ノンフィクションライターで、大学教授でもあるジェフリー・S・アイリッシュさんが、50年間、大切に保存されていたあるご夫婦の手紙をまとめた本を、鹿児島市にある出版社『ラグーナ出版』で制作しました。この『ラグーナ出版』は、精神障がい患者が働く出版社。言葉の「力」を知る、ラグーナ出版を訪ねてみました。
言葉に救われる、患者たち。
「精神障がいのある方には、文章を書くことが得意な方が多いんです。以前、精神科病院で働いていたとき、僕がその前に出版社で働いていたことが患者さんの間で広まって、みんな、僕なら読んでくれると、書いたものを持ってきてくれるようになりました。それが元になって文芸誌『シナプスの笑い』をつくることになり、その後、彼らといっしょに働く出版社を立ち上げたのは、僕にとっては自然な流れだったように思います」
設立11年目を迎える『ラグーナ出版』について、同社の代表取締役であり精神保健福祉士(PSW)の資格も持つ川畑善博さんはそう振り返る。
ラグーナ出版は、鹿児島市にある小さな出版社だ。就労継続支援A型事業所として、現在、統合失調症や躁鬱病などの精神障がい患者29人が働いている。書籍や雑誌の制作・編集を中心に、名刺やチラシのデザイン、製本などの事業も行っている。
産声を上げたのは2006年。川畑さんは東京の出版社を退職後、地元の鹿児島県に戻り、県内の病院でPSWとして勤務していた。その病院の入院・外来患者、医師、看護師、PSWらが集まり、『シナプスの笑い』が刊行された。
「病の体験を、言葉と力に変えて伝えていこう」という志のもと、精神障がい体験者自身の執筆による病気の体験記や文芸作品、座談会記事を掲載した同誌はやがて、発刊ごとに多くの賛同者、読者を集めるようになった。当初はNPO法人として活動していたが、川畑さんは患者とともに働ける出版社として本格的に活動することを決意し、08年に『ラグーナ出版』が誕生。精神病の早期発見・早期治療や、患者が自尊心を持って働ける場所づくりを目指し、メンタルヘルスに関する書籍を中心に刊行を行っている。
出版事業を続ける中で川畑さんは、患者の多くが何らかの「言葉」に救われた経験を持っていると気づいた。その気づきへのひとつの答えが、11年7月に刊行した書籍『勇気をくれた言葉たち─精神病体験を救ってくれた言葉』だ。タイトルのとおり、精神病の患者や患者だった人が「救われた」と感じた一言を、そのときの体験とともに紹介している。
『シナプスの笑い』の読者に制作協力を求めたところ、多くの人が「言葉」の体験について教えてくれたそうだ。
「紹介している言葉は『気楽に行こうや』だとか、『ジュース、持っていかんね(いきなさい)』だとか、どれも特別な言葉ではないんです。何を言うかよりも、誰がどんなとき、どんな思いを込めて言うのかが大切なんだと感じました。言葉の中に相手への信頼が響いているんですね」
こういった経験をとおし、川畑さんはラグーナ出版の今後の方向性を見定めている。広い意味で、「誰もが持っている、その人にしか言えないこと」や、「放っておいたら忘れられ、消えてしまう声」を、すくい上げて形にしていくのだ。
「製本までできる強みを活かして、日記や旅行記などの個人的な記録を書籍化する自費出版も請け負っています。幼児とその家族向けに、この地方独特のぬくもりを感じる鹿児島弁でお誕生日を祝う『おたんじょうびの絵本』づくりも始めます」
また、その共生社会実現への取り組みで「南日本文化賞」(南日本新聞社主催)も受賞した。
50年前の手紙を通し、故人と対面する。
そんな川畑さんやラグーナ出版の姿勢に共感し、ラグーナ出版からの書籍出版を予定しているのが、鹿児島国際大学教授で、地方の暮らしやまちづくりを研究する、ジェフリー・S・アイリッシュさんだ。
南九州市川辺町で暮らし、空き家対策にも携わるジェフリーさんは、2017年2月に町内の高田地区を空き家探しのため歩いていたところ、住民の有薗アヤさんと出会った。アヤさんに話しかけたジェフリーさんは、アヤさんがそのとき90歳で、夫の敬三さんは結核で50年前に亡くなったこと、11月に迎える五十回忌に向けて、昔、入院中の敬三さんと交わした手紙を久しぶりにひっぱりだしたところなのだと教えてもらった。
