「時間を掛けてでも、会いたい人がいる」。初来島の細田侑さんを通して知る、青ヶ島の自然と人。【青ヶ島・前編】

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2022.02.04

東京都墨田区出身で、大島にある都立大島海洋国際高等学校へ島留学をしていた経験を持つ細田侑さん。国土交通省・公益財団法人日本離島センター主催の日本全国の島の祭典「アイランダー」では、有志らとともに情報発信を担当。各地の島人と知り合う中、青ヶ島還住太鼓の名手である荒井智史さんと出会い、「いつか行きたい島」として青ヶ島に焦がれていたと言います。そんな細田さんがついに青ヶ島を初めて訪問しました。

(取材は2021年11月に行いました。撮影時にのみマスクを外しています)
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まずは島の成り立ちから知る。

大島の高校に島留学していた高校時代に知り合った、三宅島の友人のつながりで2010年ごろから「アイランダー」に関わり始めたという細田さん。イベントでは、日本中のさまざまな島の人たちと交流し、たくさんの島のことを知ったそう。「アイランダーというイベントを手伝う中で、出展していた各地の島の人たちと交流会を通して仲良くなりました。荒井さんともそこで。最初はもう10年ほど前かなあ。それからは毎年イベントで顔を合わせていました。荒井さんは青ヶ島還住太鼓を叩いている姿が印象的。というか、主にその姿しか知らないので、今回島で会えるのがすごく楽しみです!」と細田さん。
荒井さんは島では自動車整備やレンタカーの貸し出し、浄化槽整備、NPO法人「還住舎」の運営など、島の暮らしに必要なさまざまなことを生業に。今回、初めて来島した細田さんのために、特別に青ヶ島を案内してくれるとのこと。「よく来たねえ!」荒井さんはそう笑顔で迎えてくれました。

島唯一の商店『十一屋酒店』からこの日のガイドはスタート。 
模型を見ながら青ヶ島の基礎を学ぶ。島はまるで大海に浮かぶ船のようなかたちだ。

まずは、青ヶ島の外輪山の最頂部「大凸部(おおとんぶ)」から島の全景を見ながら。伊豆諸島の多くの島同様、海底火山の噴火によってできた青ヶ島の成り立ちをレクチャー。
「青ヶ島ってよく『二重カルデラ』とかって形容されますが、それは間違いですからね(笑)。正しくは『二重式火山』、または『二重式カルデラ火山』。島全体が噴火で吹き飛んだ結果、島の中央付近にある、現在の窪地のような部分ができたのではなく、もともと島は大きな山で、その中にできた巨大なマグマだまりが抜けて、崩落したのが現在の姿なんです」

大凸部に向かう登山道の入口で説明する荒井さん。
左/途中、東台所神社の参道を見学。急斜面に玉石の階段が続いていた。右/島の随所で見かけるオオタニワタリ。群生するさまは日本ではなかなか見られない。
ガイドの間、細田さんは熱心に荒井さんに質問をぶつけていた。
大凸部展望台からの眺望。中央のこんもりとした山が丸山だ。
大凸部の標高は423メートル。360度の眺望がすばらしい。

次いで、島の中央部にある内輪山・丸山へ。天明5年(1785)の大噴火で誕生したという火口の峰部分にある丸山遊歩道を歩きながら、島の植生などについて教えていただく。
「丸山を遠目に見ると縞模様になっているのは、椿の植林の際に、もともと生えてきた木々を防風林として残したため。そして伊豆諸島ですごく重要な樹木がオオバヤシャブシ。2000年に噴火した三宅島で最初に生えたのもこの木なんですよ。オオバヤシャブシは、根っこに、空気中の窒素を取り込んで木に栄養を与える根粒菌が着いていて、いち早く成長する。伊豆諸島では、森のスターターはオオバヤシャブシ。一方、たとえば長年噴火をしていない御蔵島などにはオオバヤシャブシはなくなり、スダジイなどの巨木が多い。火山島に行ったら、森の年齢を気にして見てみるとおもしろいですね。八丈島も600年以上噴火していないからスダジイの巨木がいっぱいあるでしょ。木々や森からも、島の成り立ちや歴史を知ることができるんです」
 細田さんは、「さっきまで大凸部から見ていた丸山の火口部を、こうやって歩けるというのはダイナミックな感じ。島を丸ごと体感している気分になれますね」と感動しきりだった。

オオバヤシャブシ。海辺や荒れ地でも育つ丈夫な植物。
左上/椿の植林跡。これが丸山が縞模様になっている理由だ。右上/丸山周辺を歩きながら。「このあたりにも『ひんぎゃ』(噴気孔)がありますね」と荒井さん。左下/木の実をほおばる細田さん。「ん、味しない…」。右下/島に自生する明日葉。さまざまな料理に使われる島の必需品。
自生する明日葉の種。繁殖力も強いという。
木々の合間から見えた絶景。丸山遊歩道は一周約1時間ほど。

青ヶ島の「還住」の歴史。

集落内も案内してくれた荒井さん。立ち寄ったのは、「佐々木次郎太夫墓」。集落を見下ろす高台にひっそりとある墓地の前で、荒井さんは青ヶ島を語る上でもっとも大事な「還住(かんじゅう)」の歴史を教えてくれた。
「天明5年(1785)の大噴火で青ヶ島は島全域が焦土と化し、島の人々は八丈島に避難することを余儀なくされます。佐々木次郎太夫さんは噴火から30数年後に名主になり、島への本格的な帰還事業を始めた人物。当時は『起こし返し』と呼んでいたようです。それまでも島の人たちは何度も故郷への帰還を試みてはいましたが、渡海は命がけで3回に2回は遭難して人が亡くなっていました。名主・三九郎さんなどは、一度は青ヶ島に渡るも船が時化で破船し、島の建材を使って仕立て直し八丈島に戻ったりもしました。が、最後は紀州(現在の和歌山)にまで流され、命を落としてしまいます。佐々木次郎太夫さんは先人の思いを継ぎ、名主となって起こし返しに力を入れます。島民同士で喧嘩をしない、役割を決め組織化するなど、さまざまなルールを設けたりもしました。そして10年くらい島の復興を続け、ついに天保6年(1835)に江戸幕府の検知竿入れが行われ、公儀に復興が認められ、免除されていた年貢もまた収められるようになりました。1785年からちょうど50年後、ようやく青ヶ島は復興したんです」

