・群馬県高崎市です。なぜかというと、長く病を患っていた父が11月上旬に逝去したからです。実家では父と母が二人で暮らし、近くに住んでいる弟が行き来して、必要な世話をしてくれていたのですが、昨年の夏くらいから、「父を在宅で看取ろう」という話になりました。「在宅看取り」というのが家族の大きな目標というか、総意となって夏から秋を過ごしていたのですが、11月に父は、最期は静かに息を引き取りました。父は自分の家が大好きだったので、自分の家で逝去したことは父も満足だったのではないかと家族みんなで話しながら告別式を終えました。

父が亡くなったことで痛切に感じたことがあります。それは、人口減少問題についてです。僕は「日本の人口は半分くらいに減ったほうがいい」と暴論みたいな意見をよく口にしていました。たとえば、ドイツやデンマークは日本より人口が少ないのに、あれほどの生産効率やGDPを出したりしているように、実は人口が少ないことにもメリットがあるんじゃないかというのが僕の考えだからです。1つの仕事を完遂するために10人いないといけないのか、意外と5人でやったほうがやりやすさみたいなものは保たれるんじゃないのかなとか。社会保障制度も充実して、幸福度も日本より高いのではないでしょうか。

人口が増えれば国が強くなるという考え方も、工場で決まった製品をとにかく増産しようというときの考えに近い気がします。人口が減ることに対してメランコリズムを感じるよりは、むしろ「ポジティブな面は何か?」を考えてみてもいいんじゃないのかなっていう気がしています。元々、日本の人口は明治時代までは4000万人から5000万人ぐらいだったことを考えると、人口が減ることだけをなんとか食い止めなければいけないっていう論理は、そろそろ改めてもいいのかなと思います。日本の人口は世界で12位くらいでしたでしょうか。ただこんな狭い国で12位ってやっぱり多いですよね。人が多いと仕事も滞ると思うんですよ。大企業で上司が8人もいたら、8人の結論を待たなければ仕事が進まない。上司が4人に減ったら仕事のスピードも倍になるわけです。

あるいは出版業界でも、タイアップの記事を制作するときに代理店の方が原稿をチェックしますが、不要な場合もありますよね。善し悪し関係なく「赤字を入れることが自分の仕事だ」というような考えがある場合は特に、あいだで関わる人は少ないほうが効率的です。人口が減れば、他者から認められる濃度が高くなるので、各人がもっと責任のある仕事に時間を割くことになりますから、「自分なんて」と卑下する言葉を口にすることもなくなるだろうし、不要な仕事をしている暇もなくなるはずですから、むしろいいと思うのですが。神戸に住んで思うのは、東京より人口が少ない分、過ごしやすいです。ラーメン屋さんの行列も東京より短い。ただ、経済的には人口が多いほうがいい、人口減少社会は市場がシュリンクするという意見も聞かれますが、行列であふれた人はコンビニでカップラーメンとおにぎりを買って食べるとしたら、それが広く日本の経済のためになっているかというとそうでもなさそうです。だから、適度な人数まで人口は減ってもいいのではないかというのが僕の極論です。美術館に行っても並ばないでゆっくり見られたらクリエイティビティも上がるでしょう。地方で叫ばれがちな、人をただ増やすだけの人口政策論に対しても、僕は変わらず疑問を持っています。

とはいえ、父が亡くなったときに感じたことは、1人の人がいなくなるということが、こんなにも社会やコミュニティに対して影響を及ぼすのかということでした。たとえば、告別式のときに20年ぶりくらいに親族の皆さんと顔を合わせましたが、指出という苗字は全国でも多分300人ぐらいしかいない珍しい苗字なので、1人いなくなると非常に大きな損失だと、家族とか家系とか、そういう話をするわけです。

