車からスマートフォンまで、テクノロジーは人間の生活に大きな影響を与えてきましたが、一方で大量破壊兵器や情報ハッキングをも生み出しました。もはやテクノロジーなしには生きられない世の中で、いかに危険から身を守るか──。アムステルダムにある『Waag』では、テクノロジーを使いこなし、社会に役立たせる術を市民に啓発しています。
テクノロジーを民主化させる。
ソーシャルイノベーション」や「ソーシャルデザイン」という言葉は馴染みのある言葉になってきたが、「ソーシャルテクノロジー」はどうだろう。これは会社が市場調査をして製品を生み出すのではなく、一般の人々が話し合って仕様を決め、自分たちの生活をよくするためにテクノロジーを活用することだ。
アムステルダム旧市街の中心にある『Waag(ワーグ)』は、過去25年間にわたり、人々の生活におけるテクノロジーの役割を見つめ直してきた。中世の城のような建物の中には、たくさんの科学機器や3Dプリンターがあり、研究所では誰もが受講できる多様なイベントやシンポジウムが行われている。ここでテクノロジーを理解し創造することの重要性を伝え、市民ができる限り楽しく有意義に新たなテクノロジーに触れられるよう働きかけている。
『Waag』は主にオランダとヨーロッパの政府プログラムの資金提供を受けて運営されている。市民の手で彼ら自身のために行われる研究は、市民の技術理解、オープンソース化、アートとサイエンスの融合という点で大きな貢献を果たしており、アムステルダムだけでなく海外の研究においても重要な役割を担っている。
『Waag』ではテクノロジーを学び、専門知識を身につけ、機器を使用して実際に試してみることができる。それだけでなく、業界や上下関係を超えたフラットな市民のつながりを生み出し、政策や新技術の開発に彼ら自身が影響を及ぼすことができる場を提供している。新技術を生み出す過程で市民を巻き込むことで「テクノロジーを民主化させる」ことは、『Waag』の使命のひとつである。
しかしながら、彼らの最終目標は、テクノロジーを用いる過程で十分な情報に基づいた決定を下し、社会全体および地球の未来に及ぼす影響を十分に認識できる市民科学者を育成することである。
『Waag』の価値観に基づいたソーシャルテクノロジーエコシステム。
『Waag』は、研究基盤・起業支援・教育機関の要素を兼ね備えた「ソーシャルテクノロジーエコシステム」であり、それぞれが独立しつつも組み合わさることで効果を発揮する。各研究プロジェクトでテクノロジーの価値を高め、『Fairphone(フェアフォン)』など多くのベンチャー企業を育成している。
研究に一般市民を巻き込み、新しい可能性を生み出すことは『Waag』の使命である。組織の活動の大部分は『Waag』の建物内で行われているが、『Smart Citizens』やデジタルマッピングプロジェクトなど、地域のコミュニティ内で行われる研究も存在する。
また、教育機関支援プログラムや教師向けのトレーニングも積極的に行われており、アムステルダム公共図書館との連携により、市内全域にデジタル工作機械を使ってものづくりができる学習センターが設立されている。
『Waag』にはさまざまな方法で参加することができる。毎週木曜夜に、誰でも自由に参加できる「オープンナイト」が設けられているほか、多くの人は特定のラボ(研究室)に関するアカデミープログラムに参加している。参加者は1年間で理論と技術を身につけ、ワークショップ形式でプロジェクトの計画と作成を行い、実践経験を積む。さらにアカデミーの集中講座として、ハッカソン形式で『MakeHealth』などの課題を取り上げ、より短時間で多くの参加者が集中することで具体的な結果を導き出している。
さらに『Waag』は、政府期間やNGO、教育機関などとタイアップし、ワークショップ、シンポジウム、イベントを共同開催している。
『Waag』がつくる文化
ラボを作ることは『Waag』の研究の原動力となる。
『Waag』のラボでは、調査結果を集めて、公正で応用の効くテクノロジーを活かすための試作品を開発している。
ラボはそれぞれのテーマに焦点を当てており、独自の技術開発を促すアイデアとリソースが相互に作用している。
