つい最近、Netflixで「ワンデイ ─家族のうた─」というおもしろい作品に出合った。この作品は1970年〜80年代に人気を博したコメディドラマのリメイク版で、それぞれにマイノリティ性を抱えた家族の成長を描いている。
シングルマザーの主人公は、アフガニスタンへの出兵後、PTSDを抱えている元・軍人で、環境問題に意識の高い娘は、物語の途中でレズビアンであることを自覚する。キューバの伝統的女性観を重んじる祖母は、まだアメリカの市民権を得ておらず、「隣人家族」として接している独身男性はアルコール依存の経験を持ち、今も不安を抱えている。
本作の何がいいかと言えば、“きれい事のベクトル”がいい。「差別はいけません」とか「マイノリティの問題は、みんなの問題だ」と言うような、お決まりのきれい事は言わない代わりに、「私たちは、きっと分かり合える(差別してしまうこともあるし、偏見をもっちゃうこともあるし、いつも他人を大事にできるわけじゃないけれど)」というきれい事を重んじている作品なのだ。
例えば、祖母のリディアは、キューバから移住してきた時の苦難を事あるごとに語るが、孫のエレナは「そればっかりね」と平気で言うし、女友達と親密に過ごすエレナを見たリディアは「ゲイだね」と決して歓迎はしていない口調で言う(アメリカではレズビアンのことも“ゲイ”と言うことが多い)。そんな彼女らが「どうしても孫にメイクさせたい祖母vs絶対にメイクをしたくない孫」として対立する回はとても興味深い。無理にメイクをさせられたことで激昂した孫の部屋を、夜中に祖母はスッピン姿で訪れて、「あなたにとってメイク姿を見せるのって、こんな気分なの?」と話しかける。そして最後は抱き合って認め合うのだ。
この作品を見ていると僕はとても勇気をもらえる。もし自分と周囲の人との間で「差別」が生まれてしまっても、それにユーモアを持って対処し合うタフさがあれば、互いに愛する意思があれば、人はみな分かり合えるんじゃないかと思えるからだ(こうして並べると、めっちゃ難しいやんけ……と思ったが〈笑〉)。
一方で先日、大坂なおみさんがお笑いコンビ「Aマッソ」の差別表現にユーモアをもって対処したことに対して、賛否が分かれた件には考えさせられた。「Aマッソ」のお二人が、ネタの中で、大坂なおみさんに必要なものは漂白剤で、肌が焼けすぎだ、と言ったそうだ。それに対し、大坂さんは「全然知らないのね。資生堂のアネッサパーフェクトUVの日焼け止めがあるから、私は絶対に日焼けしないんだよ」と笑って返した。これには賞賛の声も多数あった一方で、「差別を笑って受け流す人をメディアが持ち上げていては、受け流したくない人・受け流せない人が、まっすぐに悲しむこと、怒ることを否定する空気ができてしまう」という至極真っ当な意見も出ていた。
差別という冷や水をかけられても、心が縮まずにいられるかどうかは、本人がタフかどうかで決まるのではなく、「ワンデイ」がそうであるように、愛し、認め合える人がいるかどうかで決まる。でもこの社会には、そんなセーフティネットに巡り合えず、孤独に暮らす人たちもたくさんいる。彼らは冷や水の冷たさにただ静かに耐えるか、もしくは怒りで燃えたぎったりしながら、体温をあげるしかなくなるはずだろう。
だからやはり、メディア上で「差別を笑って受け流す姿」を発信することには、センシティブであらねばならないのは事実だ。だが、「オネエ」のみなさんがこれまで、差別を笑って受け流してきたことで生まれた「社会とLGBTのつながり」は、かけがえのないものだとすると、その是非の判断は難しい。「差別とメディアとユーモア」、このテーマは、もう少し考える必要があるなと思っている。