地域の方々も告別式に集まってくださいました。今僕が知っている高崎の人口は、40万人近くもいるような大きなものと捉えていますが、そういう感覚とは違う、20人くらいの中で地域を維持してきている方々の小さなコミュニティがあって、その中の一人がいなくなるということはコミュニティの維持、維持まではいかないけれどもいなくなる寂しさみたいなものが確実に、普段から実家で生活していない僕でさえも感じたということは、地域に住んでいる人たちにとっては、たとえようもない寂しさみたいなものがあるんだと痛感しました。

僕は5000万と6000万人くらいの国になればいいんじゃないかと軽々しく言っているけど、目の前の大切な人が1人いなくなる重さみたいなものをリアルに体験してみると、「いやいや待てよ」と、「1人の人口が減ることで5000万、6000万の悲しさや欠如感が生まれるわけで、そんな簡単に人口が減ってもいいとは言えないな」と反省しました。人が1人いなくなることが数では捉えにくいことだと改めて感じたので、今後、人口減少問題についてはもう少し丁寧に議論していきたいなというふうにも思いました。

子どもの頃に通った釣具店や『バイクショップフレッシュ』は関係案内所の理想

父が亡くなってからは、母から用事を言い使ってとか、法律上の手続きみたいなものとかで高崎市役所の人と打ち合わせしたりする機会なども増えたのですが、それはそれで大事なことでありつつ、もう1つ僕の中では興味深い動きが起きています。それは18年間過ごした「高校時代までの僕」にたくさん会うことです。

僕はもう捨てたつもりでいましたが、実家にいると母や父が取って置いてくれたものが出てくるんです。よく実家の父母がものを貯め込んで困っているという悩み相談を耳にしますが、それも愛情表現です。僕たちは大人になれば、自分が子どもだった頃の気持ちがわからなくなるかもしれないけど、親にしてみたら、子どもが50歳になっても子どもの成長は自分たちの人生の真ん中にあるんですよね。だから、これは取っておきたいなとか、捨てたら悪いかなみたいな気持ちが働いて、愛用していたコップとか、いらなくなったノートとかも全部取ってあるんです。それを断捨離と言って捨ててしまっていいのかなと、ちょっと考えるところではありました。

たとえば、中学時代に買った80年代のスウェーデン製のリールの箱だけが出てきたりすると、「おお! これ、超探してたやつだ!」と声を出して喜んで、丁寧に拭いて東京の家に持ち帰り、それが入っていたとおぼしき製品を入れて飾ったりして、「40年ぶりの邂逅だ」みたいな感じで楽しんでいますが、リールの箱の他に大きなものが2つあるんです。

1つは、以前にも話した高校時代に乗っていた「ピンク色の自転車」です。この自転車に「TROUTHOLICS」というステッカーを貼ったというローカルプロジェクトの話をしましたが、その自転車は壊れていたんです。直そうと思っていましたがなかなか踏ん切りがつかなくて、実家の父の看取りの話も出てきたりして、自分のことに時間を使うことができなかったんです。父が亡くなった後、少し静かになった自分の家で、僕の家は小さい工場、会社をやっていたので、父がいなくなって静けさがさらに募ったのですが、倉庫の中にあるいろんな昔のものを見ていたら「そうだ、このピンクの自転車、直そう」と改めて思ったんです。東京に持ってきて直すという選択肢も考えましたが、東京では車を持たない暮らしをしていて、自転車を運ぶためのレンタカーを借りて高崎を往復するのもお金がかかるなと思って、「自転車 修理 高崎」で検索したら何軒かの自転車屋さんが出てきました。その中で、ちょっとストリートっぽいロゴのお店が目につきました。そのサイトを見たところ「ママチャリからロードバイクまですべてオッケーです」みたいなことが書いてあって、自転車屋さんって結構「これはダメ、あれはダメ」ってお店が多い中で懐が広いなあと嬉しくなって、そこにお願いすることに決めました。店名が『バイクショップフレッシュ』という名前で、「フレッシュ、最高じゃないか。リジェネラティブだな。自分の自転車がフレッシュになるんだったら……」と思い、ある初冬の午後に高崎の家から車で20分くらい離れた高崎問屋町の近くにあるお店まで自転車を、実家にある母の車の後ろに載せて持っていきました。

