大豆に麹と塩を混ぜて発酵させたペーストをお湯に溶いて汁にする。日本ではおなじみのこの味噌の使い方、実はお隣の朝鮮半島や中国では当たり前じゃなかったりする。いったい味噌はいつ味噌になったのか? 2つの例をあげて考察してみようではないか。
味噌のカテゴリー分類
日本における味噌を俯瞰してみると、中国をはじめとして東アジア一帯で発展した、「旨味が溜まったもの」ものを総称する「醤」のなかの、さらに穀物や豆類を使った「穀醤」という小カテゴリーに分類される。とりわけ大豆を主原料にした醤が、日本では味噌(固形)・醤油(液状)になって全国津々浦々に普及するスタンダードとなっている。ここまではOKだよね?
大陸から醤が持ち込まれ、やがて日本的な味噌が確立していくまでの過渡期にある「醤→味噌のブリッジ」的な発酵文化がローカルにはまだ残っている。愛知・東海の豆味噌、和歌山・近畿の金山寺味噌の2つだ。
成り行きで発酵する豆味噌
味噌は通常、穀物にコウジカビをつけた麹と大豆を混ぜ合わせてペーストとする。東北をはじめ、東日本一帯では米の麹、九州や瀬戸内海では麦の麹だ。しかし愛知・東海地方の豆味噌(愛知県岡崎の八丁味噌が有名)では、大豆自体を麹にしてそこに塩水を混ぜて味噌にしていく。つまり「麹をつくる」というプロセスが分離せず、大豆がそのまま成り行きで発酵していくという非常にシンプルな製法なのだね。これは中国の豆豉、韓国のメジュといった穀醤によく似ている。なぜ大陸では麹をつくるプロセスが分離していないかというと、麹をつくる発酵カビの働きが違うからだ。大陸のクモノスカビやケカビは酸を出して雑菌をやっつけるタフな微生物だが、日本のコウジカビは酸を出さず繊細な微生物なので、麹室と呼ばれる密室をつくってコウジカビだけを隔離して麹をつくる必要があった。こうして日本独自の製麹と呼ばれるプロセスが発達して、大陸の味噌とは違う調味料ができあがった。豆味噌は、その製麹プロセスが独立する前の大陸のルーツを強く反映した味噌といえる。
おかずとして食べる金山寺味噌
さて。もう一つのルーツ、金山寺味噌。和歌山県・湯浅町を中心に中世からつくられている不思議な発酵食品だ。これは麹にナスやショウガなどの夏野菜を漬け込んで発酵させ、ご飯のおともに食べる「おかず味噌」だ。味噌というと、味噌汁にしたり煮物に使う調味料としての役割が一般的だが、金山寺味噌はそのまま具材として食べる。つまり調味料とおかずの中間、言い換えると味噌と漬物の中間のようなものなのだ。で、もう一個特筆すべきは麹のつくりかた。なんと金山寺味噌の麹は米と麦と大豆の3つを混ぜる(全部の蔵ではないようだが)。この製法のルーツは、中国の醤菜と呼ばれる醤漬物であるという。恐らく雑穀を混ぜあわせてつくる大陸スタイルの麹に野菜を漬け込む製法が日本の食文化にあわせてアレンジされていったのだろう。豆味噌では「麹づくりを分離する」、金山寺味噌では「調味料としての味噌」という現代の常識にあてはまらない、大陸的な醤の原型と可能性がアーカイブされている「発酵のノアの箱舟」なのであるよ。