栃木県から長崎県に移住してきた赤坂さんご夫婦。斜面地の空き家でギャラリーカフェ「燈家」を開業し、地域に愛されるお店になりつつある。長崎に移住し、2人のお店ができるまでの物語を辿った。
長崎の斜面地に移り住んだ夫婦の物語
あなたは世界新三大夜景をご存知だろうか?香港、モナコ、そして長崎がそれに選ばれている。なんと言っても、斜面に建ち並ぶ民家や町の灯りが、長崎の壮大な夜景を形作っているのである。日常に寄り添う一つ一つの灯りが、多くの人を魅了する夜景となる。とてもロマンチックな話だ。
一方で、長崎市が抱える課題にも目を向けてみよう。斜面は眺めるには良いが、暮らすには少々不便さが伴う。若者の県外流出は止まらない上に、坂の町を降りて平地で暮らし始める人が増えると、斜面に建てた家はそのままに。空き家となり、夜景を織り成す町の灯りが一つ一つ消えていく。このまま衰退の一途を辿れば、長崎が誇る世界新三大夜景は一体どうなるのだろう。
そんな長崎の夜景スポット・稲佐山の中腹にある江の浦町に、栃木県の那須高原から移住してきたのは、赤坂伸子さん・建史朗さんご夫婦。2019年10月に移住し、2020年4月からは「Cafe+G 燈家 AKARI-ya」を営む。空き家になっていた築60年の民家を改装した、2人の住まい兼小さなカフェ。斜面地の涼しい風が通り抜け、時間がゆっくりと流れる静かな空間が心地いい。
お店を構えるのは、観光地・長崎らしく人が賑やかに行き交う場所ではなく、坂の上の住宅地のど真ん中。中心部からバスに乗って15分ほどで着くこの町には、その見晴らしの良さから、広がる住宅地の途中には多数の観光ホテルがある。一体どんなご縁があってこの場所に?赤坂さん夫婦の移住の物語をご紹介しよう。
どうして江の浦に移住したのですか?
2人が以前暮らしていた那須は、どこかに行くには車で20〜30キロを走らなければならないほど、自然に囲まれた長閑な場所。東京の仕事に通える、一番遠い田舎暮らしをしたくてその地を選んだ。次第に、建史朗さんは仕事で東京にいる時間が多くなったり、伸子さんは那須の仕事が増えたりといった生活に。お互いに多忙な生活を続けて15年ほどが経った頃、建史朗さんが病気を患い、声を失った。建史朗さんはグラフィックやイラストの仕事を自営で行っていたため、病気によって仕事や今までと同じ生活が出来なくなり社会との繋がりが希薄になる恐れが出てきた。加えて、歳を重ねれば、那須の気候も寒くて体に堪える。
この生活を変えなくては。
やがて2人はそのように思い至った。建史朗さんの出身地が熊本県ということもあって、「熊本や九州で暮らすのも良いかもね。」そんな話が出るようになった。そこで、忙しくて何年も行っていなかった旅行に出かけることに。伸子さんはてっきり熊本かなと思い込んでいたが、建史朗さんの発案で長崎が目的地となった。伸子さんの歴史好きや独特な文化に惹かれる性分を知っていたからだろうか。2人はこの旅行がきっかけで長崎に惚れ込むばかりか、移住への道を一歩踏み出すことになるのである。2018年の夏のことだった。
長崎に足を踏み入れれば、視界に飛び込んでくる見たこともない景色。山の上の方までびっしりと家屋が立ち並んでいる。町の中には、地域に根付いた独特な文化の面影。会う人は皆大らかで親しみやすい。8日間の旅で毎日1日中歩き回り、長崎の魅力を思う存分味わったのだった。
県庁も最近建て変わったらしいから、ついでに新しい庁舎を見に行ってみよう。旅の最後に、そんな軽い気持ちで長崎県庁に立ち寄った。何やら移住相談窓口もあるらしい。パンフレットだけでも貰って帰ろうか。そうして窓口を訪ね、担当者が対応してくれた。ところが、ちょっと寄り道するつもりが図らずも話が盛り上がってしまった。長崎を満喫していた赤坂さんは、気づけば担当者と2時間も話し込んでいたのだ。
この8日間の出来事、暮らし方、町の魅力。親身になってたくさん相談に乗ってくれた。連絡先も交換し、次また長崎に来る時は市の移住担当者も紹介してくれることに。それから2人は長崎を後にして、那須高原へと帰ったのだった。
長崎移住の計画が徐々に現実味を帯び始める…。
暮らす家・住む場所・社会の中での生き方を考える