『バイクショップフレッシュ』はマンションの1階にいくつか店舗が入っている中の1つで、ちょっとガレージっぽい感じのするお店です。その前に車をつけ、中にいた店員さんに「高校時代に乗っていた自転車なんですけど、また直して乗りたいなと思って。アポは取っていないのですが持ってきました」と話したら、20、30代くらいの自転車が好きそうなかっこいい3人の男性スタッフが、「もちろん、大丈夫ですよ」と温かく迎え入れてくれて、自転車を見てくれることになりました。車から下ろして自転車を見せたら、「おーっ!」て声を上げたんです。「これは、80年代のクロモリですね。この時代のはいいですよね。自分も80年代のクロモリをリノベーションして、2台持ってます」みたいな話になって、すごく肯定的に自転車を迎え入れてもらえてうれしかったです。

「これは雑誌の懸賞で当たって、京都の自転車屋さんのものだったか、高校時代に乗っていて、その頃、派手に転んだりした傷も残っていたり、当時乗っていたときのステッカーなんかも貼ってあるというのは、そのときの思い出として残したくて。それ以外に今はブレーキを両輪につけなければいけないなどの法規にも合うように直して、なるべくシンプルに当時のままで乗れれば」って話をしたら、すごく考えてくれました。「ちょっと時間かかるかもしれないですけど」と快く預かってくれたんです。その間も、店長さんと若いスタッフ2人はすごく楽しそうに、「これは80年代の何とかだ」とか言いながら、それぞれのパーツを検索してくれたり、「多分これはイギリス製のパーツだったかな」「80年代、90年代に創業したイギリスのビーチサイクルメーカーがあるんですけど、そこのフレームかもしれませんね」みたいなことまで調べてくれたりしました。

それを聞いていた僕は『ハイ・フィデリティ』という、音楽オタクの店長の元に音楽が好きな若い男子店員が2人いる、すごいイケてる映画があるのですが、そのお店の雰囲気を感じました。高崎ではしんみりした時間が続いていましたが、この『バイクショップフレッシュ』に行ったら、暖かい午後の光の中で自転車が好きな男子3人が僕の自転車を話題にしてあれこれ言ってくれているのを見て、「この自転車を持ってきてよかったな」と思ったんです。

僕は小学生の頃から釣りをしていて、中学、高校と、高崎と前橋、藤岡にあるいくつかの釣り具店に通うことがいちばんの楽しみでした。当時、釣り具店に行くと釣りが得意な若いお兄さんがスタッフだったり、すごい威厳のある釣り名人みたいな店主がいたりと、いろいろなお店があったんですけども、どこも個性があって、中学生の僕を一人前の仲間として扱ってくれたんです。「今度、◯◯川に行くときは乗せてくから」みたいな感じで、上から目線じゃなくて仲間として迎えてくれていたのは、釣り具店という小さな場ですが、僕にとっては、医者で釣り好きのお兄さんとか、居酒屋の店長の釣り好きのお兄さんとか、そういう方々と世代や職種を超えて出会える場所として釣り具店があったのです。関係案内所の理想は、そういう場であってほしいと今になって思ったりもします。