新たなファッションの時代
TextileLab テキスタイルラボ
『TextileLab』では、新たな生地材料をつくる研究を行なっている。テクノロジーとテキスタイルをつなぐことにより、例えば、着用時に空気からCO2を積極的に抽出する素材を作ることができる。研究では、持続可能で循環利用できる素材や、自然を模した素材を使用している。この研究を通じて、人々は何を身に付けるか考え直すきっかけを得ている。テクノロジーと知識、材料研究を組み合わせることで、織物技術とファッションの境界を融合している。
バイオテクノロジーに触れる
Open Wetlab オープン・ウェットラボ
バイオテクノロジーは、生物のもつ能力や性質を利用して医薬品や食品を生み出し、人間の生活をより便利で健康的なものにする技術である。『Open Wetlab』では、アーティストやデザイナー、科学者、ハッカーが一般市民とともにバイオアートやバイオデザイン、生物学の研究プロジェクトを実施している。ラボで合成生物学や専門分野の基礎を学び、実験を行う「バイオハッキングアカデミーコース」は、国を超えて評価されている。
ものづくりの世界的ネットワーク
FabLab ファブラボ
インターネット上にある設計図やデジタル機器により、ものづくりは身近になった。3Dプリンターやカッティングマシンを使用すれば、正確で複雑なデザインの試作品を簡単に作成できる。FabLabとは「Fabrication(ものづくり)」と「Fabulous(楽しい)」の2つの意味を持つラボであり、『Waag』はヨーロッパで最初のFabLabの本拠地である。『Waag』にある機器は広範かつ最先端であり、世界中のDIYデザインの広がりに大きく貢献している。
『Waag』は持続可能なテクノロジーの未来を創造する。
共同設立者マーリーン・スティッカーさんへのインタビュー。
『Waag』についてより深く理解するために、オランダのインターネットの先駆者であり『Waag』の共同設立者でもあるマーリーン ・スティッカーさんに注目してみよう。
彼女は、テクノロジーが必ずしも中立的なものではなく、開発者の主観や偏見が複雑に結びついたものであることを見抜いていた。そしてインターネットのもつ「共通の利益」の特徴が失われることや、テクノロジーが利益や支配を生み出すための道具として、今後ますます利用されるであろうことを懸念していた。
マーリーンさんは、人々に責任感がなくなり野放図に広がっていくことは、テクノロジーだけでなく環境の変化など、私たちの生活のあらゆる面で見られる現象だと考えた。彼女は問う。「これらの責任は政府や企業だけにあるのでしょうか? そうではありません。私たち一人ひとりに責任があります。この事実を認め、地球や社会が直面する膨大な問題の解決策を生み出す手法として、テクノロジーを使う必要があります」。
『Waag』は、テクノロジーの創造に社会的責任を取り戻し、利益よりも社会のために機能させる試みなのである。
「協力」は社会を変える鍵である。
マーリーンさんは多くの敗者を生む利益重視の現代社会からのパラダイムシフトを提唱し、他人と協力することがすべての人にとって最もよい結果になると指摘する。そのためにも、技術的な専門用語をよりわかりやすいものに変える必要があると考える。「テクノロジーが社会にどう影響するかを学ぶため、『Waag』ではテクノロジーを理解し、話し合うための新しい言葉を積極的に生み出しています」。この工夫により『Waag』では専門分野を超えて人々の好奇心や遊び心をはぐくむことができている。
さまざまなアイデアを受け入れることは、まだ需要が明確でない技術を開発するきっかけになる。『Waag』は、利益や消費を意識することなく、人々がテクノロジーに触れられる場所なのである。
スマートシティにはスマートな市民が必要。
現代社会で重要な役割をもつテクノロジーの多くは「閉じられた」ものであり、これは人々が生活の重要な部分を自分でコントロールできず、企業にゆだねていることを意味する。マーリーンさんは言う。「テクノロジーを理解しない市民が社会を担うのではなく、テクノロジーを理解する『スマートな市民』が必要なのです」。