集落内にある「佐々木次郎太夫の墓」。青ヶ島を語る上で欠かせない重要な存在だ。

ちなみに「還住」とは、青ヶ島の起こし返しの歴史を、民俗学者の柳田國男さんが1933年に『青ヶ島還住記』として記し定着した言葉だ。しかし、なぜそこまでして帰ってきたかったのだろう。細田さんも質問する。「明確な答えはわからないけど、自分の今の考えとしては、八丈島に渡り、助けてもらってはいても、自分たちの土地はなく、小さな集落で身を寄せ合い、なんとか暮らしていたのでしょう。八丈島でも飢饉が頻発し、餓死者も出ている中、青ヶ島から来た200人ほどに食料を回す余裕もなかったかもしれません。生き延びてはいたけれど、土地がなかったのが大きかったんじゃないか。どんなに荒れ果てても、島に戻れば自分たちの土地がある。だからやっぱり故郷に帰ろうって思いが強かったんじゃないかなって。そしてそこまでして帰ってきた人たちがいたからこそ、今の自分たちがあると思っています」。

江戸幕府の大筒役の要職にあったという流人・佐々木卯之助の墓も。人柄と見識で島人に愛されたという。

島に受け継がれる「還住」の歴史を、実際に関わったという佐々木次郎太夫の墓前で聞く。細田さんにも思うところあったようだ。「還住にまつわる島の先人たちの歴史や思いを聞けば聞くほど、この島に渡ってくることがいかに特別なことだったのかということを思い知らされます。そして時代は変わっても、それは今も同じこと。冬場は海が荒れて欠航も多いし、夏も台風が来たら長期間、港に船がつかないですし、ヘリコプターの予約だって席数が限られているからなかなか簡単ではないし……。青ヶ島の人たちが思う『島に帰る』という感覚、そして島とつながったアイデンティティは、僕には想像が追いつかないけれど、そこから学ぶことは多いと感じます」。

島を散策中、陽光に照らされ光り輝く海面が何度も見えた。
神子の浦展望広場。250メートル下は玉石の海岸。晴れれば八丈島も望める。

島に来るタイミングがある。

青ヶ島の魅力の大きな部分に自然があるのは間違いない。二重式カルデラ火山の威容、圧倒的な星空、オオタニワタリが群生する森……。しかし、圧倒的な自然の魅力だけにフォーカスしてしまうと、この島の本当の価値はわからない。荒井さんも「自然の魅力とともに青ヶ島は人に魅力がある。そして自然と人とが重なり合っていく部分に島の暮らしがあって、そこに人がつくる文化が生まれてくる。そういう部分も含めて理解してもらって、島のファンになってくれたら。日常のおもしろさを感じて、長く付き合える関係ができたらいいですね」

島の北端にある「ジョウマン共同牧場」は、島人らが共同で使う飼育施設。夜は星空もうつくしい景勝地。
天然の地熱蒸気を利活用した「ふれあいサウナ」。細田さんも絶賛の島のおすすめスポット。
今回、細田さんが宿泊した島の民宿『かいゆう丸』の食事。島寿司をはじめ、郷土料理が多数並ぶ。

島の根っこの部分まで積極的に理解してくるような、そんな人が青ヶ島には合っているのかもしれない。良質な関係人口が生まれ、島に新しい風が吹くかもしれない。
「荒井さんと出会ったことがきっかけで青ヶ島にいつか行きたいと強く思っていました。そして今回、正直、太鼓の演奏をしている荒井さんしか見たことがなかったので、島で自動車整備をしているのを見た時は新鮮でした。森ではさまざまな植物に詳しかったり、島の歴史もたくさんの文献を読んで勉強され、雑誌や新聞に寄稿したりして。SNSを通じて知ってはいましたが、いろいろ質問しても全部的確に答えてくれたものすごいなって。荒井さんのことを今まで以上に勝手に尊敬していますし、なにか自分自身の活動にもつなげたいなって思いました」
他方、島人は意外にもかなりオープンだ。取材時、それほど多くはなかったが、出会った島の人は気さくに話しかけてくれ、みんな優しかった印象がある。細田さんも「次はいつかわからないけど、絶対また来る!」と名残惜しそう。
「次はもっと暮らしの部分も見てみたいですね。今回は荒井さんの『青ヶ島還住太鼓』の演奏を島で見る機会は叶わなかったけど、それは次回の楽しみに。無形文化財になっているという島踊りや、島唄なども気になりました。青ヶ島をはじめ、島に行くのは、僕は縁だと思っています。今回10年越しの願いが叶い青ヶ島に渡れて本当によかったですし、これがタイミングだったんだと思います」

島の海の玄関口である三宝港(青ヶ島港)にて。背後に見えるクレーンはなんと漁船用。防波堤が無く、船を停泊できないため毎回陸にあげるという。

4度目の青ヶ島へ。編集者・久保田真理さんが行く、何度訪れても魅力あふれる青ヶ島。【青ヶ島・後編】はこちら

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photographs & text by Yuki Inui

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