最近は大きなチェーン店とか、ある程度システマチックになったフランチャイズのお店が多くて、それはそれで便利でポイントカードを持っていたりもするし、当たり前のように買い物をしたりしていますが、『バイクショップフレッシュ』に行ったとき、本当に好きなことを本当に好きな人同士で共有するような空間をつくれているというのが、実は心の救いになるのかなと。僕にとっては、父を亡くした喪失感みたいなものを感じているなかで、ピンクの自転車が蘇るというのが、高校時代まで父と一緒にいた時間さえ同時に蘇るような感じがしたのです。「時間、かかりますよ」とおっしゃられたにも関わらず、3、4週間後には電話がかかってきて「直りました」っていう連絡をいただき、「次に高崎に行くときに取りに伺います」と返して受話器を置きました。数日後、高崎駅からそこまでバスに乗って15分くらい、お店で自転車と対面したら、それはもうピカピカでした。その“ピカピカ”は自分の思い出も一緒にピカピカな状態で直っていて、店長さんが「楽しませてもらいました」と言ってくれました。自転車を直し、綺麗に洗ってくれて、「僕たちも楽しみました」と言ってくれた。「関係」というのは、消費とか購入とかとは異なるスタンスであるべきであって、こういうお店の中でも関係性を、僕が勝手に関係性を感じているだけなんですが、こういう気持ちが自転車屋さんのなかで生まれたのは、自分にとっては幸せな時間を巻き戻してくれたように思えてなりませんでした。人と出会うことが楽しみな関係案内所が増えていくことも大事だと思いますが、自分の幸せを巻き戻してくれるとか、自分の心が沈んでいるときに和らげてくれるとか、関係案内所というものが日本各地で増えていくといいなと思うなかで、『バイクショップフレッシュ』を訪ね、1か月くらいで自転車を直してもらったことは喜び以外の何物でもありません。直った自転車をまたいだ瞬間に高校時代がフラッシュバックし、「股下が変わってない」と思いました(笑)。

ピストっぽい自転車なんですが、不思議なことに後輪はコースターブレーキで、ペダルを逆回転させると止まるんです。コースターブレーキがなぜ開発されたかというと、元々ビーチクルーザーに備えつけられたブレーキで、ビーチクルーザーは大体サーファーが乗っていて、どちらかの腕でサーフボードを抱えて自転車を漕ぐので、足でブレーキをかけるのは理にかなっているわけです。さらに前輪のハンドブレーキは、僕は左利きなので、普通は右側ですけど左側につけてもらいました。しっかりとグリス洗浄してもらったので、コースターブレーキの利きもすごくいい。タイヤも当時のタイヤメーカーと同じもので、ちょっと海外っぽい感じのものを入れてもらって、その当時のまんまのサドルを綺麗に磨き直してもらいました。だから、フラッシュバックしたんです。乗り心地が変わってなかったから。

自転車にまたがって、『バイクショップフレッシュ』を後にして、高崎の街なかを走り過ぎ、僕が青春時代にいつも渡っていた聖石橋を渡りました。上流から流れてきたと言われている「聖石」という大きな石があって、誰もそこは訪れないんですけど、その名がついた橋です。烏川という川にかかっていて、そこからは榛名山が目の前に見えるのです。その聖石橋を渡って実家に戻ったら、母がびっくりしてました。「その自転車、まだ乗れるんだ」って。「いや、直したんだ」って言ったら、「それはよかった」って。こうやって父と母と姉や弟と一緒に過ごした18年間の思い出を、父と母の愛情でいっぱい残してもらっているので、それを1つずつリジェネレーションしていこうかなと思っていて、その1つが完成しました。

そして、もう1つは自動車です。僕が大学を卒業するくらいのときに乗っていた車で、80年代のイギリス製の「ミニ1000」という車です。当時アルバイトをして、大学の浜松出身の先輩の実家が外車の中古車のディーラーをやっていたので、先輩に拝み倒してこのお金で買えるミニを探してほしいってお願いしたら探してくれたんです。金額は60万円くらいでしたが、『山と溪谷社』の『Outdoor』編集部でアルバイトをして貯めたお金で買いました。学生時代だったのか、もう働いていたのか、はっきりと覚えていませんが、5、6年間くらい乗りました。その後、ナンバープレートを取り外したミニ1000は、実家の会社の工場の車庫で父親が大事にしていた昭和のトヨタの車の横で眠っています。次はこれをリジェネレーションしたいなと思っているんですけど、大雨で滝のような雨漏りをしていた自宅の天井を修理するのにお金を使ってしまったので、もう少し自分の中で心と経済の余裕ができたら直そうかなって思っています。それが2025年以降に楽しみにしている僕のリジェネラティブ・プロジェクトです。