ジェフリーさんは、アヤさんにその手紙の一部を読み上げてもらい、衝撃を受けた。手紙は昭和39年(1964年)から43年(1968年)にかけて、入院中の敬三さんが、家を守るアヤさんや子どもたちが困らないよう、家業の農作業や畜産について助言するために書いたもので、「当時の暮らしぶりが事細かに綴られており、日常を語ることを通して交わされる、愛情あふれる文章でした」とジェフリーさんは話す。
この手紙の言葉は後世に残すべきだと考えたジェフリーさんは、アヤさんが快く承諾してくれたこともあり、ジェフリーさんの元・ゼミ生で同大の卒業生の中村優太さんと共同で記録として残すことにした。読み取れない字も多いため、週に数回、ジェフリーさんがアヤさんの家に通って手紙を読んでもらい、その録音を中村さんが文字に起こす作業が半年ほど続いた。
「正直に言うと、着々と死に向かっていく敬三さんの言葉を起こしていくことがつらくて、やめたくなったこともありました」と、中村さんは振り返る。
「でも、家に電話もなく、もちろんメールもないこの時代、手書きの手紙の内容から家族に対する深い愛情や、そのことが濃く滲んだ空気感がありありと伝わり、次第に敬三さん自身と会話しているような気持ちになったんです。親近感が湧いて、この言葉をなんとしても残したいと思うようになりました」
二人はラグーナ出版のことを、ニュース記事などを通して知っていた。文字起こし作業が始まったばかりの頃、出版の企画を持ち込んだ。そのときのことをジェフリーさんはこう話す。
「利益を期待できるような本ではないことを承知のうえで、僕たちがどうしてこれを本にしたいと思っているのか、どうしたらそれをきちんと伝えられるのか、川畑さんは何時間も話を聞き、相談にのってくれました。心から本が好きで、本をつくるまでのプロセスを大事にしている人だと感じ、ラグーナ出版と一緒にこの手紙をまとめたいという思いを新たにしました」
まずは敬三さんの五十回忌の節目に、親族向けに小部数がつくられ、現在は一般発売に向けた編集作業を行っている。
川畑さんは、「作り手の思いをていねいに伝えられる本を、小部数でもきちんとつくっていくのが使命なのだろうと考えています」と思いを新たにしている。
背中を押してもらった5冊!
文学は、人を救えるのだと気づかされた。
フロイトやユングといった心理学の本を愛読していた時代に出合い、「文学は心理学とは違い、分析ではない方法で心の襞を描き、人を救える」と知った本。一人の男性の人生を追い、絶望の中の希望を細かく描いている点に感動した。
精神科の権威と、患者がともにつくりあげた本。
ラグーナ出版の代表作といえる『中井久夫と考える患者シリーズ』の第1巻。精神科医の中井久夫氏が監修・解説を務め、患者の体験記と併せて掲載。患者、家族、支援者がともに精神障がいを理解することを目指して出版した。
つまずいたとき手に取る哲学者の震源集。
20世紀を代表する哲学者の一人、ヴィトゲンシュタインによる箴言集。大学時代に読んで以来、今も座右の書にしている。「何かにつまずいたときに手に取ります。名言だらけで、ページをめくっているとそのときに必要な言葉と出合えるんです」。
中井久夫氏の代表的著作を集めたシリーズ。
中井久夫氏の著作集第1巻。精神疾患を単なる病の症状としてではなく、歴史や文明の特徴としてとらえる論が展開されている。「精神病は焦りが重なれば誰でもなり得るもの。謙虚さをもって向き合うことが大事だと教えてくれます」。
意志とは何かを教えてくれた本。
「私がここにいるのは自分の意志ではなく、社会の仕組みに意志させられているから」と説く本。実存と構造の関係を見る力を養い、日本の精神科の状況について考えを巡らせることができ、変えるために行動を起こそうと思えるきっかけになった。