彼女は、『Waag』の価値観に導かれた社会は、オープンソーステクノロジーを活用した、より公正で住みやすいものになるという。これは市民が単なる消費者にとどまるのではなく、創造的なプロセスに参加できることでもある。さらに、豊富な情報が手に入る環境でテクノロジーを使いこなせることは、市民が自ら社会や政治を変え、未来を創造する力を持つことを意味している。
Case Study
Case Study _ 01 FabLab×Network Smart Citizens
熱心な市民科学者のネットワーク。
『Waag』では、市民に大気汚染、水質、騒音公害、放射能を測定するワークショップを提供している。これは多くの場合、市民が住むエリアで開催される。環境の影響を受ける人々を巻き込み、彼ら自身で測定することが重要だからだ。参加者自身が簡易測定装置をつくることで、研究がより自分ごとになる。この装置はインターネット上で無料で公開されており、誰でも作ることができる。
装置をインターネットに接続することで、市民は地域内で公害の監視網を構築することができる。地元の環境汚染レベルを把握し、それを裏付けるための科学的なデータを持っていることは、市民に大きな力を与えている。さらに厳密な科学データを生成することで、これら市民科学者たちは懸念点をより明確にし、政策立案と企業行動に影響を与えることができる。
一方で、この活動を通じて、同じ懸念を持つ住民のネットワークが形成される。彼らは、住んでいる地域の状況や自分の行動が環境にどう影響するかをより深く理解し、自分の行動に責任を負うようになる。
Case Study _ 02 User×Maker MakeHealth
誰もが暮らしやすい社会へ。
『Waag』の理念である「共創と包括的デザイン」を体現する本研究では、患者、医療専門家、病院、デザイナー、アーティスト、ヘルスケア起業家を結び付け、それぞれの立場から意見を出し合い、ヘルスケアを必要とする人々の課題に対する解決策を生み出す。各チームには「課題当事者」がおり、デザイナー、メーカー、医療専門家とともに、チームは目前の問題を解決するための試作品を設計する。
『MakeHealth』は大手メーカーの主力商品とは異なる日常的な製品に焦点を当てており、潜在的なニーズさえ特定されていないこともある。例えばライトセーバーのように輝きを放つ杖。これは弱視者のための製品であり、本人にとって道が見えやすくなるだけでなく、相手にも認識してもらえるため、交通の多い場所でも安心して道路を渡ることができる。ほかには、高齢者が階段を上るのに役立つ移動可能な小さな階段。どちらもエンドユーザーと共同で製作・開発された。また開発過程がオンラインで共有されるため、ほかのユーザーが解決策を応用することもできる。
Case Study _ 03 Ethics×Sourcing Fairphone
電子機器もフェア&エシカルになり得る。
『Fairphone』は、研究で生み出された試作品から企業が設立された事例である。
現在『Fairphone』は、厳格な倫理および環境基準に従って製造されたスマートフォンを販売している。高品質の部品で作られた端末は、通常の携帯電話よりも長持ちするように作られており、携帯電話の廃棄による環境負荷を軽減する。
世界の紛争地域では鉱物が違法に採掘され、その利益が戦争を助長する。研究では、スマートフォンに使われる部品を、出所が明確で高品質な部品に置き換えた試作品が作られた。その試みは、個人や環境に害を与えることなく製造された部品のみで構成されるスマートフォンを市場に投入する挑戦へと進化した。2013年、『Fairphone』は『Waag』からスピンアウトしてエシカルなスマートフォンを販売する企業となった。スマートフォンの生産に倫理的なガイドラインを適用することにより、『Fairphone』は採掘、設計、製造、リサイクルのバリューチェーン全体にいい影響を与えつつ、倫理的価値を第一に考える製品の市場を拡大している。
Information
Waag
Sint Antoniesbreestraat 69, 1011 HB Amsterdam
月〜水曜:11:00〜22:30/木〜日曜:9:00〜22:30
不定休
https://waag.org