『侍タイムスリッパー』のように、地域がブレイクする図式もつくれたら

さっき話に出た『ハイ・フィデリティ』は2001年に公開された映画で、僕にとっての永遠のスタンダード。サウンド・トラックも持っていて、車で流すこともあります。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの曲も使われていて、かっこよくて、音楽好きにはたまらない映画です。

最近観た日本の映画で痛快だったのが、『侍タイムスリッパー』という映画です。これ、めちゃめちゃ面白い。間違えて「侍タイムストリッパー」って言いそうになりますが、沢田研二じゃないんで「タイムスリッパー」です(笑)。『カメラを止めるな!』の再来みたいなキャッチフレーズで、予告編を観たら映画館に行きたくなって、観に行きました。最初は池袋西口にある映画館『シネマ・ロサ』で上映されたのかな。『シネマ・ロサ』ってすごい映画館で、そこで封切りした映画がブレイクする現象がすごく多いそうですね。低予算の映画とかインディーズ映画とか、『カメラを止めるな!』のブームも『シネマ・ロサ』から始まったんですよね。映画は、幕末の侍が現代の京都の太秦撮影所にタイムスリップして来て、斬られ役として成長していくっていう物語です。

この映画は2つのとても大事な視点で描かれているように思います。ネタバレにならない範囲で話すと、1つは時代劇に対する愛情です。監督も役者さんも、時代劇に対する深い愛を持っていて、みんなで「時代劇フォーエバー」という気持ちでつくった情熱のようなものが感じ取れます。ご存じのように、時代劇は視聴者が高齢の方が多くなったりしていくなかで、僕らが子どもだった頃みたいに、『水戸黄門』や『必殺仕事人』が地上波のテレビでゴールデンタイムに流されることがほとんどなくなっています。時代劇が人気番組が流れる時間帯から遠ざかっているなか、時代劇の魅力をふんだんに感じている皆さんが、時代劇の良さを伝えたいという気持ちにあふれた作品になっていて素晴らしいと思いました。殺陣のシーンからは、本来の真剣の持つ重さがわかるやりとりを感じられます。もちろん、本物ではありませんが。一般的に、振り回しやすいように軽くつくられた刀が時代劇では使われているそうですが、気合の入り方とか、振ったときの刀のトルク感とか、ぶつかり合い方がまるで真剣の重みそのもの。それがすごいなと感じました。

もう1つは、主人公が会津藩でライバルが長州藩です。いわゆる会津対長州というと、なんか100年後に和解をしたというニュースが数年前にありましたけども、それこそ、戊辰戦争から会津と長州は互いの利の下で戦いました。もちろん、どちらも未来の日本を思い、宿敵みたいに戦った日本を代表する藩士たちなのですが、そういう歴史も伏線で語られています。ストーリーのなかで、とても大事な視点でしょう。

僕はどちらのローカルも好きなので、風見鶏みたいなことを言うなと叱られそうですが、会津の人たちの思いと長州の人たちの思いと、どちらも日本という国をよくしていきたい気持ちでぶつかったことですから、そういったことも含めて現代にタイムスリップした武士の気持ちが、すごく優しく、思いを捉えて語られています。

僕は監督にお会いしたことはないんですけど、プロフィールを拝見すると、農業をされながら映画を撮っておられるそうで、資金が本当になく、最後はお金が底をついたので、自分の車を売ってようやく完成させたというエピソードにもシンパシーを感じて、西宮の映画館に妻と観に行きました。すると、妻も超大喜びで面白がって、僕も妻も感想をツイートしたら、映画の製作スタッフがリツイートしてくれたっていうほど距離の近い映画だってわかって、それもまたよかったです。

僕たちが大好きな映画の世界は、夢を与えてくれたり、勇気を与えてくれたり、新しいビジョンを与えてくれたりしますが、映画製作の世界って裏側ではとってもシビアな視点で動いているんですよね。ある程度の利益を出すとか、動員数を出すためには数値化されている物事が多いんです。主人公を演じる俳優を誰にしたらどのくらい人が来るとか、金融工学じゃないけど映画も工学的に動いている部分が多くて、そこに疑問を持っている人もいるんだなということも感じました。