那須に帰ってからも、長崎県の移住相談窓口の人とは何度か連絡のやり取りをした。また、その年の夏の時点ですでに仕事を辞めていた伸子さん。新しい移住先を見つけるためにも、時間を埋めるように動いて回りたかった。同年の冬にもまた長崎へ足を運んだ際には、県庁の人が約束通り長崎市の移住担当者にも紹介してくれるなど、着実に歩みを進めていた。
そのように人から話を聞いたりネットで調べたりするうちに、これから移住先を決めるにあたって重要な要素が見えてきた。まずは、住む場所だ。事の発端は、生活環境を変えるべく移住先を探し始めた。住む環境は、新しい2人の人生を歩み始めるにふさわしい場所を選ばなくてはならない。やはり、魅了された斜面地での暮らしに惹かれるものがあった。
また、どうやって生計を立てていくか。新しい場所での仕事は、どこかの企業に勤めるのもなんだか違う。仕事は、社会と私たちとの接点でもある。これから新天地において、社会との繋がりをどのようにして培っていこう?考えているうちに、「小さなお店をやってみるのも良いかもな。」漠然とそんな想いが2人にこみ上げてきた。長崎で暮らすこととは。私たち夫婦が長崎で生きてい
くなら。想いを巡らせながら赤坂さんは行動を止めなかった。
それから定期的に長崎を訪れては、行政の空き家バンクや民間の不動産情報を通じて、色々な物件を見て回った。全部で20件ほどは候補があった。もちろん、同じ長崎市内だが場所はバラバラだ。空き家と言ってもどれぐらいの状態なのか、この時点では全く見当もつかなかったので、良い物件が見つかればいいな〜というぐらいの軽い気持ちで探し続けていた。
そんな中で、市の空き家バンクで燈家の物件となる空き家に出会った。
「この物件を見た瞬間に、この家でお店をやりながら暮らすイメージが浮かんだんです」
当時の記憶を伸子さんは語る。格子窓やすりガラスなど、昔ながらの造作が残る素敵な家だった。2019年の6月には、空き家の持ち主からこの家を譲り受けることに。まさに長崎の斜面地暮らしへと導かれていた。
住まいを整備し、10月に長崎へ移住。翌年の1月から店舗スペースのリノベーションを開始、4月には「燈家」がオープンした。形態はカフェと、壁面などの空間を利用したギャラリー。現在は建史朗さんの作品などを展示しており、それ以外にもお店の看板や店内の装飾など随所に遊び心のある趣向が施され、赤坂さん夫婦の手作りのお店が出来上がっていた。
長崎の町を照らす“燈”が灯る家に
伸子さんに今の暮らしぶりや、お店のことについて訊いてみた。
伸子さん「住宅地の中でお店を開いてよかったなと思います。このお店の前を地域の人が行き交うし、声が聴こえてくるんです。カフェも有り難いことに、ご近所さんに本当によくご利用いただいてます。長居してくださる方が多いので、居心地が良いと思ってくれているのかな」
子どもからお年寄りまで、お店の前の階段を上り下りして生活する。向こうの丘にある学校からは、生徒の声が風に乗ってお店まで届いてくる。町中でお祭りがあれば、賑やかなざわめきが坂を登ってやってくる。長崎で暮らす人々の姿を身近に見ることができ、声が聴こえる場所にいた。
伸子さん「私たちも、斜面地暮らしの一員に混ぜてもらえて嬉しいです。お邪魔させてもらっています」
そう語る伸子さんは、とりわけ坂の町への思い入れがあるように感じられる。今まで脈々と受け継がれてきた長崎の暮らし、そしてそれは現在の日々にも変わらずに息づいている。そんな一つ一つの小さな営みを経て、長崎の町全体が見せる他にはない表情が確かにあった。長崎が誇る夜景こそ、その表情の一部である。
伸子さん「明るくて綺麗であれば良いというわけじゃないと思うんです。光が灯ったり消えたりするのは、そこに生活がある証拠。民家の明かりであることに意味があると思っています」
きっとお店作りをしている時から、移住する前から伸子さんはこのような話をしていたのだろう。建史朗さんからの言葉、「もうお店の名前も決まったね。“燈”でしょ?」という提案で、自然と方向性が定まっていった。
移住を果たした日、元・家主さんは「10数年ぶりに父の家に明かりが着いた。嬉しい」と喜んでくれた。ああ、やっぱりこの家は「燈の家」だったんだね。2人の新たな物語の始まりに灯る感動を噛み締めていた。長崎の夜景を彩る小さな燈は、訪れる人へゆっくりと静かにその温もりを分け与えてくれるだろう。