最近お会いした映画製作をしている方々の中にも、そこに自分のなかで相容れない感情があって、ということをお聞きしたりすることもありました。僕もずっと雑誌をつくってきたからわかるんですが、表紙を誰にしたら売れるとか、結構わかりやすいやり方があるわけです。でも、伝えたいことと、それをどう相反しないようにしていくかということが多分、腕の見せどころだったりすると思うので、そういうショービジネス的なところとか、マスに対してではありませんが、思いをいろいろな人に伝えたいとつくられる作品が逆にマスにも届くみたいな、「実はこれを待っていた」みたいなことが起きる社会はとても素晴らしいと思いました。だから、『カメラを止めるな!』とか『侍タイムスリッパー』は、ハリウッドを代表する人気スターが出ているわけではないんですけど、そこに役に徹したいぶし銀のような役者たちが、彼女や彼じゃないとできない表現をしているのを見ると、僕たちが心を揺さぶられるものは決して先につくられたバリューじゃないんだなということを感じました。ローカルの魅力を見せるときにも、このまちをアピールすれば何人来るだろうという数字はあるかもしれないけど、そうじゃないチャンスもあるということを『侍タイムスリッパー』を観て、地域がこのようにブレイクする図式がつくれたらいいなと思いました。

ちなみに、僕も映画をつくったことがあるんです。大学4年生の頃から就職1年目にかけて、8ミリフィルムで甘く切ないロードムービーをつくったんです。友達5人くらいで。今思い出しても恥ずかしいくらいですけど、結局、未完に終わっているので正確にはつくったとは言えません。高円寺と池袋を舞台にして、ある男の子が年上の憧れの女の子に会いに自転車で所沢へ向けて夜通し走っていくという、まるで当時のジム・ジャームッシュとか、明らかにネタバレで、低予算でつくったみたいな映画を撮ったんです。自転車はさっき話した自転車ではなく、ブロンプトンの折りたたみ自転車。主演は大学の後輩の男の子にお願いしました。自転車に乗って所沢まで走っていく。途中、バクダット・カフェみたいな24時間営業のドライブインがあって、ちょっと怪しい女装をした男性がやっている。それが僕の役だったんですけど、もう完全にパクリで、でも才能があると思ってました。「すげえ、俺」って(笑)。

当時の池袋はセゾン文化の香りが漂うまちで、国道16号の雰囲気がいいなと思って、ロケは池袋や高円寺、多摩湖、所沢などで行いました。寝ないでつくりましたが結局、完成できなかった。10万円くらいしたソニー製の編集の機材も買ったのに。でも途中で情熱が薄れたんでしょうね、僕の。就職して忙しくなったというのもありました。日曜に1日かけて撮って、月曜の朝から編集部で働いて、みたいなことをやっていました。頑張って脚本も書いたんですよ。ショートムービーなので、実際のロケは3日か4日ぐらいで撮り終えましたが、その後の編集作業のときにテンションが落ちていったのかどうか。よく覚えていないんですよ。フィルムも見当たらないし。結構いろいろ考えたんです。釣り糸でトマトをぶら下げて、高円寺の路地をトマトがバーっと飛んでいくとか、SFみたいに(笑)。何を考えてたんでしょうね、あの当時の僕は。緑色の世界にするためにチェックペンの緑色のシートを8ミリのレンズの前に貼り付けてみたり。多分、自分は何でもできると信じて疑わなかった時代なんだろうな。「俺もジャームシュになれるかも」みたいな。でも、もしフィルムが見つかったとしても、もう編集しようとは思わないでしょうね。恥ずかしくて再生さえしないんじゃないかな。あのとき一緒につくってくれた皆さんにはご迷惑をおかけしました。若気の至りということでお許しいただきたいです。

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